あー、イベントの告知以来の更新かあ。来て頂いた方の感想、ご意見、参考になることが多かったので、またやりたいし、やったほうがいいと思っています。
マスコミ試写で拝見して、まだ公開されていない何本かの中で、問答無用にケタ違いなのは、アレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』だ。
http://www.ivc-tokyo.co.jp/kamigami/
neoneoで先週イベントをやった時、編集メンバーの話題は(ドキュメンタリーじゃないのに)これで持ちきりだった。
ひょっとしたら、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』が日本に初めてやってきた時の評論家、記者のソワソワ、ワクワク(先に見ちゃって役得みたいでゴメン!)も、こんな感じだったんじゃないか、と言いたくなる。それぐらいのヘビー級。
で、これはもう、専門家が我先にと、争うように絶賛するのが分かっているので。
ここでは別の映画の話を。
『ナイスですね 村西とおる』
監督 高槻彰
2015 シネマユニットガス
夏公開予定
http://nice-desune.com/
監督のあいさつによると、去年11月の「第1回・新人監督映画祭」に出品・初披露した版に追加撮影シーン(まさにその映画祭のようすも出てくる)を加え、改編、新しい版になったとのこと。
プレスリリースなどはまだ用意されていない、関係者内覧の試写に、某映画館主の誘いで恐縮ながら潜り込ませて頂いた。
その館主は、僕に上映作の感想を聞いては「うーん、若木さんがホメるものは、客足が伸びないんだよなあ」と顔を曇らせる人だ。ちなみに僕が「すみませんけど、どちらかというとワースト……」と伝えたものは、そこの館で3年連続興収トップクラス。
『ナイスですね 村西とおる』は、見終ってすぐ「いいですね」と感想を言ってしまった。そこの館で公開されるかどうかは、今のところ分からない。
おお、80~90年代に一世を風靡した、あの村西とおるのドキュメンタリー映画だって! しかも爆乳AV監督&シネマユニットガス社長・高槻彰の劇場映画監督デビュー作だ。これは面白そう!
……映画の存在を知った30代後半以上の男性の多くが、これ位のインパクトは受けるだろう。
それにある程度、映像業界に出入りしている人なら、僕のように監督のことを直接存じ上げなくても、
「ガスの高槻さんが何年も前から村西とおるを撮っているらしい」
って噂話、まわりまわって聞いたことがあるのではないか。しかも2、3年後に聞くのも全く同じ、
「ガスの高槻さんが何年も前から村西とおるを撮っているらしい」
だから、一種の都市伝説みたいになっていた。ほんとに(10年以上前から)撮っていた、それが完成してこうして我々の前に、遂に姿を現したってことも、なかなかのインパクト。
しかし、映画自体の雰囲気は、穏やかである。
ディティールやタッチにエッジが効いているとか、鬼面人を喰らって鼻ずら引き回す式の仕掛けが張り巡らされているわけでもない。
さらに言うと、村西とおるのパーソナリティをこれでもかと見せられるのに、そんなに笑えて、笑えて……でもない。ボール支配率でいうと、「笑える」より「しんみり」のほうが上回っている。
そこに僕は、好感を持った。
穏やかに見えるのはなぜか。
あの〈アダルトビデオの帝王〉にも、妻子があり生活があった、仕事の苦悩や壁もあった、という落差をそんなに強調していないからだ。
観客の好奇心を煽るためにやれば出来たことを、していない。監督自身が最初からそこを面白がりどころだと捉えていない。〈ハメ撮り〉〈駅弁ファック〉の破天荒なキャラクターはほぼカメラの前のペルソナであることは、重々承知している。その上で村西を題材にし、同業の先輩の人となりを描いている。
ここで言う落差とは、社会通念上のことだ。AVも仕事なんだってこと。
僕が最初に、そういう視点に目覚めたのは中一の時に毎晩開いていた本。タイトルを思い出すだけで胸がキュンとなる『ビニール本の恋びとたち2』北村四郎(1981・二見書房)。
これに、軽妙に綴られたカメラマンの撮影苦労話が載っていて。カルチャーショックであると同時に、相対的な認識を与えて中和してくれた。(そうでなかったら「東京の女子高生、女子大生はみんな夜になると、ピンクでスケスケのパンティーを脱いで、彼氏のことを思いながらジュンとしてるのか。ワー、ワー、と錯乱するところだった。ヤバかった)
とはいえ、ビニ本からすぐアダルト産業の主役になり変わったAVにしても、性的ファンタジーの提供が基本業務であるわけで。あまり、仕事、仕事と強調するわけにもいかないだろう。
同時に、こういう話もある程度は聞いておかないと、倫理的にひどく乱れた連中の集まる業界というイメージで警戒したり、必要以上に奇異な目で見たりしてしまうのも事実だ。
もうずいぶん長いこと会っていないが、学生時代の友達が高槻さんのガスにADで入っていた(それから監督になった)。彼から聞く撮影現場の話には、取り扱っているのが野菜か女の子かだけの違いで、生鮮売り場でやるべき業務と注意は同じ、みたいな冷静さがあったので、クラクラッとしつつ、妙に感心させられたものだった。
どこかでもちろん逸脱したことを狙っているわけだが、ルーズにこしらえているわけでもない。そこらへんの塩梅の説明が煩わしくて、何百回溜息をついたか分からない人が作っている、ならではのものだと思った。
ジャンルが始まった黎明期の、色眼鏡の色がまだ何色かも決まっていない時に、高景気の世相に乗ってガムシャラに撮って撮って、AVに市民権(話題にしてもいいもの、という認識と評価の定着)を与えるまでになった大先輩の、やみくもなところに触れてみたい。
そんな撮影動機なのだ(説明はされないしそれが第一義でもないかもしれないが)と感じた。
英会話ブームに乗って、英会話テープ・セットのセールスで日本一に。
ビニ本でも大成功した後、AV監督に転進、黒木香や松坂季実子を見出して……というヒストリーは、知っていても面白い。
でも、当時を語っている村西のインタビューは、バブル崩壊後に事業に失敗、巨額の負債を抱えた後に撮られたものなので、やはり、全体に「しんみり」の色合いが強い。
ライオンのように自信満々で意気軒昂だった時代の村西には、演じる、というより、演じることで自分の中のバイタリティを奔出させ、むしろ普段よりも自分の内面を剥き出そうとする迫力がある。
そして、その頃を、いささかしょぼくれてしまった現在の本人が顧みるという構造。
ところが、村西が高槻に借金を申し込むようになってから、その構造が変容していく。病気で弱った、家族にも見せない姿を撮ってくれと望まれたりして、巻き込まれていく。
ここらあたりの、いつの間にか……な関係の変化はそんなにトーンが転調せず、やはり穏やかな人物ドキュメンタリーのように見えながらのことなので、ジワジワと面白い。
例えば『ドキュメンタリー頭脳警察』には、パンタが頭脳警察の活動再開を思い立った瞬間を映画がうまいこと撮れていた、のではなく、監督の瀬々敬久やスタッフが密着して(密着することで何かが欲しいとねだって)いるから、パンタが頭脳警察またやる、と言い出したのではないか。そう思わせるスリルがあった。
高槻も、それまで周辺取材してきた関係者(村西の大風呂敷や行動に付き合って、えらい目にあった事がある人々)と同じ立場に身を置く、当事者になることを進んで選んだのではないか。
そうしないと、往時からすればしょぼくれてしまった姿をむしろ強調し、派手に転んだ男なりの咆哮を聞かせたい村西を受け止められなくなる、というか。
去年公開された『ホームレス理事長』でも評判になった、取材対象者が撮影スタッフに借金を申し込む場面。スタッフは金を貸すことを断る。『ナイスですね 村西とおる』においては、高槻は具体的にどうして、どうなるのか。これはまあ、見てみてください。
以下は参考に。『ホームレス理事長』のプロデューサー・阿武野勝彦さんにneoneoのサイトでインタビューした際のお答えの引用です。http://webneo.org/archives/13898/4
阿武野 「(略)……僕は「貸せば良かったじゃん」と思いましたよ(笑)。
ただそれは、貸したのなら、貸したシーンを映像に出す、まるで貸さなかったのごとくに進めるのはダメですよ、が前提です。でも、金の貸し借りはそんなに重要なことじゃないと思ったら、土下座のシーン自体も使わなければいいわけで。(監督の)圡方は、自分がテレビの報道マンであることで状況は変えてはいけないものだと思っていた。そこはあくまで彼の倫理観です。
僕はそうではなくて、お金を貸すシーンが重要ならば、貸しました、返ってきました、あるいは返ってきませんでした、を描けばいいという考えです。カメラを持って入っているんだから、すでに状況に関与しているんです。そこにカメラがあるのと無いのとでは違うわけだから。取材をすること自体が、取材対象をすでに変えている。そういう論理に立ちますが、これにはおそらく正解は無いですよ。貸すって人間もけっこういると思うんですけどね。」
一方で。これは穿った見方かもしれないが。
後半の村西には、高槻を自分の問題に巻き込むことで、映画のストーリーの帰結を〈栄光から挫折、を知る男の不屈〉にまとめたい欲求を感じる。
自身の精力そのものには「自信はないです。まったくね。」と言いつつ(ウェブマガジン「salitoté(さりとて)」インタビューhttp://salitote.jp/people/interview006-1.html)、かつて〈欲望に忠実な絶倫男〉を演じきった(おそらく、一時はその演技で自分自身をもさえ見事に騙した)男らしいサービス精神が、いかんともしがたく滲み出るのだ。
新しい店や事業がうまくいかなろうと、病気になろうと、人から金を借りようと、どっこいしたたかに生きている。そんな、見る人が共感したり励まされたりできる姿として、ちゃんと客体化させたがっているし、してもらいたがっているように見える。
しかし高槻は、あまりそこに、ストーリーとしてのまとまりやすさに、ピンときていない。
60代になってもまだ乞われたらブリーフ姿になる、堂々となってしまえる村西とおるの姿を通して「シニア世代(あるいは人生という名の長い道の途中で転び、倒れてしまった、全ての人々)への応援歌」を歌う。これがテーマならば、バッチリお互いに噛みあい、美しく終れるし、映画の落としどころに悩む必要もないわけだが。
そうでなくて、村西自身がテーマだから。
しょぼくれたところさえ身体を張った芸として見せたいサービス精神の裏にある、渇望や焦燥、飢餓感を垣間見たいわけだから。
監督を、監督が撮る関係には、水面下でそんな心理的綱引きはあったのではないかと、想像した次第だ。
いずれにしても後半は、村西と高槻、両者ともに話をしにくい話題である、家族に的が絞られていく。
触れたくなかったけど、触れないことには着地できないのも、実は分かってました……まるでそんな風に、あきらめた微笑で告白を始めるように、そうなる。
繰り返すが、そんなにエッジやストレンジな風味を立たせていないし、題材(AVの帝王が自ら語る波乱万丈の半生)からするとやや拍子抜けしそうなほど正統派タッチの人物ドキュメンタリー……と見えるのだが、実は構成は、ドキッとするほど精緻に組みあげられている。
見てすぐは気付かなかった。こうしてブログ・レビューらしきものをつらつら書いてみながら、ようやく気付かされたところがある。深い河ほど静かに流れる、というやつか。
家族の話も、ここでは、まあ、具体的にはよしましょうか! ホロッときますよ。公開されたら、見てみてください。
ただ、ああ、親とはそういうぶつかり方をした世代の方でいらっしゃるよな、とはつくづく思った。
福島県いわき市出身の村西とおるは現在、66歳。
「故郷未だ忘れ難く/酒さえ飲まなきゃやさしい親父」
と「故郷未だ忘れ難く」で歌った海援隊の武田鉄矢は現在、65歳。
「捨てた故郷とひきかえの馬鹿息子のRock&Roll/だけどもし少しばかりの紙切れを稼げたら/両親(ふたり)に小さな家でも買ってやりたかったおれさ」
と「生まれたところを遠く離れて」で歌った浜田省吾は現在、62歳。
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