前回からの続きである。
ここ数回にわたる私のお喋りは、端的にいえば現場に一定数存在するダメ教員はどうしたらいいのか、という話題であった。
そして、この話題についての私の主張は、「現場は、そういう教員がいることを前提にして、組織として指導できる体制を組め」というものであった。
ダメ教員といっても、研修や経験によってマシな教員になる場合もあろう。そういう場合であれば、問題は解決するので、それはそれでよいだろう。私が問題にしているのは、研修や経験によってマシにならない教員はどうするのか。そして、そういう教員が一定数存在している現場を今後どうするのか、ということである。これが問題なのである。
さて、こうしたダメ教員について、もっとも簡単な解決方法は何か。それは、クビにする、という方法だ。クビというのが下品でれば「排除の論理」なんていってもいいだろう。
この「排除の論理」。現場でも、実は、ごく普通にみんな思っていることだ。
ダメ教員が仕事でミスをして、周りの足を引っ張る。あるいは、ダメ教員が仕事をしないおかげで、周りの仕事が増える。そうなると、周りの教員は、「あいつのせいで、とんだとばっちりを食っちまった」とか、「おれたちが忙しいのは、あいつのせいなんだよな」とか思い、いつしか「あいつ、使えないなあ」とか「辞めちまえよな」とか思ったりもする。
こうした心情というのは、理解できる。というか、教師の世界にかかわらず、組織で動いている職場であれば、どこの世界にもある心情であろう。日常の職場風景といっていいだろうと思う。
そして、ある時は愚痴や悪口となって吐きだされることもあれば、ある時は、職場の空気が澱んでいくことにもなったり、職場内でのイジメやイビリに発展したりということにもなるだろう。こうしたダメ人材に対する普通一般が持つ心情というのは、組織で仕事をする職業人の性というようなものだから、今後もなくならないだろうし、すみよい職場環境にするためにあれこれと考えることはいいけれど、心情として否定することでもないだろう。
しかし、この「排除の論理」を、心情としてだけではなく、あるいは、愚痴や悪口として周りにしゃべっているだけではなく、本当に論理的に主張する教員がいるのだ。こういう教員は、自分のことを棚にあげて、他人への愚痴や悪口をぺちゃくちゃしゃべるといった類の教員とは違う。自分の仕事はしっかりできるし、周りにも気配りができる。つまり、デキる教員だ。そういうデキる教員が、論理的に、ダメ教員の排除を主張する。
ダメな教員というのは、職場にとっては有害でしかないのだから、クビにしろということを、大真面目にかつ論理的に主張するのである。もちろん論理的なので、筋は通っているし、情緒的でもない。誰もが、その通りと納得してしまう。
こうした、普通であれば愚痴話で終わらせるべき内容を、わざわざ論理だてて主張する教師の心情を私なりに察するとすれば、こうだ。こうした教師は、デキる教師ゆえに、教師の仕事に強い誇りを持っているのだろう。そして、高いプロ意識があるのだろう。であるから、教師の仕事を貶めるようなダメ教員に対して、許されないという思いがたち、結果、寛容になれないのだろう。
しかしである。そうしたデキる教師が主張する「排除の論理」は、結局のところ、教師の仕事を貶めることになっているのだ。この逆説的ともいえる論理を理解したうえで、そうした主張をしているのか。その点が私には疑問なのである。
私の言いたいことは、こういうことだ。
すなわち、教師という仕事にもっとプロ意識を持て、プロになれないようなダメ教員は辞めてしまえ、というような主張をしたとする。これは、一見、高邁な主張のようにみえる。しかし、よく考えてほしい。プロ意識の低いダメ教員をクビにすると、その分、どこかから代わりの人材を補充する、ということになる。この代わりの人材というのは、当然ながらプロ教師でもなんでもなく、ただのオトナである。つまり、この高邁な主張の背後には、教師の代わりの人材なんていうのは、他にどこにでもいるんだよ、という主張が潜んでいるのだ。所詮、教師なんてのは、代わりのいくらでもきく程度の仕事なんだよ、と言っているのと同じなのである。
つまり、ダメな教員はクビにしろ、という主張は、プロ意識に拠った高邁な主張でも何でもなく、教師なんてのは誰でもなれる程度の仕事である、といっているのと同じなわけで、結果、私たち教師の存在を貶めていることになるのだ。
だから、私は「排除の論理」にくみしない。私のようなものでも、教師の仕事に誇りを持っているし、プロ意識もある。だからこそ、教師の「排除の論理」には賛同するわけにはいかないのである。
繰り返すが、心情としては、理解できる。それは、組織で動いている以上、「ダメなやつは辞めちまえばいいのに」とネガティブな思いを抱くこともあるだろう。そうした心情については、否定するものではない。しかし、論理的な主張はしてはいけないのだ。それは、自分自身を貶めることになるからだ。この論理に、デキる教師ははやく気づいてほしいというのが今回の私の主張である。
なお、現場以外の人間のいう「排除の論理」についても、同様である。
教師でない外野席にいる人間からも、時折「ダメ教員はクビにしろ」という意見を言うのがいる。しかし、教師は、そういう意見にやすやすと乗ってはいけない。自分の職場を見渡して、つい、そうだそうだ、とうっかり賛同してしまいそうになるが、それは誤りである。
それは、組合的互助会的な同胞意識のよるものではない、というのはこれまで言った通り。そうではなく、教師という職業が他の職業から貶められているということに他ならないからだ。であるから、教師以外の人間のいう「ダメ教員はクビにしろ」という意見には、教師は全力で反論をするべきなのである。
とはいうものの、その前に、わたしたちに「教師は、すぐに代わりがきく程度の仕事じゃない」と言える程の、プロ意識があることの方が先なのですがね…。
ここ数回にわたる私のお喋りは、端的にいえば現場に一定数存在するダメ教員はどうしたらいいのか、という話題であった。
そして、この話題についての私の主張は、「現場は、そういう教員がいることを前提にして、組織として指導できる体制を組め」というものであった。
ダメ教員といっても、研修や経験によってマシな教員になる場合もあろう。そういう場合であれば、問題は解決するので、それはそれでよいだろう。私が問題にしているのは、研修や経験によってマシにならない教員はどうするのか。そして、そういう教員が一定数存在している現場を今後どうするのか、ということである。これが問題なのである。
さて、こうしたダメ教員について、もっとも簡単な解決方法は何か。それは、クビにする、という方法だ。クビというのが下品でれば「排除の論理」なんていってもいいだろう。
この「排除の論理」。現場でも、実は、ごく普通にみんな思っていることだ。
ダメ教員が仕事でミスをして、周りの足を引っ張る。あるいは、ダメ教員が仕事をしないおかげで、周りの仕事が増える。そうなると、周りの教員は、「あいつのせいで、とんだとばっちりを食っちまった」とか、「おれたちが忙しいのは、あいつのせいなんだよな」とか思い、いつしか「あいつ、使えないなあ」とか「辞めちまえよな」とか思ったりもする。
こうした心情というのは、理解できる。というか、教師の世界にかかわらず、組織で動いている職場であれば、どこの世界にもある心情であろう。日常の職場風景といっていいだろうと思う。
そして、ある時は愚痴や悪口となって吐きだされることもあれば、ある時は、職場の空気が澱んでいくことにもなったり、職場内でのイジメやイビリに発展したりということにもなるだろう。こうしたダメ人材に対する普通一般が持つ心情というのは、組織で仕事をする職業人の性というようなものだから、今後もなくならないだろうし、すみよい職場環境にするためにあれこれと考えることはいいけれど、心情として否定することでもないだろう。
しかし、この「排除の論理」を、心情としてだけではなく、あるいは、愚痴や悪口として周りにしゃべっているだけではなく、本当に論理的に主張する教員がいるのだ。こういう教員は、自分のことを棚にあげて、他人への愚痴や悪口をぺちゃくちゃしゃべるといった類の教員とは違う。自分の仕事はしっかりできるし、周りにも気配りができる。つまり、デキる教員だ。そういうデキる教員が、論理的に、ダメ教員の排除を主張する。
ダメな教員というのは、職場にとっては有害でしかないのだから、クビにしろということを、大真面目にかつ論理的に主張するのである。もちろん論理的なので、筋は通っているし、情緒的でもない。誰もが、その通りと納得してしまう。
こうした、普通であれば愚痴話で終わらせるべき内容を、わざわざ論理だてて主張する教師の心情を私なりに察するとすれば、こうだ。こうした教師は、デキる教師ゆえに、教師の仕事に強い誇りを持っているのだろう。そして、高いプロ意識があるのだろう。であるから、教師の仕事を貶めるようなダメ教員に対して、許されないという思いがたち、結果、寛容になれないのだろう。
しかしである。そうしたデキる教師が主張する「排除の論理」は、結局のところ、教師の仕事を貶めることになっているのだ。この逆説的ともいえる論理を理解したうえで、そうした主張をしているのか。その点が私には疑問なのである。
私の言いたいことは、こういうことだ。
すなわち、教師という仕事にもっとプロ意識を持て、プロになれないようなダメ教員は辞めてしまえ、というような主張をしたとする。これは、一見、高邁な主張のようにみえる。しかし、よく考えてほしい。プロ意識の低いダメ教員をクビにすると、その分、どこかから代わりの人材を補充する、ということになる。この代わりの人材というのは、当然ながらプロ教師でもなんでもなく、ただのオトナである。つまり、この高邁な主張の背後には、教師の代わりの人材なんていうのは、他にどこにでもいるんだよ、という主張が潜んでいるのだ。所詮、教師なんてのは、代わりのいくらでもきく程度の仕事なんだよ、と言っているのと同じなのである。
つまり、ダメな教員はクビにしろ、という主張は、プロ意識に拠った高邁な主張でも何でもなく、教師なんてのは誰でもなれる程度の仕事である、といっているのと同じなわけで、結果、私たち教師の存在を貶めていることになるのだ。
だから、私は「排除の論理」にくみしない。私のようなものでも、教師の仕事に誇りを持っているし、プロ意識もある。だからこそ、教師の「排除の論理」には賛同するわけにはいかないのである。
繰り返すが、心情としては、理解できる。それは、組織で動いている以上、「ダメなやつは辞めちまえばいいのに」とネガティブな思いを抱くこともあるだろう。そうした心情については、否定するものではない。しかし、論理的な主張はしてはいけないのだ。それは、自分自身を貶めることになるからだ。この論理に、デキる教師ははやく気づいてほしいというのが今回の私の主張である。
なお、現場以外の人間のいう「排除の論理」についても、同様である。
教師でない外野席にいる人間からも、時折「ダメ教員はクビにしろ」という意見を言うのがいる。しかし、教師は、そういう意見にやすやすと乗ってはいけない。自分の職場を見渡して、つい、そうだそうだ、とうっかり賛同してしまいそうになるが、それは誤りである。
それは、組合的互助会的な同胞意識のよるものではない、というのはこれまで言った通り。そうではなく、教師という職業が他の職業から貶められているということに他ならないからだ。であるから、教師以外の人間のいう「ダメ教員はクビにしろ」という意見には、教師は全力で反論をするべきなのである。
とはいうものの、その前に、わたしたちに「教師は、すぐに代わりがきく程度の仕事じゃない」と言える程の、プロ意識があることの方が先なのですがね…。