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ワカキコースケのブログ(仮)

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あヽ左翼映画青年 原正人

2013-02-25 22:58:25 | 日記


最初に告知。
【映画のポケット】
若木康輔がしゃべります「映画ライターになる50の方法」

2013年03月17日(日) 19時~21時(延長はなるべくナシの予定)
@阿佐ヶ谷・よるのひるね [HP]
参加費500円+要1オーダー
参加自由/申し込み不要/途中入場・退出自由
詳しくはこちらを。http://emls.jugem.jp/?eid=475


一週間のごぶさたでした。
サッチモの話のつづきは、長くなるので、また今度。


先日、「映画時報」(合同通信社)2月号掲載の原正人インタビューの、記事づくりをお手伝いした。(文字おこしとおおまかな構成)

原正人といえば、ちょっと前までは、映画好きには問答無用に説明不要なキャリアのひとだった。
ヘラルド映画の宣伝マン時代は、アラン・ドロンものを手始めに、『小さな恋のメロディ』『エマニエル夫人』『地獄の黙示録』などなどをドカドカ当て、プロデューサーになってからは『戦場のメリークリスマス』『瀬戸内少年野球団』『乱』『銀河鉄道の夜』とバリバリ。エグゼクティブ・プロデューサー(最終的に企画を通したり資金調達したりはオレの顔でやるから、現場は若い奴らでやってみろ係)になってからも、『リング』シリーズなど。

改めてこう書いても、大物すぎてメチャクチャだ。大手テレビ局にいちど打ち合わせに行っただけで、もうフワフワしてヘトヘトになる若木康輔の小ささよ。
ところがこの原さん、もともとのスタートは独立プロ、今でいうインディーズの現場の手伝いからなのだ。
記事のメインはもちろん最新作『草原の椅子』の話題でありつつ、そこらへんの話がとても面白かったのだが、あいにく「映画時報」はいわゆる業界専門誌なので、一般書店には流通しない。
しかもちょうどそこは、日経BPから2004年に出た『映画プロデューサーが語るヒットの哲学』(原正人 構成本間寛子)とカブっていない部分なのだ。この本はなにしろ日経関係の本なので、“清貧時代”に割いているのは最初の1Pのみ。ハッキリした価値観には、いっそ感心する。
戦後の第一期独立プロ運動に興味のある方(少数だろうときっといると信じる)にシェアしないともったいない気がするので、宣伝マンになる前、独立プロ時代について語った部分を、年譜風に紹介します。



★=原正人のあゆみ ☆=こちらで補足した当時のうごき

☆1948年、第3次東宝争議。

★1949年、病気のため早稲田大学を18歳で中退。実家のある埼玉県熊谷で療養しながら、映画上映サークルの活動に参加。これが原正人の映画との関わ りことはじめ。まもなく事務局長になる。労働組合や団体の支部を合わせて、会員は3000人いたという。

★同時期、熊谷の近くの本庄で山本薩夫が『暴力の街』(公開は50年/東宝争議の妥結資金で製作)をロケ。現地エキストラ募集を手伝う。

☆1950年、東宝、レッドパージによる組合幹部らの大量解雇。山本薩夫、今井正、亀井文夫、伊藤武郎、岩崎昶ら東宝退社組が中心となり、新星映画を設立。戦後独立プロの先鞭をつける。同年、やはり松竹をレッドパージで退社した家城巳代治、フリーになる。

☆1953年、伊藤武郎、新世紀映画を設立。

★1953年、『暴力の街』の手伝いが縁で誘われ、家城巳代治『ともしび』(新世紀・公開は54年)に製作宣伝で参加。はじめてのプロの現場。オール栃木ロケ。ジャーナリストを現場に案内するなどの仕事で、ノーギャラだったという。
※このあたりは、『愛すればこそ スクリーンの向こうから』香川京子 勝田知巳編(2008毎日新聞社)内の原の発言から。

☆1954年、独立系配給会社、北星映画が経営破綻。伊藤武郎、北星映画の後をひきつぐかたちで、独立映画を創立、社長となる。

★2人のプロデューサー、伊藤と岩崎昶の下で働きながら(先輩でいたのは市川喜一)、今井正『ここに泉あり』(55・中央映画)、家城『異母兄弟』(57・独立映画)などの現場に付く。
伊藤には、配給網をつくることで独自の資金源を調達するプロデューサーとしての実利、映画評論家でもあった岩崎には、理論と理想を学ぶ。結婚の仲人も伊藤につとめてもらう。

★1957年頃、持病のため現場で倒れてしまう。現場から、伊藤の独立映画に移る。

★まもなく、独立映画、倒産。やむなく、短編を主に扱う小さな配給会社でアルバイト。

☆1957年、名古屋の大興行者・古川為三郎の息子である古川勝巳が、日本ヘラルド映画を創業。メジャーの日本支社や東和映画(のちの東宝東和)が中心だった外国映画配給の新興となる。

★1958年、アルバイトしていた会社が、日本ヘラルド映画に買収される。東京の拠点にするのが目的。社員として雇ってもらう。
新興なので大作・話題作は買えない。しかし、最初は業界でなめられないよう、一流の作品から始めなくてはいけない。以上の理由で、日本ヘラルドの第1回配給作品は、イエジー・カヴァレロヴィッチの『影』。

★独立プロ運動が原点だが、ビジネスは古川に叩き込まれた。「おまえさん、志だけじゃ飯を食えんでよう」と言われた時はショックを受けたという。
「岩崎さんの理論に代表される独立プロの理想主義と、映画は商売だと言い切る古川さんの哲学。この矛盾した二つがDNAとして僕の映画人生に組み込まれているんです。」


以上。ここからは、『映画プロデューサーが語るヒットの哲学』を……僕も読もう(未読・積ン読)。

結局は、人のつながり。地元でエキストラ募集の手伝いをがんばったら、数年後に声をかけてもらい、東京へ戻るきっかけとなった。こういうことは、シンデレラ・ボーイ・ストーリーとすぐに解釈しないほうがいいだろう。
もちろん、原正人青年は、若いうちに上の人との出会いに恵まれた。これは多分な幸運に値するのだが(そこが欠けていると僕のように延々と這いずりまわり続けることになる)、そういうラッキーがあろうとなかろうと、とりあえず出し惜しみだけはしたらダメだなーと思う。

最近、編集で関わる媒体のほうで、「(粘れない、がんばれないのは)ここの作業ではお金が出ないから」と理由にするひとに、2度つづけて当たり、それは全くそうなんで、言われたらグウの音も出ないんだけど、そうであるがゆえに、(卑怯だぞ)、と口には出さないけど思った。どうしてかって言うと、そのひとたちは、自分のメリットになったり、ラクでたのしそうなことなら、タダでやっても文句なんか一切言わないから。でも、それなりに負荷がかかるけどがんばってもらいたいものになった途端、お金が出ない云々……と言い出すから。こういう矛盾は、やはり出し惜しみで、かっこわるいよ。僕は死んでも口にしない。できない時はちゃんと、時間か能力かやる気か、いずれかが無いからだと言う。ことにする。


原正人インタビューでもうひとつ、ホロッときたのは、3つ年上の映画評論家・山田和夫に長年の劣等感があったという話だ。
いくら『エイゼンシュテイン全集』の功績があるとはいえ、戦メリ、黒澤、カンパネルラの原さんが、どうしてあのジミーな左翼オンリー評論家に……とびっくりしたが、まさにそこらしい。
原は(上記のように)左翼系映画人による独立プロ運動で育ったわけだが、共産党員ではなかった。入っていたのは、外郭団体、青年組織である民青(日本民主青年同盟)。なので、東大細胞のひとりで、在学中は堤清二と映画研究会を立ち上げ、1954年に党員になって以来ずっと中枢にいた山田は、まぶしい、まっすぐな存在であり続けたそうだ。



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