ワカキコースケのブログ(仮)

読んでくださる方ありがとう

『ザ・ビートルズ:Get Back』全場面をメモ出しする(2)

2022-12-19 00:26:31 | 日記


〈まえがき〉
1回目は、『ザ・ビートルズ:Get Back』のプロローグ部分を吟味した。今回からは本編。
ここからは、前もって先の場面を通して見ることをやめ、一場面ずつ停めては書き出していく。なるたけ事の推移に僕の視点も合わせたいからだ。そして、場面によって補足の説明が必要なことがらや、そのたびに書いた僕なりの推察・考察は後半にまとめる。

とはいえ、1日分だけでも相当に分量が増えてしまい、今回は4人が顔を揃えてメイン・タイトルが出るまででギブアップした。
冒頭からプロローグを経て、メイン・タイトルが画面から出終わるまで13分08秒。ここまでの精読で2万5千字以上かけているガイド文はなかなかないでしょう、と少しは自慢したい気もするが……まあ、カメさんチームのやることです。進まない。



1969年1月2日(木) セッション初日その1

○カレンダー画面。1月2日にズーム。
○ガランとしたステージに、白幕をかけたピアノが1台。ライトが1灯。スタジオの職員らしき男性がブラシをかけて、掃除している。
T「“ゲット・バック・セッション”が今 始まる」
○ザ・ビートルズのロゴ付きドラムヘッドの前で、カチンコ。
○カチンコにある文字情報。白テープにマジックで書かれた部分は、
「APPLE FILMS LTD.」
「BEATLES-DAY1」
「2・1・69 DAY INT」
「DIR.M.LINDSAY-HOGG」
「CAM:T.RICHMOND」
○チョークで書き変えられる黒板の部分は、
「ROLL1 2」
「1」
〈メモ1〉
●撮影スタッフの「2 テイク1」の声。
○カチンコが抜かれてから、ドラムヘッドをロード・マネージャーのマル・エヴァンスが持ってピアノのところまで運ぶ。
〈メモ2〉
〈メモ3〉
○スタジオでの機材と楽器の準備。ロード・マネージャーのマル・エヴァンスも手伝う。
〈メモ4〉
○監督のマイケル・リンゼイ=ホッグが指示するなか、スタッフがドラムセットを置く用の簡易な台を組む。
〈メモ5〉
○スタジオ入りしたジョージ・ハリスン、マイケル・リンゼイ=ホッグと談笑。ジョージは黒のファーコート、藍色のシャツ。
○ジョン・レノンも入り、ギターを持って、アンプに電源が入っているかなど確認。ヨーコ・オノも同伴。ジョンは茶色の丈の短いコートに、黒のフレアパンツ。履き古して灰色になった白のスニーカー。ジョージの下は、ジーンズに茶色のブーツ。

♪1「ON THE ROAD TO MARRAKESH」(LENNON) ※マルの準備のようすから流れる。「ジェラス・ガイ」の原曲

○宗教家らしき青年が見学している(ジョージの連れか)。
〈メモ6〉
●ジョージ、「コンソール(音声調整卓)は置いてないの?」と不審がる。「ミキサーとか8トラックとか」「リハーサルだからないのか」
〈メモ7〉
○リンゴ・スター、ドラムセットの台に上がって、ジョン、ジョージと新年のあいさつ。リンゴは紺に茶色い襟のジャケット。
○リンゴが叩かずに見ているなか、ジョンが弾きながら歌い、ジョージ、ギターで合わせる。

♪2「DON‘T LET ME DOWN」(LENNON/McCARTNEY) ※完成品とはサビ以外はメロディも詞も違う

T「4人は大変な課題に直面していた/新曲を14曲仕上げて/それを2週間後に生演奏するのだ」
○「DON‘T LET ME DOWN」の練習が続き、リンゴのドラムも入る。ジョンは途中からコートを脱ぐ。緑の襟なしシャツに黒のチョッキ。
○ポール・マッカートニーも到着し、ベースを持つ。濃い紫の、薄手のセーター。
〈メモ8〉
○長年の関係の音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンがスタジオに顔を出している。
○ザ・ビートルズのメンバー4人全員が揃ったところで本編のタイトル。
『THE BEATLES Get Back』
『Part1』

(今回はここまで)

 

〈メモ1 カチンコの情報〉
カチンコの情報から、以下のことがざっと分かる。

・これから回すのは、初日のロール1、2のテイク1。これから始まる長編ドキュメンタリーは、ちゃんと時系列に沿った記録なのだな、と期待させる仕掛けになっている。実際には全て撮り順にはならないはずだが、違う日の表情を別日にはめ込んで意味を変えるような、事実を曲げるタイプの嘘はつきませんよ、という挨拶でもある。
・制作タイトルの部分が「BEATLES」のみ。これから撮影するフィルム及びプロジェクトの名前はまだ正式に決まっていない。

ただ、「ROLL1 2」の「2」とはなんだろう? スタジオの職員さんにブラシがけしてもらっているのが最初に撮ったものとして、〈シーン2〉のことだろうか。それとも〈カメラ2〉なのだろうか。トゥイッケナム・スタジオには複数のカメラが入っているのだが、据え置きではなく、撮影隊は三脚ごと自由に動きながら撮っているので、画面で見ているぶんには把握できない。
それに、演奏や打ち合わせが始まったらいちいちメンバーに近づいてカチンコを叩くなんて不可能だろう。現実には、この後の現場ではいちいちカットのカウントはできず、この人が撮ったロール1はここからここまで、とざっくり整理するしかなかったのではないか。

〈メモ2 新しいロゴ入りドラムヘッド〉
ザ・ビートルズのロゴ入りドラムヘッドは、ツアー・バンド時代のおなじみの顔だった。プロローグでは、

・「ラブ・ミー・ドゥ」を演奏した1963年8月のサウスポート、リトル・シアター
・「シー・ラヴズ・ユー」を演奏した1963年11月のマンチェスターABCシアター
・「オール・マイ・ラヴィング」を演奏した1964年2月9日放送の『エド・サリヴァン・ショー』
・「プリーズ・プリーズ・ミー」を演奏した1964年2月23日放送の『エド・サリヴァン・ショー』(ただし9日放送と同じ日の収録)

と4度、画面の中に出てくる。ところが、ライブ活動休止以降は、リンゴもメンバーもあまり使用にこだわらなくなったようで、1968年9月の「ヘイ・ジュード」プロモーション・ビデオ撮影時のヘッドは(テレビのカラー化を意識してか)赤一色になっている。

バンドの初心に返るアイデアに合わせてロゴ入りヘッドを使うのか。それとも、さらに原点、デビュー以前にまで遡るから使わないのか。ビートルズのスタッフは有能なことに、どちらに転んでもいいようにロゴ付きヘッドを新調し、保険として用意している。「S」の字がそれまでのように角張らず、鋭くシュッとしているので、新調タイプだと判別できる。逆に言えば、やはり、セッションの意図があんまり事前に固まっていないまま始まっていることが窺える。

〈メモ3 オリジナル版と同じオープニング〉
もう一度繰り返す。白地の画面いっぱいにザ・ビートルズのロゴ。それが動き出し運ばれて、ドラムヘッドに描かれたものだったと分かる―。オリジナル版にあたる1970年公開の映画『ビートルズ/レット・イット・ビー』(邦題)の魅力的なオープニングと同じ滑り出しだ。

『ザ・ビートルズ:Get Back』のプロジェクトが2019年に初めて発表された際、ピーター・ジャクソンによる新編集版とともに、オリジナル版/マイケル・リンゼイ=ホッグ監督版をレストアしての再公開も予定されている、とアナウンスされた。それから、かなり長尺になること、劇場公開ではなく配信になることなどの発表を経て、ようやく『ザ・ビートルズ:Get Back』の配信が21年11月にスタートしたが、それから1年以上が過ぎても、オリジナル版/マイケル・リンゼイ=ホッグ監督版の再公開を待望する声はあまり聞こえてこない。いや、ほぼ鳴りを潜めていると言っていい。
『ザ・ビートルズ:Get Back』の出来が良いことへの好評価が、もちろん一番の理由だが、好評価へと導くのに大きな役割を果たしたのが、前説にあたるプロローグの後に続く本編のオープニング。これをオリジナル版と同じにした狙いが大当たりしたからだ、と僕は思っている。

付き合いの長いファンは、オリジナル版の問題点をよく知っている。セッション中に起きたメンバー間の口論の場面が、前後の事情の説明不足のまま目立ってしまっていることや、公開がアルバム『アビイ・ロード』(69年)より遅れたのとで、映画には、あたかもこれがビートルズ解散の真相ドキュメントであるかのような、ネガティブなイメージが強くこびりついてしまった。(そう、実際には4人は、このセッションの手応えや反省諸々を糧にしてもう1枚アルバムをこさえる。しかもそれが20世紀の宝盤『アビイ・ロード』だとくるんだから話はややこしいのだ)
一方で、そんな誤解に胸を痛めた日々も、付き合いの長いファンにとってはもはや人生の一部なので、新参者にあんまり勝手にいじられたくないなあ……と心配になる。あの大ヒット映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(01-03)や『キング・コング』(05)の監督であろうとだ。

そこんところを、ピーター・ジャクソンは実にうまくやった。新編集版のオープニングでいきなり自分の色を出すことはせず、オリジナル版と同じカットを同じように使った。本で言えば、マイケル・リンゼイ=ホッグへの献辞を冒頭に掲げているようなものだし、日本で言えば、庵野秀明の近年の作品が冒頭に旧い東宝マークをわざわざ使ったのと同じ、味な振る舞いだ。
ファンは中身がどれだけ変わるかと同じ位か、あるいはそれ以上に、自分達の気持ちをないがしろにされていないかどうかが気になりつつ見始める。なのでジャクソンが、オリジナル版をしっかり見直し、尊重した上で作っておりますと制作態度を早めに提示してさえくれれば、すぐに好意に転じる。その後は、実はかなりの洗い直しを施していようとも、案外そこは気にならない。要は、『ザ・ビートルズ:Get Back』は“シン・レット・イット・ビー”でもあるわけだ。

〈メモ4 マル・エヴァンス〉
それにしても、『ビートルズ/レット・イット・ビー』も『ザ・ビートルズ:Get Back』も、どちらもマル・エヴァンスの仕込みの姿から始まるのは、いいなあ。190cm以上の体躯を見込まれて、地元のスター・ビートルズのファンが群がるキャヴァーン・クラブの門番に雇われ、そのままブライアン・エプスタインにローディーとして雇用され、以来ずっと運転手兼付き人兼などなど……として4人の傍に居続けた男。すでにプロローグでも、ジョン・レノンと一緒に寒そうにしている姿があり、『マジカル・ミステリー・ツアー』の一場面でも顔を出している。『蒲田行進曲』で例えれば〈4人の銀ちゃんに仕えるヤス〉なのである。凄い男である。

〈メモ5 マイケル・リンゼイ=ホッグについてやや長めに〉
いつまで経ってもビートルズのメンバーの登場に行き着かないが、何でも冒頭部は情報量が多いものなんだから仕方ない。前もってマイケル・リンゼイ=ホッグについて書いておこう。

1940年、ニューヨーク生まれ。父は準男爵のエドワード・リンゼイ=ホッグ。母はジェラルディン・フィッツジェラルド。フィッツジェラルドが出産したのは、ブロードウェイでの演技が注目されてハリウッドに呼ばれ、『嵐が丘』(39年)でアカデミー助演女優賞にノミネートされたばかりの頃だった。そんな母親に影響されたのか、映像業界で働くようになり、65年からはイギリスITVネットワークの人気番組『レディ・ステディ・ゴー』のディレクターとなる。

『レディ・ステディ・ゴー』は63年から66年にかけて放送された、イギリス初のポップス専門番組。リンゼイ=ホッグとビートルズが直接お手合わせする機会はなかったようだが、リンゼイ=ホッグはこの番組でザ・ローリング・ストーンズらと付き合いが生まれたし、当時はまだ業界そのものが小さい。ビートルズとも面識が出来て、プロモーション・フィルムの監督を依頼されるようになる。

「ペイパーバック・ライター」 2種ある。屋外バージョンは、66年5月20日撮影 ロンドンのチズウィック・ハウスでロケ。屋内バージョンは、66年5月19日撮影 ロンドンのアビイ・ロードのスタジオ
「レイン」 これも2種あり、「ペイパーバック・ライター」と同じ日に撮影
「ヘイ・ジュード」 68年9月4日撮影 ロンドン特別区のトゥイッケナム・スタジオ
「レボリューション」 「ヘイ・ジュード」と同じ日に

以上の4本。プロローグの項でも触れたが、ビートルズとリンゼイ=ホッグは、つい4ヶ月前にトゥイッケナム・スタジオでいい仕事が出来たばかりだ。
それにビートルズは65年11月に同じトゥイッケナム・スタジオで、「アイ・フィール・ファイン」「涙の乗車券」「ヘルプ!」「デイ・トリッパー」「恋を抱きしめよう」のプロモーション・フィルム5本まとめ撮りをしたこともある。(その際の監督ジョー・マクグラスが、『マジック・クリスチャン』の監督ジョゼフ・マクグラスと同一人物なんだから、世間は狭いというか、当時の、いわゆる若者文化を映像でまとめられる人材は限られていたのだろう)

つまり、映画用のだだっ広いスタジオでの撮影にビートルズは慣れていた。それ自体には当初、抵抗は薄かった。ただし、プロモ撮りと実際の音づくりやリハーサルはまるで使う脳みそが違うわけで、そこんところを事前にどこまで詰めていたのか?……が、これから始まるセッションで明らかになっていく。

どなたも知っていることなので、もう、ざっくりと大まかな結果を言ってしまえば、これから始まるトゥイッケナム・スタジオでのセッションは不調に終わった。もともと映画用のスタジオでは無理があったんだ、という話になった。音楽が専門の識者の解説文ではどうしても、リンゼイ=ホッグの立場は分が悪い。戦犯のように書かれている場合もある。これは仕方ないです。上手くいかなかったんだからね。

ただ、無能であったかのような書かれ方は少しさびしい。誰が仕切りなのかまだハッキリしないし、なのに場所はもう押さえてあるプロジェクトに急に参加することになって、ちゃんと現場をコントロールするなんて真似は、どんな映画監督やディレクターにとっても至難の業だ。
僕はむしろ、厳しい条件下でリンゼイ=ホッグは相当によくやったほうだと思っている。とにもかくにも彼は、半世紀後も使えて、世界中をソワソワさせることができる素材を残したのだ。

また、リンゼイ=ホッグはただのぽっと出ではない。『レディ・ステディ・ゴー』のディレクターを足掛かりにしてビートルズやストーンズの映像を手掛けつつ、何本もテレビドラマの演出をしている。
僕が無字幕の状態で見ることができたリンゼイ=ホッグの69年以前のドラマ監督作は、イギリスの1話完結・1時間枠のドラマ・シリーズ『JOURNEY TO THE UNKNOWN』中の「MATAKITAS IS COMING」(68年)。
図書館の司書(ヴェラ・マイルズ)が戦前の殺人事件を熱心に調べるうち、時空が歪んで過去に戻った深夜の図書館で、その殺人鬼に狙われる……という妖異スリラー。演出がテキパキしていて面白い。アメリカでは同時期、テレビドラマや音楽番組の演出から映画監督になって成功した例にジャック・スマイトがいるが、ああいう人のシャキッとした仕事ぶりを思わせる。ビートルズの特番に絡む野心に釣り合うだけの実力が、ちゃんとリンゼイ=ホッグにはあったと確認できる。「MATAKITAS IS COMING」の放送は、68年11月。本人としても、ちょうど乗っている時だった。

長くなっているついでに寄り道。『JOURNEY TO THE UNKNOWN』は、年季の入った映画ファンなら存在をチェックしている人は多いだろうし、もしご存じでなければ、ちょっとお伝えしておきたいドラマ・シリーズだ。
アルフレッド・ヒッチコックの映画に戦前から脚本家として参加し、『ヒッチコック劇場』ではプロデューサーとして、ヒッチコックと一緒に原作を選定したジョーン・ハリソン。彼女がエグゼクティブ・プロデューサーになり、『ヒッチコック劇場』のようなサスペンスと『トワイライト・ゾーン』のようなSF風味を合わせた企画を立ち上げた。そして実際の制作はイギリスのホラー映画の名門、ハマー・フィルムに任せた。
参加している主な演出陣は、『ヒッチコック劇場』を何本も手掛け、『トワイライト・ゾーン』の第1話を担当したことでも知られるロバート・スティーブンス。『ノックは無用』(52年)や『SOSタイタニック/忘れえぬ夜』(58年)のロイ・ウォード・ベイカー。『野性のエルザ』(65年)のジェームズ・ヒル。『恐竜百万年』(66年)や、やはり60年代イギリスの伝説的ドラマ『プリズナーNo.6』(67~68年)のドン・チャフィ。……ね、好きな人はちょっとヨダレが出そうな座組でしょう。
こうした百戦錬磨のベテラン勢のなかに、20代後半のリンゼイ=ホッグも加わっているのだ。

『ザ・ビートルズ:Get Back』を吟味するにあたっては、マイケル・リンゼイ=ホッグにもプロローグにあたるものが必要ではないかと思い、しつこく字数を重ねて立ててきた。
それでも、ストーンズの長編はあのゴダールが撮ったのに……と、ネームパリューの大小で不満を唱えられたら、それはもう何も返しようがない。

ジャン=リュック・ゴダールは、1968年6月からしばらく、映画の企画のためロンドンに滞在している。もともとの企画が流れたか何かでゴダールは急遽、ザ・ビートルズかザ・ローリング・ストーンズのどちらかを撮る計画を立てる。同年秋にはアメリカに行き、ボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』(67年)を撮ったD.A.ペネベイカーら〈ダイレクト・シネマ〉の一派と合同企画を立ち上げることになるので、当時、彼なりにミュージシャンを撮ることへの興味と腹案があったのだろう。
実際にはビートルズとは話が折り合わず、ストーンズのレコーディング風景を撮り、これをもとに『ワン・プラス・ワン』が完成し、さっそく11月にイギリスで公開された。

ifの話になるが、もしもビートルズが撮影をOKしていたら、時期からすれば 『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』の制作期間をゴダールは撮ることになった。メンバーが常に揃わず、各自が自分の曲を録音する場合が増えていたようすや、ジョンの不倫報道やリンゴの一時的な脱退でごたついていたようすまでフィルムに収められる可能性があった。公開されたら、バンドの歴史は全く変わっていただろう。実際はそんな時期に、カリスマ的人気を誇るキレッキレのフランス人映画監督に舞台裏をお見せするような余裕はとてもなかった。

ただ、秋に公開された『ワン・プラス・ワン』を、ビートルズの関係者はみんな見ていただろう。ストーンズとは互いのスタジオに見学に行きっこするライバルであり仲間の間柄だ。そして、「悪魔を憐れむ歌」が一から作られ、形になっていくさま(自分達だって散々やってきたこと)がアート・フィルム最前線の魅力を帯びていることに感心し、自分達がその機会を逸したことが惜しくなり、同時に、こういうのならすぐにでもやれる、と欲が出たと思う。
ポールがゲット・バック・セッションの計画をメンバーに提案している頃と、『ワン・プラス・ワン』の公開時期は重なっていたのだ。どうせやるならリハーサルからカメラを回そうよ、という発案には、こういう必然性もあった。

またゴダールの、68年秋から始めたアメリカでの企画の一環として撮られたジェファーソン・エアプレイの屋外演奏場面が、ゲット・バック・セッションの終盤とそっくりになるという、因果じみた話は、この連載がそこまで無事に辿り着ければもう一度触れることになる。

〈メモ6 最初に流れる曲〉
「ジェラス・ガイ」の原曲「ON THE ROAD TO MARRAKESH」を、僕はこれまで海賊盤などで「チャイルド・オブ・ネイチャー」というタイトルで認識していた。ジョンはこちらのタイトルで準備していた、というアップルの公式見解のようだ。
『ザ・ビートルズ:Get Back』は、セッションの映像が始まってからは、楽器に触っている場面=音楽が鳴る場面が基本になるので、ここでのBGM扱いはやや異例かと思う。

ジョンとジョージに合わせて、マハリシュの施設訪問時に初めて作られたこの曲が最初に流れ、ハリ・クリシュナの信徒(弁髪なのでそうと分かる)をジョージが連れてきているのは意味深。ジョンとジョージはこの旅で、マハリシュへの評価を巡って考えが食い違い、気まずい思いをしている。こういうところから周到に伏線を仕込んでいるので、油断ならない。

〈メモ7 ジョージの疑問〉
ほらきた、さっそく……という感じである。
プロローグで紹介された、ここまでで決まっていることをもう一度整理すると、

・見学者に囲まれながら歌う(久々に人前で演った)「ヘイ・ジュード」の感触がよかったので、『ホワイト・アルバム』の次回作は、ライブ盤にしようと決まった。
・ライブ演奏のため、オーバーダブ(重ね撮り)や音の加工は一切なしにする。自分達が手をつけること=最新のトレンドだった4人にとって、いち早く素に戻った姿を見せることはコンセプトとしても面白い。
・ライブはテレビ特番として放送されることになった。
・その準備、リハーサルの姿までカメラに収めて(いわゆるメイキングの先駆け的発想)、特番内で放送する。
・アップルの映像部門の責任者デニス・オデールは、リンゴ・スター主演映画のため、トゥイッケナム・スタジオのスケジュールを事前に押さえていた。

問題はこの後だ。ライブ特番までのプロセスを撮影するのはよいとして、どうしてその場所を映画用のスタジオにするのか、誰がそう決めたかは、プロローグの部分では明らかにされていない。
『ザ・ビートルズ:Get Back』は、実はドキュメンタリーとしては大きな穴、欠陥がある。
〈録音用の設備が整っていない映画用スタジオでセッション、リハーサルをやったもんだから計画自体がガタガタになった〉という史実の原因究明には向かわず、そこは飛ばしている。飛ばして、ともかくハードルの高いプロジェクトを我らのビートル達がどうやって乗り越えたかを見ていきましょう……と、興味を先へと誘導している。

結局のところ、これはいささか藪の中というか、誰かが自分の責任の上でピシッと決めたわけではない(誰かのせいだと言い切れない)ことが理由だろう。

・ちょうどトゥイッケナム・スタジオのスケジュールが押さえていて、丸々使える。
・テレビ特番用でもあるから、映像班はこちらで作業してくれたほうが撮影しやすい。
・今回は、レコーディングに凝りに凝った自分達へのアンチテーゼがテーマ。シンプルに演奏しようというんだから、いつものアビイ・ロード・スタジオに籠る必要はない。

こういった話を、もっぱら発案者のポールとオデール、それに途中から入ったリンゼイ=ホッグがしているうちに、じゃあ全部トゥイッケナムでやろうとなしくずしに決まった―そういうことだと思われる。
僕も番組やビデオの構成作家業をやってきて、仕切りの甘い体制もよく経験している。「誰がこんな店をロケセットに借りると決めたんですかね……」とプロデューサーに首を傾げられて、いや、アナタが把握していなきゃ一体誰が決めたんですか、と呆れるようなことは、これまでもしょっちゅうあった。
ザ・ビートルズも人の子である。『ザ・ビートルズ:Get Back』の大テーマはそういうことなのだな、と解釈すれば、曖昧な(映像にも正式記録にも残されていない)部分にこだわるのはよそう、と決めたピーター・ジャクソンらの判断は理解できる。

でも、特番の後のスタジオ・ライブ盤のことまで、ポールとオデールが気を回していなかったのは、禍根の種となった。
リンゼイ=ホッグは、レコードのほうは知ったことではない。餅は餅屋。映画用スタジオでやることが決まったのを活かして、スタジオの天井から映像記録用のマイクを下げ、準備はバッチリである。
カメラが遠いところで会話が始まってもマイクを近づけることなく、広い絵のまま会話を録ることができる。このプランと仕込みは素晴らしかった。『ビートルズ/レット・イット・ビー』及び『ザ・ビートルズ:Get Back』の映像の魅力はこの、マイクを気にせず広い絵が撮れている効果によるところがかなり大きい。

その代わり、テレビ用はいいとして、レコードのほうの録音はどうする気かね?……と薄々思っていたスタッフは、初日にスタジオに入ったジョージがいきなり「あれ、卓はないの?」と聞くのに、内心ギクッとしたのではないかと思われる。

〈メモ8 ライブ特番は新曲披露の場に〉
ライブ特番をやる、そのためのセッションやリハーサルを撮影する、はプロローグやここまでで示されたテロップで分かったとして、それが新曲14曲を仕上げるのと同意味であることは、『ザ・ビートルズ:Get Back』ではここで初めて明かされる。
これはいくらなんでもハードルが高すぎないか、と素人の僕でも思う。『ホワイト・アルバム』の次回作はライブ盤にしようと決まったのだとしても、旧曲織り交ぜての構成で十分ではないか。
でも、やはり、やろうと思えばできる、と踏めるだけの充実があり、各自がある程度まで作っている曲のストックがあった。

実際、「DON‘T LET ME DOWN」がすでにこれだけ形になっている。「ON THE ROAD TO MARRAKESH」なんか、後でジョン・レノンのソロの曲「ジェラス・ガイ」になるものの、ビートルズでは採用されないままに終わるのだ。しかもどちらも、現在も愛聴される名曲。
初日のちょっとした音合わせの段階で、もうこのレベルだぜ、と示されるので、見る人は、さすがは超天才集団、とどうしたってワクワクする。ただ、なまじこうして材料が揃っていたことが、『マジカル・ミステリー・ツアー』で出たとこ勝負企画の面白さに目覚めてしまったポールの、見通しの甘さにつながった……とも推察できるだろう。

その、今回のプロジェクトの言い出しっぺであるポールが初日に遅刻するのは、なかなか興味深い。複数の家を持つポールがこの時どこから来たのかの確認は宿題にさせてもらいたいが、もしも長く住んでいたロンドンのアビイ・ロード近くの家だったならば、同じロンドンのトゥイッケナム・スタジオまではそんなに距離は遠くないはずだ。
単純に寝坊したか、マイペースだっただけかもしれないが、非常にうがった気持ちで見ると……あえて遅れてみせたのかも。

自分は今回のアイデア、面白いと思っているけど、3人はほんとのところ、どうなんだろうなー。自分が張り切って初日に一番乗りしたら、3人はきっと調子を合わせてくれるだろうから腹が読めない。自分抜きだとどんなフンイキかを知っておきたい。
それで遅れて到着してみたら、3人はもう粛々と音を合わせている。歌っているのはジョンの作り立てホヤホヤだ。うん、いけるぞ。

合流したポールの笑顔にはそこまで妄想を働かせてしまう、照れくさそうな、ホッとしたような雰囲気がある。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿