しかし、つくづく、仕事と全く関係ない文章を書くのは楽しい。ついつい夜中にまた始めてしまう。仕事も書くことで、気分転換も書くこと。まあ、なんと面白みに欠けた人間だろうかとさすがに少なからずは自覚している。
今回は軽音楽ばなしです。2月のサッチモの続きを……とずっと気にかかりつつ、まったく違う畑のものを。
最近、中古LPで仕入れたELOの(活動中に出た)ベスト盤をよく聴いている。
『ELO‘S GREATEST HITS』
JET/SONY 1979
ELOとは、ジェフ・リンが率いたエレクトリック・ライト・オーケストラのこと。で、エレクトリック・ライト・オーケストラとは、1970年代後半にヒッチャカメッチャカな勢いで売れたグループのこと。
リアルタイムではないので、どんなものかとベスト盤でざっと概観したところ、期待以上にたのしさ満載だった。ほとんどの曲が今もゴキゲンなんて、どんな大物のベスト盤でもそうそう無いことだ。
リアルタイム前の存在のベスト盤を聴くと、〈初めて聴く曲ばかりなのに懐かしさたっぷり現象〉がちょくちょく起きる。これが、特にELOでは顕著だった。
大きく括れば、アメリカでも成功したイギリスのプログレッシヴ・ロックという集団に入る。同時期にヒットを争っていたクイーンや10CC、スーパートランプなどと共通するのは、ロックンロールを創った人達に憧れて音楽を始めた、第二世代的感性だ。ロックンロール/ポップスの「僕達はここにシビれて育ったンですよね」という部分(ギター・リフやコーラス、サビの構成)を愛情と執着込めて拡大再現することで、ロックンロール/ポップスの“らしさ”を規定し、手間暇かけてアップ・トゥ・デートさせた世代。だから70年代のこの集団のヒット曲は、今聴いても普遍性が高い。
とりわけELOのジェフ・リンの場合、元ネタがハッキリしているのが面白い。
ベスト盤では、
★「Ma-Ma-Ma Belle」など、ギター・リフで押すブギー調の初期。(これはこれで、そうか、T・レックスやスレイドと同時期に売り出したんだよなーと微笑ましい)
★ああ、俺って柔らかくてキャッチーなメロディーとストリングスを丁寧に織っていく工芸品づくりが好きなんだと「Can‘tGet It Out Of My Head」「Livin Thing」などで本人自身が明らかに急速に目覚めているブレイク期。
★そして、掴んだ自分なりの勝利の方程式を、ディスコなどの最新サウンドを意識してシンセサイザーを導入しながらスケールアッブさせた、きらびやかな「TurnTo Blue」などのピーク期。
と、駆け足ながらコンパクトに辿ることができる。中でも特にブレイク期は、今ならサンプリングに聞こえるぐらい、ビートルズ、フィル・スペクターの“らしさ”の再現が、あちらこちらで小技のように躍っているのだ。その楽しそうなファン気分な作り込みかたそのままに、ピーク期ではリアルタイムを知らない僕でさえ、いかにもELOらしい音、とすぐ思える位、個性がハッキリする。
つまりジェフ・リンは音楽の遺産を愛する生粋のマニアであり続けながら、なおかつその趣味嗜好をオリジナルに昇華できる才能の持ち主。好感を持つなというほうがムリだ。
しかし、ここで、自分自身に対する疑問が生まれる。ジェフ・リンがそういう人なのは、もとからある程度分かっていた。なのに、どうして今までちゃんと聴いてみようと思わなかったのかな。
まず顧みて一番に上がるのは、タイミングの問題。
僕が洋楽ヒット・チャート大好き少年として日々を邁進していたのは、1983年から86年まで。ちょうど、ELOの活動がピークを過ぎ、一段落した時期に当たる。十代の時は一年一年の質量が大きいから、この4年の間にビッグ・ヒットを出してくれない70年代のヒットメーカーは、どうしてもとっかかりが無かった。
ジェフ・リンの作る音と初めて本格的にぶつかったのは、彼が本格的にプロデュースを手掛けるようになった最初の仕事、ジョージ・ハリスンの1987年のアルバム『クラウド・ナイン』だった。
当時はすっかり(たまに映画の製作をする)過去の伝説の人だったジョージをいきなりヒット・チャートの上位に復帰させた『クラウド・ナイン』以来、トラヴェリング・ウィルベリーズ、90年代の『アンソロジー』プロジェクト、ポール・マッカートニーの『フレイミング・パイ』などで、僕だけでなく、世界中のビートルズ好きはみんな、ジェフ・リンにひとかたならぬ世話になった。
「でしゃばり過ぎ、自分の音にはめ込み過ぎ」という声もよくあったのは事実だが。元ビートルズのメンバーに「今度の現場、仕切ってよ」と頼まれて「はい」と答えてしまった男に、遠慮する選択肢なんか許されなかったことは、今ではかなり理解できる。「アナタがどんな音を奏でると輝くのか、今ではアナタのレコードを聴き狂った私のほうがよく分かっているんですよ」という後進ならではの“立てて伸ばす”リードは、同時にロック/ポップスの文化としての伝承方法のロールモデルになった。ボブ・ディランをスランプから脱出させたダニエル・ラノワ、ローリング・ストーンズに屋号を守る自覚を植えつけたドン・ウォズ、ジョニー・キャッシュやニール・ダイアモンドらを蘇生させたリック・ルービン、和田アキ子や八代亜紀に冒険をさせた小西康陽のプロデュースの、ジェフ・リンは先例といえる。
こうして〈ビートルズ再生仕掛け人〉としてのジェフ・リンに親しむと、逆に、あまり遡ってジェフ・リン個人が出す音を知りたくない気持ちは確かにあった。それでも1枚ぐらいは聞いておこうと、79年の大ベストセラー『ディスカバリー』は後で買っているのだが、あまり印象が無い。今も部屋の奥のどこかにあるはずなのだが、探し出そうという気にも実はあまりならない。
そう、ジェフ・リンにずっと好感と敬意を持ちつつ、なのにELOになかなか意識を向けなかった僕の意識は、定義してみると、(ビートルズ)ファンゆえの「反マニア心理」ってやつなのだと思う。
こういうこと、よくありませんか? 例えばKinkiKidsのファンが、デビュー曲「硝子の少年」を松本隆と山下達郎の大御所コンビが手掛けたことをとても誇りに思いつつ、だからといって、わざわざ松本の『微熱少年』を読んだりタツローのアルバムを揃えたりする気にはならない。かえってイメージの邪魔になるという、この感じ。
売る側はどうしてもそこで欲が出て、関連付けたリイシューなどを企画してしまうのだが。関連付けられたものが、関係あるものとしてアンテナに響く確率って、かなり読むのは難しい。
ELO自体は、世間ではしたたかにリバイバルしていた。05年の『電車男』テレビドラマ版で、82年のヒット曲「トワイライト」がオーブニング曲に使用されていたのは、記憶に新しい……わけでもないが、ああ、そういえば、と思い出すのに時間はかからない。ちなみにこの前、再放送を覗いたら「トワイライト」以外の要素が全て風化しているのでびっくりした。あのドラマの質を今更云々したいわけではなくて、それだけELOのポテンシャルが高いことに感心したのだ。
それに奥田民生。プロデュースしたPUFFYの「アジアの純真」が、もろにELOの換骨奪胎なのはよく知られているだろう。しっかりしたトリビュートというより、ちばてつやのキャラや東宝の怪獣をよく遊びで描き込んだ江口寿史の漫画のノリ。「これが私の生きる道」のビートルズ三昧もそうだった。かなり勤勉にマニアックなのに、それを「反マニア」「反コレクション」のリラックスしたサービス・センスで仕上げて届けているから、当たったのだろう。
普通、マニアは、自分のこだわりをいちげんさんに楽しく分け与えることができない悲しい習性を持っているものだ。複眼的な才能のありかたは、ジェフ・リンと奥田民生、本当によく似ている。
ともあれ「アジアの純真」によって、ずいぶんジェフ・リン=ELO“らしさ”のサウンドは世に広まった。僕もPUFFYのほうはCDを買って、ELOをすでに間接的にじゅうぶん楽しんでいたのだった。
ビートルズはもちろん、ニール・ヤング、ポリス、フーなどをどんどんネタにしてきた民生は、そうだ、確かにユニコーンの時は「大迷惑」「ヒゲとボイン」「与える男」、活動再開後の「HELLO」……と実にちょくちょくELOだったと、ELOのベスト盤を聴いて改めて実感する。
で、実感したところで、ユニコーンではなく、ジョージの『クラウド・ナイン』のほうを数年振りに引っ張り出して聴いた。もともとずっと大好きなアルバムだけど、ジェフ・リンが持てる技量と蓄積、ジョージ・ハリスンへの深い理解を本人の為に全力注入していることが前よりビンビン伝わり、鳥肌が立つほど素晴らしい。恩返し、という言葉がぴったり。
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