ワカキコースケのブログ(仮)

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『風立ちぬ』見た直後の感想戦

2013-08-14 00:44:42 | 日記


※以下、12日(月)に見て、夜中のうちに一気書きしたものです。落雷の影響でネットがつながらない状態になっていて、すぐにアップはできず。少し整理しようかとも思いましたが、勢いで(先に出た感想・評のようすを一切参考にしないで)書いたものをいじらず、ママで載せることにします。



『風立ちぬ』をやっと見た。せっかくなら学生気分にもどり連れ立って見に行こう、と約束していた友人達の都合がここにきて揃い、ぞろぞろ男女5人で出かけた。

つい辛抱できず、ひとさまのツイッターやブログをちらちらっと覗いた範囲では、賛否両論のようすがホットで、賛の声にしても単純な感動アピールでなく、否にしても作品自体に力があることを認めている。

見終って、つくづく思った。いやー、どっちの気持ちも分かるよ! 特に否のほう。スッキリと見終れない。カタルシスが無い。ストーリー及び構成が漫然としている、気持ちのつながりが悪いところが幾つも。主人公(二郎)に好感を持てない。菜穂子のような女性像は絵空事。夢の場面が多い割に物語上の効果は弱くて、停滞感がある。地震の描写は凄いのに戦争を描かないのはバランスを欠いている。いつもの宮崎作品ならディティールの細やかさが大きなテーマに収斂していくのに、今回はそれが弱い。など。

以上は、見終った後の友人の口々の感想。新宿呑者家(久し振りに行った。映芸ダイアリーズはいつもここでベストテンを選んだ)で、4人とも「うーん。いいとは思うけど……」派だった。

で、僕はというと。うん、ウン、そうかー、ナルホド、それは確かに……と良き友人達の丁寧な指摘によく耳を傾け、聞くべきことは聞き、言わんとしていることは理解し。そのうえでこう叫んだのである。
「しかしね、その欠点がすべて宮崎駿そのもの、なのが今回の新作なんだよ。菜穂子のようにふくよかな胸に抱き寄せ、やさしく布団をかけてやってくれないか!」


『紅の豚』以来、(チャゲ&飛鳥のPV『OnYour Mark』や三鷹の森ジブリ美術館で上映された短編は別として)どれを見てもスッキリしない気持ちが常に残り続けて約20年。
ついに長編で『風立ちぬ』のように、実に思い切りよくスッキリしないものを作ってくれて、かえって長年の屈託がさめざめと晴れた気分なのだ。

東映まんがまつりで素地をつくった後、『八甲田山』が僕の、大人むけ映画のこと始め。その後、洋画では『地獄の黙示録』を浴び……という年代なので、作り手の想念が過剰になってバランスを壊したまま邁進する、いびつなままスケールが大きくなってしまった作品に対して、殻を割ったヒヨコのように盲目的な執着、愛着を持つところがある。
『イントレランス』のD・W・グリフィス、『ファウスト』のF・W・ムルナウ、『元禄忠臣蔵』の溝口健二、『白痴』の黒澤明。『フェリーニのアマルコルド』のフェデリコ・フェリーニ。スティーヴン・スピルバーグも、『A.I.』でこの狂おしいリストに仲間入りした。そして宮崎駿も、と僕は思っているのだ。
つまり、僕も『風立ちぬ』をヘンな映画だと思うんだけど……そこが、ダイスキ!


朝までの間にできる限り、具体的に書いておこう。見たその夜のうちに書いてみる感想戦なので、ひいきのひき倒し、勇み足も込みです。文献などをしっかり押さえて分析した批評は、よそさまにお任せして。

大好きポイント①〈宮崎駿という作家の矛盾がストレートに出ている、出している〉

少年時代から飛行機や戦車の絵を描いたり模型をつくったりに耽溺し、軍用兵器マニアであるアニメーターの自分と、東映動画に在籍時代は組合の闘争委員をやり、ハッキリと共同体を信じる立場である映画監督の自分。
宮崎駿は嗜好と主義の矛盾を、長編では今まで常に回避していた。『紅の豚』が、飛行機マニア振りを前面に出した痛快作、という定評になっているが、舞台がヨーロッパ、魔法をかけられた豚、とフィルターを二重にかけているので、僕には韜晦に感じられた。

『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎は、近眼のために少年時代に飛行機乗りになる夢をあきらめ、しかし飛行機の設計に美学を見いだす。
今まで飛ぶ・翔ぶ主人公達を魅力的に描いて僕等をたのしませてきた宮崎が、初めて本格的に描く、空を飛ばない、飛べない、代わりに、飛ぶものをつくる主人公である。
そして、それが「爆弾を積んで戦場へ行こうと、商売のために荷物を運ぼうと」(セリフは正確ではありません)関係がない、我々はただ美しく飛ぶもののために持てる才能と努力を奉仕しようと、夢の中で、あこがれの設計者カプローニ氏と約束する。
ここはほとんど、ファウストとメフィストテレスの契約だ。二郎の生み出す美は魔性を伴い、やがて二郎を破滅させることが、すでに予告される。


平和な社会への希求をメッセージしつつ、ミリタリーマニアであることを隠せない自分もまた悪魔を飼っているのだ、と宮崎駿は、作る二郎=描く自分の投影によって、ついにおおっぴらに心情告白したのだ、と僕は見る。
おそろしく潔癖な美学と、夢の中で生きる(図面を引いているうちに周りに大空の風が吹く没入のシーンほど、素直に普段の自分を見せているものはかつて無い)ことの全肯定。妹や周囲への思いやりの無さ、無頓着。若妻にかける言葉は、常に(サバの骨の曲線への賛嘆と同じく)「綺麗だよ」。
正直に投影すればするほど、二郎は、あんまり共感できないエゴイスティックな人物になる。コナンやパズー、ルパン三世のような、きもちのよい男の子達から遠ざかる。僕はなんだか、そのステキなほどの業の深さに、泣けてくるのだ。


パンフレット掲載の企画書に、宮崎はそこらへんをまっすぐ書いている。
「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない。」
二郎の評伝的ストーリーと、カプローニ氏が登場する夢の往還がやや多い、とは僕も思ったのだが、メフィストテレスの誘惑に落ちて契約してしまい、操られる男の物語と考えると筋は通る。

……とここまで書いたところで、いったんパンフレットのキャスティングコメントを読むと、カプローニ氏役の野村萬斎は、宮崎から「カプローニは二郎にとっての“メフィストフェレス”だ」と説明を受けたという。なーんだ! 本人が言っているのか。自分ではなかなか冴えた読み、とか思っていたのに。「答え合わせ」が当たってしまうと、批評家としてはいいんだろうけど、コラムニスト的姿勢においてはちょっと残念。一方で、二郎の上司の奥さん役の大竹しのぶは、「もしかしたら誰もがカプローニおじさんに会ってるのかもしれないと思えてしまうのです」と、やんわりしながら自分とは違う役がもたらす作品世界への影響について鋭く突いている。


さらに先の友人達から1対4、完全アウェーの総ツッコミを浴びたなか、実はあの大地震は関東大震災と明示されないし、戦局近づくあたりも年号などの説明がなかったよね、と指摘を聞いて、ああ、そういえば! となった。こういう発見があるから、議論は楽しい。好きな映画をケナす人は許せない、みたいにすぐカーッとなってしまうのは、もったいない。

リアリティを重んじているようで、やっぱり『風立ちぬ』もファンタジーなのである。この世界のなかでは、カプローニ氏は本当に、草原が広がる美しい恒久的風景を出入りしながら二郎を破滅へと導いている。

そして二郎が、理想の飛行機の完成に近づいた時、ストーリーはいきなりエピローグへ。
以下の茶字部分は、世間通念的には、ネタバレ注意……ということになりますが。


二郎はすでにあそこで精神錯乱していたのだというのが、今のところの僕の見立て。
理想の美の完成→すなわち太平洋戦争への直ちの実戦投入機→搭乗した若いパイロットのほとんどは戦死。
二郎はそれを正視するのをやめた、できなかったのだと。
で、それはすなわち、宮崎がカーキ色の戦時下を描くのを好まない(この人のミリタリー趣味はあくまでイタリア、ドイツ、ソ連などに向いている)、だから描かない、描けないと同義である。
実際問題、このあたりのワガママな感じは批判対象になるだろうし、なっていると思う。


でも、ここで先の、大地震=関東大震災と映画の中でハッキリとは言っていない、に戻る。
自分の美に生きながら殉じた二郎は、エリート技術者として、震災復興の希求が国威発揚の方便に吸収される大きな流れの結果的な先兵となった。こういうことは、いつの時代も、今もありえる、と宮崎は徹底的なエゴイストの自己を晒しながら、捨て身に問うているのだ。
宮崎アニメ史上初の破滅劇であり、僕達のこれから数年後を不気味に占うメッセージを針のように仕込んで終わるものなのだから、そりゃあ今は不評のほうが多くても当然。でも僕は、『風立ちぬ』は後年きっと、宮崎の代表作のひとつとして上位に挙げられる日が来ると信じる。封切時はみんな同様ズッコけて、しかし十年後に見直してみると総毛立つほどに素晴らしかった黒澤明の『夢』。あれと、似た感触を持っている。



大好きポイント② 〈宮崎駿という絵師の描きたいモチーフが、たっぷりと見られる〉

宮崎駿が劇場監督第一作であり出世作『ルパン三世 カリオストロの城』について、今までの引き出しの総ざらえに過ぎない、と否定的な発言をしていることはよく知られる通り。
これに僕は、中学高校生の時から傷ついていた。『どうぶつ宝島』や『長靴をはいた猫』、「未来少年コナン」とおんなじアクションをルパンや次元がやってくれる、その胸躍るトキメキ、感動をこちらが受け取って育ったことまで否定しないでほしいなー、なんて。
2009年の春にひっそり渋谷のシネマアンジェリカで上映された『ドキュメント「ルパン三世」とその時代』でも、やはり宮さんの発言はクールで、第1テレビシリーズの演出に関わっていたさえ「屈辱的」と語っていて、さらに傷ついた。
もちろん、これは宮崎駿がことさらルパンというキャラクターを狙い撃ちして嫌っていたという話ではなく、以前から現在まで一貫するテレビアニメの量産体制への批判的態度(“リミテッド・アニメ”を創案した手塚治虫への視点の厳しさも含まれる)に包括されているのだが。


かくいう僕は、自分こそが宮崎駿を支え続け、これだけの存在に押し上げた―と、言い切ってよい権利を持つ数万人のなかのひとりである。申し訳ないけど、「ジブリファン」はここに含まれません。ご了承ください。

年齢的には『どうぶつ宝島』や『長靴をはいた猫』をリアルタイムで映画館で見た第一世代でこそないが、「ルパン三世」は我々が飽きずに繰り返し見るから何度も再放送され、新シリーズや劇場版製作の気運をつなげた。『パンダコパンダ』の主題歌は初めて親に買ってもらったレコード。「アルプスの少女ハイジ」は、「宇宙戦艦ヤマト」「猿の軍団」とどっちを見るかで毎週日曜、幼稚園時代から苦しい思いをした。

「未来少年コナン」は、僕等にとってのザ・ビートルズだった。
2ヶ月分のこずかいで当時出始めたムック本を買った。(同時期に出たウルトラマン、ゴジラ関連もそう。特撮・アニメのムック本・研究本の1970年代後半の隆盛と定着は、なけなしの金を注ぎ込んだ我々あってのことである) ここで初めて宮崎駿の名前を憶え、『どうぶつ宝島』、『長靴をはいた猫』、『パンダコパンダ』、緑のスーツのルパン、「侍ジャイアンツ」、ハイジの絵を描いた(また関わった)のはこの人だ、と知った。おびただしい数の〈テレビまんが〉を見ていて、なんか違う、なにか他よりワクワクする、と密かに感じていたものが、ひとりの名前でバーッとつながった。1978年、小学4年生。現在に至るまで、あのとき以上の映画史的知識の感動はない。
なもんだから、『ルパン三世 カリオストロの城』については言わずもがな。そらで全部のカットを起こしてみろと言われたら、60%ぐらいの誤差でやり通せる自信はある。「アニメージュ」? 創刊号から買っていましたよ。「ニュータイプ」もね。

しかし、1980年代、我々の分は悪かった。「オタク」「ネクラ」とさんざん、さんざん馬鹿にされた。もう、いやになるほど馬鹿にされた。要領のいい奴は、僕らといる時はせっせと夏休み映画の情報やガンダムとZの関連などを仕込み、今でいうスクールカーストの1軍が現れると、パッと明るく切り替えて単車や女子にモテる流行、ちょっとやんちゃな話で盛り上がる、ということができたんだけどね。ちなみにクドカンさんや水道橋博士さんには、そういう〈同年代のうまくやってたタイプ〉の匂いがありますね、どうしても。スクールライフは、昔も今も野間宏の『真空地帯』と同じサバイバルだから、責めるつもりは無いんだけど。

初めて、アレ? スペクタクルはあるのに、あの楽しいワクワクが無い、とひっかかった『風の谷のナウシカ』から風向きが変わり始めたのは皮肉だった。あの頃、僕等を蔑んだ側が、いつしかみんなジブリファンになった。入れ替わりのように僕は、人前で宮崎駿の名前を積極的に口にしなくなった。「中学高校の頃は、宮崎アニメが好きなんて言ってるやつはロリコン、クラい、とバカにして笑っていた。ゴメン」と打ち明けてくれる同年代に、出会った試しがない。

長い寄り道、失礼。しかし、ようやく長年の鬱屈を吐きだせたよ! 調子のいいオトナは無かったことにしているけど、本当は、宮崎駿を厚く信仰し続けた者は迫害された暗黒時代があることを知ってほしかった。「今はビートルズが青春だったとヌケヌケと言う奴ばかり。嘘つけ! オレが高校の頃はビートルズのレコードを持ってるのはクラスに1人か2人で、たいてい変わり者扱いされてたんだ」といつだったか吠えていた渋谷陽一の哀しい怒りが、僕にはよく分かる、という話である。


で、ええと、特に絵の話。
最近友人が言っていてナルホドと感心したのだが、『天空の城ラピュタ』のパズーは、自分で作った飛行機で空を飛ぶことはできない。(ただし、その代わり海賊の仲間になって共同体の中で成長する) カスタム機で空を飛ぶ夢は、二郎の少年時代の夢で果たされる。少年時代の夢は例え物語の中であっても安易に実現させてはいけない、という考えが『風立ちぬ』で念押しされる。


以下、さらにざざっと挙げてみる。
・二郎と菜穂子をつなぐ紙飛行機は、そのフォルムが、コナンとラナをつなぐ水鳥そっくり。
・菜穂子の父は、ゾッとするほどカリオストロ伯爵そっくり。よって急な婚礼=二郎のルパンばりの強引さが際立つ。
・二郎は、ルパンと次元ぐらい、うまそうに煙草を吸い、盛大に煙を吐き出す。
・終幕、〈カプローニ氏の草原〉でゼロ戦や爆撃機の朽ちる姿は、「のこされ島」の、地球脱出に失敗したロケットそっくり。(だから、やはりあそこは終わりとはじまりの場所なのだ)

宮崎がアニメーターとしてノリにノッている時期の作品に、絵のモチーフや描写が似ていること、あれほど本人が否定していた「引き出しの総ざらえ」に近くなっていることに、僕はかなりカンゲキした。絵は文章よりも正直だからだ。


そして、疲れて眠る二郎を抱き寄せ、布団をかけてやる菜穂子の、少女然としていた彼女の若妻になった途端の、乳房の豊かさ。

こんな女性いない、理想像に過ぎない、という女性の言い分もよく分かるが、いや、その通りに理想を描いているんですよ、としか答えようがない。それだから表現は面白い、と言えまいか。たまーに少女漫画を読むと、ヒロインが恋する男子は、もしも現実にいたらものすごい偽善者かうそつきである、というのばかりだ。それでもヒロインは、恋するその○○クンにちゃんと釣り合う、対等に向き合えるワタシでいたい! とコミックスの3巻目あたりからマジメに考え出したりする。つまり美化した男の子をテコにして、内面成長と自立を自分に求める。そういう身勝手さは、青春の一過程として良しと出来る。「こんな子いなーい」は常にお互い様なんです。


端的に言えば、菜穂子は理想もいいところ。宮崎駿の、幼き日の母の幻影なのだ。
ここでの二郎の身勝手さ、その表現が婉曲で面白い。震災時、二郎は少女の菜穂子と、自分と年齢の近い女中を助け名前も言わず立ち去る。数年後、自分の居場所が分かったらしい女性が学校を訪ねてきたことを知る二郎が、まず思い浮かべるのは、女中だ。しかも後ろ姿。それが密かな思慕のイメージだった。そして10年後、美しく成長した菜穂子と再会し、地震の朝、帽子を拾ってくれた時から彼女を愛していたと告白する。つまり、自分の理想像(優しく凛とした母。その代わり、ついに二郎の父は登場しない)は確固としてあり、歳月とともにそこに当てはまる対象が、女中の後ろ姿から菜穂子に自動的にスライドしたのだ。ひどい奴だが……、男はたいてい、身に覚えのあるところです。女性もそういうとこ、あるんじゃないかな? (どうして菜穂子は、ずっと「王子様」と慕っていた二郎と会った時、すぐに再会できたことに気づかなかったのか? という疑問は女子から出て、これは即答できず)

「兄が幼いころのことですが母が7~8年入院してたことがあるんですよ/寂しい思いをしたんでしょうね/「ナウシカ」のバストが大きいのは「母性へのあこがれ」でしょうね」
勝川克志「まんがルポナウシカ奮戦記 宮崎駿の1日 どなってごめんね」より、宮崎至朗氏(実弟)の証言。(アニメージュ増刊『風の谷のナウシカ GUIDE BOOK』徳間書店 1984)

ナウシカが、アニメ・ヒロインの巨乳化の嚆矢となったのはご存じの通り。
そしてこの証言を読むと、『となりのトトロ』の設定(おかあさんが入院中)を連想しないわけにも、いかない。


「二郎さん、大好き」と囁いても、「綺麗だよ」としか答えない二郎。
菜穂子は終盤、ある決断をする。「二郎さんには綺麗な姿だけを残したい」(セリフ正確ではありません)と周囲に忖度される通りに。ここも、昔の女性が奥ゆかしく……ととりやすいところだが、僕は、違う解釈をしている。宮崎駿がそんなヒロインを好んだ試しがないからだ。

ここらへんも、いわゆるネタバレ注意に近いですが。

あの選択は、自分の求める美を愛した主人公への、報復なのだ。美しさはいつか褪せ、終わる日が来ると「教えない」ことで罰を与え、二郎に本物の破滅を味あわせる。
永遠の男の子である主人公を罰する、そんなヒロインが今まで宮崎アニメに存在しただろうか。
ここに僕は、宮崎駿個人の抱く贖罪意識を垣間見る。


だから、『風立ちぬ』について、僕がしっかり批判したいところがあるとすれば、宮崎駿が「今回は大人向け」と言った発言をちょくちょくしていることだ。そんなこと、言わなくていいのにね! ここまで赤心を描いたのは異例がゆえの怯懦であろうか、ともちろん僕は(信者ですから)どこまでも好意的に捉えているが、むしろジブリアニメは大体こういうもの、と固定観念を持ったオトナのほうが理解は遅い。大人になっても、ジイさんになっても、世間では立派な人と思われるようになっても、キミたちとおんなじに空想に夢開いたり苦しんだり、いろいろあるんだ、でもそれを絵に描いたり動かしたりするのはやめられないぐらい楽しいんだぞ、と、いつものように堂々と見せてくれてよかったんだ。



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