2014年7月1日。部屋にずっとこもっていたのに、とうとう、新聞も読まずテレビもつけないまま終わった。
レギュラーの演歌番組の台本、数本分を、ほぼ24時間ぶっ通しで書く鉄火場だった。
それに、ツイッターは時々覗いたので。
現政権と、その支持層について僕がどう認識しているかは、今年の1月1日にある程度まとめている。http://blog.goo.ne.jp/wakaki_1968/d/20140101
現首相を憎む、という方向に集団で感情が動くのは、それはそれでレミング的であぶなっかしくないか。
自民党に投票した良き隣人。集団的自衛権はいいものだと思うやさしくてマジメな同僚。そういう人がたくさんいる。こっちのほうが厄介だし、慎重なコミュニケーションが求められるのではないか、なんてことを言いたかった。
実はこの後、ツイッターでも時々雑感は書いていた。
ブログの更新頻度は、そのぶん、落ちましたねー。数千字単位のものを書かないと、ブログで更新しないマイルールが縛りになっているため。
ブログに書くほど長くもならないが、なんか、書いておきたい。そういうことは、ツイッターの140字枠に合わせて埋草コラム的にまとめる。
いつのまにか、こういうクセがついていた。
しかし、昨日(6月30日)、ついついツイッターに投稿したものは、まとまらなかった。
(誰に対してでもなく、官邸前行かずごめんなさい。仕事してます。報道ステーション見ました。ただこれ水差すわけではなく。僕は今、日本は古来から(白水江の戦あたりから)定期的に罹る集団民族発狂の時期にあたり、その噴出点に選ばれてしまったのがアベちゃんなのだと思ってます。→
→こっちが思うほどバカな人ではない。今引けば、墓に唾をかけられ、後代まで嗤われる人物になることについては死ぬほどよく分かっている。だから…あ、何が言いたいか混乱してきた!ごめんなさい、公人であろうと人格否定な罵りは苦手、なんです。法的信認までに至らず、になること願っております)
ツイッター上で、ひとの「ブログ更新しました」というおしらせを見て、ブログを覗いてみると、このところのツイートを並べただけだった。こういう場合は割と多い。せっかくフリーランスライターの個人発信(営業的に何かつながる期待など)のため始めたのに、両方おんなじことを書くのはつまらないなーと思って、意識的に別のことを書いてるのだが、使い分け、なかなか難しい。
いつのまにか、140字コラム的に書き溜めて、置いておく場合がでてきた。
こういうのはもうツイッターに卸すのはやめて、このブログに、断章的にまとめておこうと思う。
以下。なかには、もう投稿しちゃったものもある。タイムラインの流れの中で、立ち止まって考える式のものは、てきめんにツイートの反応はもらえなかった。ここらへんが、使い分けのポイントかな。
ヤジ問題知り。事情とは離れて自分の懺悔。「○○さんを泣かせたのは誰か」と犯人が僕と全員知ってるのに緊急HRが開かれた悪夢が甦り、胃がちぎれそう。○○さんはやさしいから好きだけどうまく態度にできなくていじめた、なんて小6に説明できない。ムクレルよりなかった、のが僕の最初の失恋です。
20代の一時、元AV女優のストリッパーの追っかけでした。ねえさんの衣装を洗い肩を揉む日々が夢。ところが事務所のおじさんに「地方回るけど手伝うか?」と誘われた途端、えーと…行かない理由を探してしまった。インテリの低廻趣味してた自分に気付いて以降、エッジな人々に対し常に引け目あります。
血を流す思いで書け!的精神論は浪漫がある。格好いいです。なのに自身には案外響いたことが無い。なぜここ「は」ではなく「が」にしているの?なぜ言い切らず「と思う」と付け足すの?誤字脱字多いよ、と酔わずに指摘する先輩のほうが怖かったですね。流すのなんて大前提ってことになるのか。
「老後は傍にいてね」と女性に言われること累計6度を越えました。頭くるの通り越して、晩モテが約束されたと喜ぶ、ことにする。そん時ァテメーら冷酷なまでに顔と残った色気で順番付けるから覚悟しやがれ…なんて。そんな風にできないから退屈な自分も分かってる。いずれにせよ前例無い老いの形来る。
このところ、ツイッター寄りになっていたのは、ある書き手の影響がある。
女性で、キャリアなど総合的に、僕よりも格上。その人は別に僕のように独立した埋め草を書こうとするタイプではない。むしろ、ぽつり、ぽつり、と一言ずつ打っていく、寸鉄釘を刺すタイプ。
ただ、なにか、僕は春頃から、その人のツイートがポンと出てくるのを見ると、へんにムキになってしまい、オレだってツイッターで人をハッとさせることを書くんだ、とがんばってしまったのだった。(それで140字枠ぎっしりの、あんまりウケのよくないかたちになってしまったわけです)
仕事も環境も違う。交友範囲、体験してきたこと、興味があること、何から何まで全く違う。そういうコードで冷静に切ったら、僕とはまったく別世界のひと。高嶺の花子さんである。
だから、(わー、この人は、そうそう、と共感できること面白く書いてくれるなー。ウフフ)と身近に感じられて、楽しいファン気分ってわけではないのだ。むしろ、反発したくなることを書く人でもある。
なのに、この人が書くならオレだって、と、時々グワーッと掻き立てられてしまう。
突き詰めると、(別世界のひとだけど、オレと同じ種族だ……)という確信がある。
いや、こっちの勝手な思い込み、想念ではある。なのにその想念が、こんなに揺るぎないことはかつて無いのだ。まるで異なる人生だし、発露の仕方も違うんだけど、似てる、とどうしても思う。
「若木さん、急にどうしてそんなことで怒りだすの……?」と、たまに、まわりを戸惑わせてしまう時の、それこそ人に説明できないやるせなさ。この人もそうだ、という確信。
この前、演歌ものとは別に参加している番組http://www.globalvision-tv.com/index2.html
で、「ライバル」についてちょっとした議論になった。
ディレクターがニュージーランドで取材したのは、羊毛刈の競技会に初めて出場する、19歳の若者。
つっぱった彼は、ジュニア部門の優勝候補を会場に見つけて、カメラに向かって「あいつだ。あいつが、オレのライバルなんだ」と教える。どうしても彼に勝ちたい、叩き伏せたい、とカッカしてる。
ところが、ディレクターがそのライバル氏にも話を聞いてみると。もうジュニア部門では敵なしの彼は礼儀正しく、愛想のいい好青年だった。つっぱりクンのことは会ったことがないから知りません、と申し訳なさそうに答える。
なんだ、じゃあぜんぜんライバルじゃないじゃん! 勝手に格下が噛みついてるだけだよ……と、こういう場合はナレーションでどう語るべきかを話し合ったのだった。
女性プロデューサーが、「でも、こういう気持ちは分かる。憧れが、敵意のかたちになって出ちゃう感じ」と言った。
確かに、優勝候補クンへの一方的な思いは、つっぱりクンの羊を1秒でも早く刈ろうとする、向上心のモチベーションになっているのだった。ナレーションは「ライバル」とは言い切れないけど、「ライバル視している」と書こう。そういう結論で落ち着いた。
大会後、予選落ちしたつっぱりクンは、順当に表彰台に立ち、友人に囲まれた優勝候補クンに近づき、「強いな、やっぱり」と握手を求める。そしてすぐに立ち去る。「チクショー、来年はあいつに近づきてーよー」とカメラに向かって苦笑いする。その顔が、なんとも表現しにくかった。今なら分かる。あれは、片思いの顔だった。
で。僕がいつの間にかその女性の書き手に対して、まさにこのつっぱりクンと同じ心理になっていたのだった。
交流はないわけだから、友情とも違うし、仲間とか同士的感情でもない。でも、この人がどこかにいるな、今日も(オレよりキレたものを)書いてるな、と思うことは、思うだけで、端的に言って、励みになる。
構成作家と映画ライターの二足のわらじを履いているわけだが、今年の上半期は、とうとう映画ライターでの署名文章の注文は、ひとつも無かった。
ゴーストと無署名の注文は定期的にもらい、アテにもされているので、仕事としては細々と成立している。しかし、「映画ライター・若木康輔」の商品価値は、現在、ゼロに近い。
潔く閉店しましょうかネ、と思うことも最近あったのだが、でも、やっぱり自分から「やめる」と言いたくない。客が来なくても店を開けておきたい。
なぜかというと、その女性の書き手も、ゴーストの仕事を引き受けることがあるらしい、と最近知ったからだ。え! まさか、このレベルの人が……と驚いた。
でもよく考えると、納得もする。非常にカンタンに言うと、文章がヘタなのにライターやコラムニストを名乗っている人は、ゴーストと無署名の仕事、できないのだ。ユーティリティ/融通に欠けるので、任せられない。大根さん俳優は、主役はつとまっても脇役はできない、に近い。
文才の上に訓練を積み重ねたひとは、自分の名前で光るものを書きつつ、匿名のものを安定して求めに応じて作れる。信頼されていると、両サイドから声がかかる、となる。
ますます、俺だってやるぞ、注文がなくても書くぞ、と(違うレベルにいるにしても)思わざるを得ないのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます