ワカキコースケのブログ(仮)

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『男はつらいよ お帰り寅さん』は凄い映画だったの巻

2020-12-28 07:20:25 | 日記


2020年ももうすぐ終わる。ブログに書きたかったなあ……と悔いが残るものは沢山あるが、ひとつでも減らしておきたい。
僕の場合、ブログに書きたい=頭の中でいろいろ湧いた想念を整理しておきたい、ということだ。その筆頭が1月に見た、

『男はつらいよ お帰り寅さん』

2019 同作フィルムパートナーズ/松竹配給

 

ほぼ1年前になるのに、書いておきたいムズムズがとうとう年末まで止まらなかった。やっぱ『男はつらいよ』は最後まで他とはケタが違う。

『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別編』(97公開)がシリーズ最後の作品とカウントされているので、それから22年ぶりの最新作となる。
実質は、渥美清が前年に死去した反響を受けての第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(80)のリバイバルだったが、冒頭で、就職して間もない諏訪満男が、伯父さん=車寅次郎のことをふと思い出す場面などが新撮で追加されている。それで今までシリーズの最終作、第49作となっていた。

その場面で満男は、地方の駅のホームにぶらっと立っている伯父さんを見つけたような錯覚を起こす。CG合成によって寅さんが蘇るという趣向は、当時はけっこう話題になった。
ともかく、それから22年経ったところで、初公開から50周年記念でシリーズ第50作と銘打ち、寅さんの新作を作る。しかもタイトルが『お帰り 寅さん』。

一体なにがしたいのか、と僕を含めた多くの人が戸惑った。CGで寅さんが蘇る、はもうやっているじゃないか。珍作を見ることになるのはあまりにも忍びない……。

結果、唸りっぱなしでした。
今『男はつらいよ』の新作を作る意図みたいなものは幾つかインタビュー記事を読んだが、10ヶ月以上経つとどれも頭に残っていない。綺麗な、美しい理由が語られていたとは思う。
僕の印象は逆で、それゆえ、唸った。山田洋次という人はやっぱり怖いな……とゾッとするほどだった。

オレの目の黒いうちは少年時代の寅次郎を描くオリジナルドラマを作っても、ビームスジャパンとコラボレーションしたグッズを作っても、何をしてもいい。
しかし、俺が死んだあとは、寅さんの新作を作るふるまいだけは絶対に許さない。そんな山田洋次の意思が一番のテーマだ、と僕は感じ取ったのである。

『寅次郎ハイビスカスの花 特別編』が最後のままだと、またいつか寅さんが帰って来るかもしれないね、という余白が残る。『お帰り 寅さん』はその余白を念入りに摘み取る。どんな形であれ、勝手にいじって〈その後〉を紡げないようにしている。江戸幕府を開いた後も安心せず、自分の子孫が将軍になっても勝手な政治を行えないシステムを作った徳川家康を連想させる。

念入りに摘み取っている端的な例は、くるまやの人々の暮らしがもう、寅さんは帰ってこないのが前提になっている設定だ。
そしてもう、そのことで寂しくなったり、懐かしく思い出す時間すら滅多になくなっているのが描写の端々で分かる。最初から、寅さんはもうとっくの前にいない世界の物語として『お帰り寅さん』は始まる。シリーズ最新作であり、完全な最終作なのである。

では寅さんはどうなったのか。風来坊の末路としてせめてもの風流な野垂れ死にを遂げたか、あるいは、施設に入るなどの現実的な終末の日々があったのか。
そこを見る人に想像させないよう、『お帰り寅さん』では二重の死が配置されている。

映画は、久しぶりにくるまやに家族が集まり、法事を行うところから始まるのだが、その法事は、満男の妻の七回忌だ。

これはかなりの判断による飛ばし方である。22年振りだから、満男の結婚を描かれているところは誰も見ていないし、妻が誰かも知らない。初めて見る娘のユリも、もう高校生。こちらの死のほうが直近であり、満男はその妻を失った虚脱をまだ引きずっている。しかし、そのクヨクヨした言動だけは、シリーズ後期と結びついており、ああ、あの頼りなかった満男クンらしいや、とファンの心から懐かしさを呼び起こす。

こういう形で、寅さんの死をリアルに考えさせる余地を見る人に与えることなく、それでもこれはれっきとした『男はつらいよ』の新作であると、スンナリ了解させる。

さらに。それにしても、くるまやの主人だったおいちゃん、おばちゃんはどうしたのだろう、と気になるタイミングで、仏壇に二人の遺影があることをキャメラの寄りで映し出す。

序幕での、もう寅さんは帰ってこないと見る人全員に了解させる念の押しよう。
震えがくるほどさりげなく、精密だ。
だから山田洋次は怖い、日本映画史上最も映画づくりが巧い(と僕は思っている)人なだけはある……と唸ったわけだが、それだけ、このシリーズを大事にしているんだな、と素直に感動もした。

寅さんどころか、おいちゃん、おばちゃんももういない。それでも日々は過ぎ、満男の娘であり、博とさくらの孫のユリは、まるで第1作の時のさくらのように、古びた家を明るく灯す存在として元気よく出入りしている。そういうところを温かく描いている。
〈寅さんがいない「寅さん」〉を描くことは、いずれにしても必要だったのだ。

全国を気ままに旅する(テキヤの行商の世界に身を置いている、という後ろに沈めた設定はちゃんとあるのだが、多くのカタギにはそのように見える)稀代のトリックスターに「お前ら、毎日何が面白くて生きてるんだ」とあしざまにおちょくられてきた人々の、寅さんがいなくても日々ドラマはあるんですよ、というところを大きなアンサーとして見せる。シリーズ最終作にふさわしい。

そのうえで、満男が初恋の相手である泉と再会し、大人の恋をするストーリーが縦筋になる。
これはこれで、いい。過去のシリーズは実は、実直に生きてきた男女同士の恋が豊かなサブストーリーとなっていた(十朱幸代と上條恒彦、大原麗子と室田日出男、栗原小巻と川谷拓三……エトセトラ)。佐藤忠男が『みんなの寅さん 「男はつらいよ」の世界』(92 朝日新聞社)で見事に説いていた山田洋次の監督作品に一貫したテーマ―古いタイプの日本の男は、いかにして愛の告白を果たせるか―の、集大成と言えるものにもなっている。

ここでもう一つ、僕が書いておきたいポイントは他にある。

物語のなかで、階段の扱いが物凄く効いている点だ。ストーリー上で不可欠に階段があり、物理的に階段があることによって成立している「二階」という空間の扱いが、シリーズ最終作である事実を見事に納得させている。

まず、くるまやの一階。その上がり框にはバリアフリーの手すりが付けられている。『お帰り 寅さん』を見た人の多くがこれを見て、ああ、ずいぶん時間が経ったのだ……と感慨に誘われたはずだ。
おいちゃん、おばちゃんが晩年の時に取り付けられたのかもしれない。しかし、高齢になった博とさくらにとっても今は必要なものになっている。

そこで、年齢による具体的・肉体的な昇降の不自由さが明確に示されたあと、博とさくらの会話で、二階が今はふだん物置になっているのが暗示される。
博が掃除をしに階段を上る姿は映るが、ついに最後まで二階は出て来ない。

そう、ここに気付いて総毛だつ思いをした人はいるでしょう。
くるまや(旧とらや)の二階が登場しない『男はつらいよ』は、かつてなかった。『お帰り 寅さん』がたぶん、ほぼ―これの確認のために49本を見直す作業はしていないのだが―初めてなのである。

なぜ今まで、くるまやの二階は必ず出てきたか。
たまに帰って来る寅さんのしばしの自分の部屋になっていたからだ。それに、毎回のゲストが泊まったり、下宿部屋にしていたり。つまりは客人のための空間として機能していた。

その空間が今は物置となって実質上封鎖されている。寅さんがもうお客を連れてくることはないからだ。

寅次郎の不在が既定になっているのを、セリフでの説明だけでなく、舞台の設定によっても説明しおおせている。こういうところで山田洋次、巧い……!と僕はなる。

逆にそのことで、寅さんの存在的魅力の本質も分かる。歴代のマドンナは、寅さんと親しくなる以上にさくらに心を開いて女友達になり、おいちゃん、おばちゃんを慕うようになる場合が多かったのを思い出す。そして寅さんも、好きな女性が「自分の家のように」くるまやを思ってくれるのを何より嬉しそうにしていたのを。

寅さんのいいところは、善き人をくるまやに連れてきて、外からの新鮮な空気を持ち込んでくれることだった。それが役割だったのだ。
外界と内界を結ぶ情報ブローカーとしての、まさにトリックスターである。ただ、トリックスターであるがゆえに、外界と内界の調整のためのスケープゴートにもたやすくなる。マドンナと庶民、定住者の代表であるさくらが親しくなった時には、寅さんの失恋は常にあらかじめ予告されていたのだ。

日本映画学校の学生だった時、今でもよく覚えている授業のひとつが、長部日出雄さんの講義だった。

「寅さんはあくまでトリックスター。『男はつらいよ』の本当の主人公はさくら」

長部さん、何を言ってるんだろ……と当時は戸惑ったが、結局はかなりこの視点に僕は影響され続けてきた。
少なくとも、寅さんの世界(トリックスターの外界の旅)と、さくらの世界(庶民、定住者の内界の営み)が交わり、また離れる繰り返しによって長期シリーズは成立してきた。

その、外界と内界の交わりと離別の象徴的空間だった二階が、物置になっている。
このままでは物語は動きようがないのだが、イタリアから久しぶりに帰国した泉を、諏訪家の人々は一晩懐かしい客人として泊めることになる。(前述した、博が二階を掃除しに行くのはそのため)

ところが。それでも、二階そのものは登場することはないのだ。

夜のささやかな語らいが終わり、床が用意された二階に上がっていく泉を、下で満男は見送る。
仰角のアングルで、くるまやの階段が正面から映される。面白いことに、シリーズの中で二階が登場しないのはほぼ初めてだというのに、階段が正面から撮られるのもほぼ初めて。

 

写真の説明はありません。



意図はちゃんとあって、満男が階段の下から泉を見上げる同じアングルが過去にもあったことが、過去の名場面フラッシュによって重なるのだ。第43作『男はつらいよ 寅次郎の休日』では、家に戻ってきた満男の帰りを、二階で泉が待ってくれていた。

『お帰り寅さん』は、ちょうどシリーズ過去作のオール4K化という松竹の数年がかりの事業によって、新作のなかで名場面がいくつも蘇る趣向が可能になっているのだが、ここが一番効いている。30年後のリフレインという形で、満男と泉のあいだで遠い日の初恋が活き活きと蘇るのが説明なしで示されるからだ。

しかし。ここでも、あらかじめの失恋(想いを鎮めること)はあらかじめ、描写によって示される。

満男はふだん、ユリと一緒にくるまやの近くのマンションに住んでいる。
泉を(画面には登場しない)二階に送った後、ユリとマンションに帰ろうとするのだが、ユリは「今日はおじいちゃん、おばあちゃん、パパと4人で寝ようと決めたの」と、奥の間に、さくらと一緒に布団を楽しそうにひいている。特に反対する理由もなく、満男はそれに従う。

ここがひとつの分岐点となっている。
小説家で成功しつつ(吉岡秀隆で小説家といったら東宝の近年のアレだが、山田洋次はこれまでも、別の映画で高倉健を網走刑務所から出所させたりなど、他社の人気映画の要素をキャスティングのいたずらで取り入れてきた。そこらへんの毒ッ気も健在)、妻を失った後の心の空白、新作小説への気の乗らなさなどで精神的踊り場にいる。

何かきっかけがあったら、それこそ伯父さんのように外界に飛び出したい気持ちがある。そこに、泉である。国際的な難民活動の通訳などに従事している彼女のまとう空気は、まさに外界への誘惑となる。
まさにその時に、ユリはくるまやの一階で寝ようと提案する。そこはいつも、おいちゃん、おばちゃんが寝ていた(そして夜中に酔っぱらって帰って来る寅さんによく迷惑そうな顔で起きた)奥の間。

あくまでユリは無邪気に提案するのだが、父親が、泉という新たなトリックスターに引きずられるのを直感で察していたのかもしれない。

かつて山田洋次は、小津映画における二階とはいずれ去る人が住む空間なのだと『監督 小津安二郎』(83 筑摩書房)で読み解いた蓮實重彦に、くるまやの二階の扱いには深みがないと批判されている。

「それはあくまで一階の店舗の延長としての生活空間にすぎず、後期の小津にみられるような周到な説話論的な機能を果たしていない」

そう言われたらそうか、という気もするのだが。

『監督 小津安二郎』は、映画批評において現在最大の影響力を持つ蓮實のエッセンスが読める本だ。
なかでもハイライトは「映像の主題論と脚本の説話論が同調し、関係を逆転させる瞬間」について。
ハスミさんについて語る時、なぜか映画の文章を書く人の多くがさらに難しい言葉を使い、話をややこしくする病気にかかってしまうみたいなので、僕のほうは逆にひらべったく噛み砕かせてもらう。要はこういうことだ。

うまい映画を見ていると、男女の別れの場面でも、その二人は何か理由があって別れるのではなく、いつもは閉まっているドアが開いていることによって、去らざるを得なくなってしまったのだ―そんな物語上の意味と映像の意味があべこべになったような錯覚が起こる瞬間がある。そしてその錯覚の瞬間ほど、映画を見ている気持ちよさを味わえる瞬間もない。
そんな転倒した確信を抱かせる瞬間が、演劇にも文学にもない、映画の特権的な面白さなのだ。
大体、そういうことをおっしゃっているのだと思っている。

それを踏まえて『お帰り寅さん』の、くるまやの二階は物語上は「ある」のだが、画面上は一切「ない」、そのことで寅さんの不在、及びこれまでの役割が分かってくる面白味を考えると、三十数年越しの山田洋次から蓮實重彦への応答が行われたのかもしれない、という妄想をしたくなってくる。

満男は二階に行けず、二階に上がる泉を見送るしかないから、やがて再び別れなければならない。
泉もまた、存在しないのにシリーズのそれまでの累積的記憶によって「客人を止める空間」としての二階へと消えることで、満男のもとを再び去る。
少なくとも、物語における階段と二階の意味と、映像における階段と二階の意味が『お帰り寅さん』では見事に反響しあっているのだ。

そこになんとくなく気付きながら見ていた僕は、終盤近くのある場面で、これは本当にしっかり計算されての演出だと分かり、これこそウーンと唸った。

満男には担当の編集者の女性がいる。彼女はマンションの満男の自宅(マンションの外からのカットは最後まで一切ない。だから階段の必要がない一階なのか、二階以上なのかも伏せられている)もよく訪れ、ユリの勉強を見てあげたりしている。

そこに恋愛の気配を具体的に感じさせる描写はなく、だから満男と泉の再会によって三角関係が生まれたりもしないのだが、泉との別れ(お互いの想いを確認してから、お互いの家族を大切にしようという大人の別れなので、決して悲痛なものではない)を経た後、新作小説にようやく本腰を入れることを決める満男からの電話を、その編集者は駅近くの階段を下りながら聞く。

二階への階段をのぼった泉と、一階に寝た満男と、階段を下りる女性。
このアクションで、この女性が『たそがれ清兵衛』(02)のように、満男父子の今後の人生にとってあたたかい存在となってくれることが活き活きと暗示されるのだ。
脇役の女性が階段を下りる姿のみで、将来の祝福を予感させる。鮮やか。

満男と泉の再会の数日間は、もろにデヴィッド・リーンの『逢びき』(45)をベースにしている。
「家庭が生きがい」の主婦がある男性に強く惹かれ愛し合うのだが、家庭を捨てるのをギリギリのところで思い留まる。その時、妻の変化に何も気づかない凡庸な男に見えていた夫が「おかえり」と言う。
ダブルミーニングがこんなにバチッと決まった例はそうそう無くて、最高のタイミングで言えば「おかえり」のたった一言でも映画史上の名ゼリフになる例を作った。
それにあやかっている『お帰り寅さん』では、泉との再会に心が揺れ、(こんな時に伯父さんがいてくれたら……)と何度も願いながら、やっと小説家として、父親として仕切り直しを決めた満男に、娘のユリが「おかえり」と言う。

『お帰り寅さん』というタイトルなのに寅さんが帰ってこないじゃないか、という批判……ほどでもないツッコミは公開当時ネットでよく見られたが、映画館に寅さんがまた帰ってきましたよ、という意味と、中身そのものは『逢びき』をベースに、寅さんとの本当のお別れを描いているんですよ、と理解されたい。それこそダブルミーニングになっている。

もう一つ、洋画の連想を言うと、シリーズ過去作のフッテージが回想フラッシュで入って来る時のタイミングとキレは、『普通の人々』(80)と実によく似ていた。今までのシリーズにはなかった演出の色である。あれも、家族のひとりの不在を家族自身で乗り越える物語だった。

結局は、一階に住まう者を寿ぐのが山田洋次の映画なのだ。だから寅さんがもういないのが前提でも『男はつらいよ』の新作は作れたし、作っておく必然があった。ただし、象徴としての二階を否定したわけではないだろう。

ここまできて僕はやっと、山田洋次の監督デビュー作のタイトルが『二階の他人』(61)だったことに気付く。
若いサラリーマン夫婦が、借家の二階を下宿にして副収入を得ようとするものの、入って来るのは滞納の常習犯や駆け落ちカップルなど、トラブルの種になる人々ばかり……という小ぶりのシチュエーションコメディだが、せちがらい態度に出ては後味の悪い思いをしたり惨めな気分になる仕打ちを味わったり、散々な目にあった後、それでも2人はこんな会話を交わすのだ。

「また、いい人が来てくれるといいね」

新作『キネマの神様』では、どんな象徴的空間としての二階が現れるのだろう。どんな人が入ってくるのだろう。楽しみにしています。

 

ただ、もうひとつ。
泉の関わる国際的な難民支援活動を紹介される場面では、広河隆一の写真が使用されている。
彼のセクシャルハラスメント、パワーハラスメントが告発され、報道されたのは2018年12月だから、山田洋次がそれを認識したうえで使用したのは間違いない。
これに関しては「彼のこれまでの仕事や実績は別。そこまで社会的に葬るべきではない」という考え方なのかどうか、聞けるものであれば聞いてみたいとは思うし、一方で答えを引き出すのはおそらく無理だろうとも思っている。

絶賛を連ねておきながら、(山田洋次は現実の世事には実はおそろしく無頓着な人なのではないか)という予測も、僕のなかには実は昔からあるのだ。それでも出来上がる映画はどれも珠玉とくる。だから出てくる言葉は、大ファンです!ではなく、山田洋次は怖いな……となってしまう。

 


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