時の経つのは早くて、ネットのお友達のヤマさんが来阪してお会いしてから、もう一週間が経とうとしている。
あの後、ヤマさんのサイトの掲示板であの日一緒に観た『拘束のドローイング9』の感想と絡めて、オフで話題に上がった“映画検定”話の続きで副題に「何故映画ファンは知識を試されるのは好きなのに、感性を試されるのを嫌うのか?」としたタイトルでブログにUPするなんて予告したのだけど、結局書けず終いになってしまった。f^_^;;
まあ、この長ったらしいタイトルだけで私の処に来る頭の良い人達なら殆ど了解するだろうと思って横着した部分もかなりあるのですけどどね。(笑)
しかし頭が良いと言えば、ヤマさんが来られてお話する度にその頭の回転の速さに毎回驚いてしまう。(笑)
最初に会ってお話した時から「どうなってるんだ!、この人の頭の中は?」って思っていたのだけど、会った人なら誰でも感じる事なんでしょうが、言葉に澱みがなく理路整然として破綻がない。私なら原稿用紙に書いたものを読んでもあんな風に言葉が出て来ないよぉ。(笑)
どんな質問に対しても、まるで最初から答えの引き出しがあってそこから取り出す如く間隙なく出てくるのには驚いてしまいます。
おっと、話は脱線したけど話を戻すと、上記については時間も経ってモチベーションも下がってしまったので、感想文UPはもう取り止めますね。(苦笑)
と、簡単に終わらせてしまうとまたかと怒られてしまいそうなので、要点だけ書いておきますと、オフでの話の中でお遊び程度としての“映画検定”なら私も目くじら立てる程のことでもなく無視できるのですが、映画好きって、皆がみな映画の専門家や映画博士になろうと思って好きになった訳ではないのでしょうけど、ちょっと詳しくなると方向性が完全にズレて行く人達が凄く多いのがずっと前から気になっていたし、そういった事でこういう映画検定などの趣旨がよく分からないし、そういうズレ幅を益々増幅しそうな感じで個人的にはこういう企画は凄く気持ち悪いのですよ。
だから、あえて強行に否定派の立場にいようと思っています。
以前ネットで映画の知識について話した事があるのですか、映画を観る上で“知識”と“感性”は車の両輪のようなものと言った事があるのですが、車の両輪という関係は少し間違っていて、知識は感性を助ける為の補助輪と言った方が正解だと思っています。
で、私の?は、「映画好きのくせして、どうしてそう答えのあるものばかりに頼ろうとするの?」という疑問ですね。
で、今回たまたまヤマさんと一緒に観た『拘束のドローイング9』という作品は、いわゆる商業映画ではなく職業監督ではない美術家が作った映画として、一般的に(商業映画枠の中の)アート作品と呼ばれる作品以上に難解な“アート作品”そのものなんですが、いわゆる映画検定好きの人達に最も嫌われそうな作品だったので、ああいう皮肉な副題を思いついたのです。(爆)
何故嫌われそうかというと簡単な理由で、その映画の中には明解な「答え」がないからです。
そして、モロに観る者の感性を試されているからです。
そして、その感想聞く事により観る者の本質をより引き出す力がある作品だからです。
映画好きな人の好きな言葉に“感動”というのがありますが、いわゆる“感動”の正体ってのはその人間の感性の中に隠れているものであり、知識ばかりを増やしたからといっても(いや、増やすことに必死になっても)それは、むしろ鈍化する方向に向かうだけだろうという懸念を私は強く抱くのです。そして、意外にそういう人の方が映画好きに圧倒的に多く見受けられるし、その傾向も強く感じられるのです。
だから私が言いたかったのは、お遊びとしての“映画検定”なら認められるけれど、それを目標にしても映画の観方が上がる訳でもなんでもないという事だけは念押ししたいということですね。
あの後、ヤマさんのサイトの掲示板であの日一緒に観た『拘束のドローイング9』の感想と絡めて、オフで話題に上がった“映画検定”話の続きで副題に「何故映画ファンは知識を試されるのは好きなのに、感性を試されるのを嫌うのか?」としたタイトルでブログにUPするなんて予告したのだけど、結局書けず終いになってしまった。f^_^;;
まあ、この長ったらしいタイトルだけで私の処に来る頭の良い人達なら殆ど了解するだろうと思って横着した部分もかなりあるのですけどどね。(笑)
しかし頭が良いと言えば、ヤマさんが来られてお話する度にその頭の回転の速さに毎回驚いてしまう。(笑)
最初に会ってお話した時から「どうなってるんだ!、この人の頭の中は?」って思っていたのだけど、会った人なら誰でも感じる事なんでしょうが、言葉に澱みがなく理路整然として破綻がない。私なら原稿用紙に書いたものを読んでもあんな風に言葉が出て来ないよぉ。(笑)
どんな質問に対しても、まるで最初から答えの引き出しがあってそこから取り出す如く間隙なく出てくるのには驚いてしまいます。
おっと、話は脱線したけど話を戻すと、上記については時間も経ってモチベーションも下がってしまったので、感想文UPはもう取り止めますね。(苦笑)
と、簡単に終わらせてしまうとまたかと怒られてしまいそうなので、要点だけ書いておきますと、オフでの話の中でお遊び程度としての“映画検定”なら私も目くじら立てる程のことでもなく無視できるのですが、映画好きって、皆がみな映画の専門家や映画博士になろうと思って好きになった訳ではないのでしょうけど、ちょっと詳しくなると方向性が完全にズレて行く人達が凄く多いのがずっと前から気になっていたし、そういった事でこういう映画検定などの趣旨がよく分からないし、そういうズレ幅を益々増幅しそうな感じで個人的にはこういう企画は凄く気持ち悪いのですよ。
だから、あえて強行に否定派の立場にいようと思っています。
以前ネットで映画の知識について話した事があるのですか、映画を観る上で“知識”と“感性”は車の両輪のようなものと言った事があるのですが、車の両輪という関係は少し間違っていて、知識は感性を助ける為の補助輪と言った方が正解だと思っています。
で、私の?は、「映画好きのくせして、どうしてそう答えのあるものばかりに頼ろうとするの?」という疑問ですね。
で、今回たまたまヤマさんと一緒に観た『拘束のドローイング9』という作品は、いわゆる商業映画ではなく職業監督ではない美術家が作った映画として、一般的に(商業映画枠の中の)アート作品と呼ばれる作品以上に難解な“アート作品”そのものなんですが、いわゆる映画検定好きの人達に最も嫌われそうな作品だったので、ああいう皮肉な副題を思いついたのです。(爆)
何故嫌われそうかというと簡単な理由で、その映画の中には明解な「答え」がないからです。
そして、モロに観る者の感性を試されているからです。
そして、その感想聞く事により観る者の本質をより引き出す力がある作品だからです。
映画好きな人の好きな言葉に“感動”というのがありますが、いわゆる“感動”の正体ってのはその人間の感性の中に隠れているものであり、知識ばかりを増やしたからといっても(いや、増やすことに必死になっても)それは、むしろ鈍化する方向に向かうだけだろうという懸念を私は強く抱くのです。そして、意外にそういう人の方が映画好きに圧倒的に多く見受けられるし、その傾向も強く感じられるのです。
だから私が言いたかったのは、お遊びとしての“映画検定”なら認められるけれど、それを目標にしても映画の観方が上がる訳でもなんでもないという事だけは念押ししたいということですね。