ワカキコースケのブログ(仮)

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ワカキコースケ、日本を語る~超・お花畑篇~

2017-10-16 02:18:10 | 日記


さて。夜中にパパッとツイートしておきたくなった考えを、連投になる代わり、久しぶりのブログに。

トークやシンポジウムなどで「(現在の政治などについて)注意深く考え続けなくてはいけない」と意見をまとめるのがうまい僕の知ってる人たちって、いっつも「考え続け」てるなあ。大体、あんまり「考え」をまとめようとしている節も無いなあ、と感じるので。
まず、僕から。

今後はますます、今まで以上に。ものごとが見えやすい人は、見えにくくて頑迷になっている人に対して親切にしませんか。

これに尽きると思っています。

「安倍首相に全幅の信用は置けないけど、他はみんな危なっかしいから自民党に投票する」
「共産党? 社会主義は個人の人権を認めないんでしょう。怖い」

まだそういうご意見の人たちに対してです。親切。これのみ。

一応は僕も、それなりに考えてはいるんですよ。難しい言葉を使って考察風に書けと言われたら書けます。でも、それじゃああんまり意味が無い。(あと、寝る前のブログなのでめんどくさい)
ただ、2014年1月、元旦にここでワッと書いたものと言いたいことは大差ないのです。

以下、茶字にしているものがその引用。



僕が言うあるタイプの層は、常に大きな受け皿を必要とする感性を持っている。そして日本の成人の、おそらく半数を占める。これはもう是非もない。現実だ。しかし新興宗教は、大きくて力強い考えのなかにいる安心感と引き換えにかなりの負担を課してきた。あこぎだった。右肩上がりの時には通用したけど、今はそんなやりかた、ダメだ。その点、現在のナショナリズムは、多額の金銭や折伏のノルマがないだけ良心的だ、とは言えるのだ。

つまり、僕は、現与党の激しく世の中を変えたい欲求の謎、どうして保守であることをやめたか(本来の保守とは、人間という不完全な存在が急激な変化を起こしてもうまくいかない、だから違う考えの者同士の話し合いが大事、と考える漸進主義のことだ。僕は考え方としてはゼンゼンこっちである)の、ひとつの仮説に、〈国会の新興宗教化〉という像をイメージしている。
アベちゃんを支持する人の頑固さには、イケダ先生や韓国のオトウサマの批判にはぜったいに、はなっから耳を貸さなかった、かつての同級生や親せきの姿がダブるのだ。直感で、どうしてもね。

「愛国心」を“現代の新しい(しかも、やはり重要と思うが、お金をかける負担を強いない)宗教”と感覚的に捉えている人にしてみれば、勉強して昔の歴史とかをよく知っている人に頭ごなしに危険視されたら、まあ、それはそれで不愉快だろうなあ、と人情論的な理解もしている。実際、学者やインテリの市井の人に対する物言いって、往々にしてとても冷たく響くのだ。そのアタマくる感じは僕もよく分かる。もろにリベラルを自認する、特に社会運動にコミットしている年配の方は、そこらへんをぜひご注意ください。

せめてこっちは、はなっから批判的な態度で接することなく、我々は穏健なヒューマニズムのほうが性に合うものでしてね、となんとかうまく対話したいと思っている。繰り返すが、今の若いナショナリストはイコールみんながみんな右傾化、と断ずると、リベラル寄りの人だって偏固な予断で耳を貸そうとしていない、お互い様ってことになるのだ。


全文は、こちらから。ご興味ある方はスミマセンが検索ください。うまくリンクできないので。
http://blog.goo.ne.jp/wakaki_1968/e/46312aac9e01da2f7d9aaf4aafe18cc9


なにかよく分からないが世の中が動いてムードを変えてくれないか、というここ数年の感覚的な期待に、いちばん大きな声で景気のいい返事をしてくれたのは、自民党だった。で、自民党のほうもなにかよく分からないが、とにかく動かしましたよ!とカタチにしたい。結局なにもしないしできないじゃん、と思われるのが何よりも怖い。

改憲の正体は、実はこんな程度のことだろうと思っている。でないと、ああいう思い付きの連続の説明が理論的にはつかない。

でも、こんな程度だから、すさまじく手ごわいのだ。

与党勢力と偏固な市民のみなさんは、相性がいい。理屈が苦手という一点で、強烈に結びついている。
「理屈じゃねーんだよ、要は気合いだ」という(日本人の中に根強く流れる)ドメスティックなノリで、期待するほう/期待にこたえるパフォーマンスをするほう、ともに噛み合っている状態のところに、「ヤレヤレ、立法と司法の違いも説明できない総理大臣に……」とモロに意見するとどうなるか?

まあ、どうなるかって、こうなってんですよね。今の我が国のマジョリティがまとう空気になっている。みなさんのほうがよくご存じの通り。

で、ここから僕なりに改めて言葉を足すと。リベラルの人も悪いのです。だって、恥をかかせてるんだもん。理詰めと正論で人を攻める行為ってね、とても人に恥をかかせるんですよ。
しかもヤンキー気質の人に、人前で恥をかかせることが一体全体、どれだけ非人情か。

常用漢字も読めないアベちゃんに対してネ、東大工学部の志位さんはちょっとあったかみが足りないと思うよ。実は。立派な方だと思っているけど、できない子の気持ちを分かるのが少し苦手かな。
モリカケ問題って、どうしたって、「おまえのカミさんハートが壊れてるし、おまえのことなんか何も心配してないのな」「おまえの友達って、おまえを金づるだと思ってるやつばっかしな」とみんな薄々思ってますよ、と一番えぐられる(僕なら死にたくなる)部分を攻めざるを得ないんだから。直球だとますますこじれる……ある程度の逃げ道を交渉、駆け引きで用意することができないものか……と「報道ステーション」などを見ながらハラハラしていたら、残念ながらそうなりつつある。その点においては、志位さんも僕からしたら、男として少し物足りないのです。

僕はもし学校の先生だったら、できる子にはできない子の目線に合わせる思いやりも持ってほしい、そこで辛抱を覚えてより成長してほしい、という指導に傾くだろうタイプです。そういう前提で言っております。

今はもっとルース・ベネディクトの『菊と刀』がちゃんと読み返されるムードになればいいなと思っています。学術書としてはとっくに古いのをもうずっと通り越して、再びストライクの書になりつつある。

「日本人は、自分がどう思うかよりも、人からどう思われるかのほうを優先して物事を考える」

この指摘、ベネディクト女史が書いた戦前も今も変わらないと思いませんか。

要するに、インテリの人は往々にして、できない子に無理を言うのです。それがパヨクと嫌われる主な原因かと。

強く見せるのが大好きな、しかも二世とかそれなりのハクが付いている人に「これからの日本はこうだ!この道しかない!」と引っ張ってもらえると(人任せに出来るから)安心する人たちに向かって、「世の中には正解など存在しない、ゆえに個人を主体に物を考えろ。できない奴はバカだ」なんて叱ったりしたら、ますます不安になるじゃん。スキー場でいったら、転び方も教えてもらってない子を無理やりリフトに乗せて、さあ、一人で滑り降りろと言ってるようなものだ。

もっとロコツに言っちゃうと、民主主義を戦後日本が選んだってことは、頭がいい子もわるい子も同格、進歩的な感覚を持つ柔軟な人とヤンキーノリを否定されると傷ついてむくれる人が同じ部屋に住む、と決めたってことなんだから。
なのに日本はかなり長いあいだ、頭のわるい子の分が悪く、頭のいい子が無頓着に傷つけ、黙らせ、得をする時代が長かった。

合衆国におけるトランプショックの直截な教訓は、また頭のいい子が優位に立つ世相に戻そう、ではないと思います。すぐにパパッと物事の察しがつくわけにはいかない子、一人で物を考えるのは難しいーでも、役割やポジション、互いにとって適切な居場所をまわりが考える配慮、まさに親切で力を発揮できる子と、仲良くやることだと考えます。

仲良くやる分、ペースも何も落ちていいじゃん。観光ポイントもあるし、アニメや漫画もあるし、十分に旧・主要国/中進国としては世界にかわいがってもらえる国になるよ。で、それぐらいになった時に再び発揮できる技術力などなどのポテンシャルは、相当なものだと僕は確信しています。敗戦の焼け跡からいざなぎ景気までわずか20年なんてさ。秘めたるアホアホパワーに関してはとてつもないですよ、我々日本人。今はそんなポテンシャル、落ち着かないテーブルに出してもムダだから出したくないって、民族的集合無意識が隠してる状態なのです。

もちろん、経済、社会保障、人権、いろいろひずんでいる真っ最中のなかで。どんな議論の場においても、まずは理詰めでへこませるのではなく、笑顔で親切に……なんてのは。
今、日本の誰よりもお花畑なことを言っているのはボクのこのブログかもなー、という自覚はしっかりあります。そこは申し訳ない。


でも、憲法でみんな平等な日本人と決めたんだから。立ち返るべきところはそれこそ、「理屈じゃねーんだよ」という気がするのです。












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