咆哮

負け犬の遠吠えかも…
最近「負け犬」が流行り言葉になってしまったので「落ち武者の歯軋り」とした方がいいのかも…

三つ子の魂

2005年01月05日 10時34分33秒 | 独り言
昨日、映画を観るために梅田に出て、少し時間があったので映画館近くのコミック屋で時間を潰していると手塚治虫の「アトム今昔物語・復刻版」というのを見つけて、ついつい誘惑に負けて買ってしまった。f^_^;;

私をよく知る人は「手塚治虫全集持っているくせして何故買うんだ?」って言われそうなんだけど、これには事情がある。

この漫画は元々雑誌ではなくてサンケイ新聞に連載されていたもので、全集に納められていた今昔物語はそれを元にして後で書き直したダイジェスト版のようなものだったので、当時リアルタイムで毎日その漫画を切り抜きまでして読んでいた私にとっては実に物足りないものだったのだ。
で、今回の復刻版はその当時の掲載されていた漫画そのものを複写した形のものだったので、私にしたら「即買い」の代物だった訳である。

しかし、あの切り抜きはいったい何処に行ってしまったのだろう。私は捨てた記憶はないのだけれど、今でも実家の押入れの奥で眠っているのだろうか?、いやいや、おそらくお袋がとっくに捨ててしまっているのだろう。昔の私はそういうゴミ(私にとっての価値ではなく、母の価値観でのゴミ)の収集癖があったので色々捨てられて大喧嘩した記憶がいっぱいある。(笑)

そういえば映画好きになった中・高生の頃は、今ほどチラシとかなかった時代なので新聞の映画の封切り時に出る広告まで切り抜いていたなぁ~。今でこそその習慣はなくなったが、チラシの収集などは今も続いている。
雑誌などを買ってもその付録など絶対に捨てられない人間だった。
映画を観始めた頃からパンフレットを買う習慣も今も続いている。(今では数千冊になっている)
まあ、パンフレットはそこそこお金がかかるが、昔から金のかからないものの収集癖はあったように思われる。

三つ子の魂百までなんていうけれど、おそらくこの性質は一生変わらないように思う。
でも、この性質って実は上の母親の性質を受け継いでいるようにも思える。(笑)
とにかく捨てないのである。ちっちゃなちっちゃなウサギ小屋のような実家の押入れは物で溢れかえっている。(あっ、父親もあまり捨てない人間だな)
ただ、その人によってその捨てられない物が違っているだけなのだ。
だから、この性質というのは私だけではなく、人により対象が変わるってだけで、人間(今の日本人?)というのは殆どはこの性質によって振り回され生きていると言っても大袈裟ではないように思うのだが…。
今の殆どの人間(日本人)は、その人にとっての宝物(他者にとってはゴミ)に囲まれて生活しているんだろうな。

新年の抱負なんてねぇーよ!

2005年01月03日 10時21分22秒 | 独り言
新年早々、ガラの悪いタイトルをつけてしまったなぁ~。(笑)

しかし、そんなもの無いものは無い。(爆)
ってゆうか、こういうのってどこか自己矛盾を感じないか?。
こういうのを出すお決まりってのは、組織や団体や体制内で多いでしょ。
なんでも「形式」とか「形」でやってしまう訳ですよ。
でも、「抱負」だとか「目標」ってのは所謂「変化」を意味するものでしょ。
それは「形式」とは相反するものだよね。
その中からホントの変化なんて生まれる訳ないに決まっているでしょ。
形や枠を重んずる者が変化を語る事自体胡散臭いのは誰もが感じること。
そちら側ににいる者が形式だけの「抱負」を語る事なんてただの「行事」でしかないもんね。

(おっ、なんだかここのタイトルに合った発言になってきているなぁ~。(笑))
まあ、吼えるばかりではなんなので、何が言いたいのか分りやすくまとめよう。
早い話、自分を変えようとか何か目標を作ってそれを目指すのって「形式」からは始まらないってこと。
そういうの(変化)って、歯軋りしながら日々疑問を持ち考えてる人間にしか果たせないだろうってこと。

私だってどちら側で生きている人間かというと、生活の糧はそこから得ている1人なのでそちら側の人間に違いないのだけれど、こういう「形」だけなのかどうなのかの判断力だけは失いたくないと思っている人間なので、極力染まらないように心がけたいというのが、今年だけではなく一生の抱負なんだろうな。

自分に対しての、社会に対しての「変化への歯軋り」
実はこれが私の言う負け犬の遠吠えなんだ。(笑)