わたしは福岡での任期を終えて車で二日がかりで千葉に帰る。そのついでに4月3日には福井県にも足を伸ばした。
〈企画内容〉
⑤実は、車での福岡から千葉への帰省時に寄り道をする予定だ。全走行距離は単純計算で1,200km、14時間とされるが、さすが肉体的にきついので途中で一泊する。そこで琵琶湖の東側にある高速道路内の多賀SAでのホテルに宿泊後に、米原JCTから北陸自動車道を経由して福井県の敦賀ICで一般道に降り、一乗谷朝倉氏史跡、永平寺に寄る。次に国道158号~九頭竜湖を辿り東海北陸自動車道*白鳥IC⇒一宮JCT*名神自動車道そして東名高速道路に乗り換える予定である。
福井県敦賀市は、水戸天狗党の乱 の悲惨な末路になる終焉地である。この箇所は歴史的な場所でもあるが、福井県に行くこと、この目的自体にはわたし独自の理由があり、それは後ほど明らかにしたい。
武田耕雲斎の墓
一乗谷朝倉氏遺跡
永平寺
九頭竜湖
〈実際の旅程〉
武田耕雲斎の墓に行くのには、降りるICを間違えて戻って敦賀市内に着く。が、またまた気比神宮あたりで迷い、通り掛かりの中年女性やJR敦賀駅前派出所で任務に就くべく出勤したばかりの年配の警察官、コンビニの若い女性と聞きまくりやっと着いた。ここはあの 気比の松原(17,000本、圧倒的に黒松ではなく赤松で占められている。) が近くでもあるらしい。
天狗党が押し込められた 鰊(にしん)蔵のひとつは〈水戸烈士記念館〉 は、以前海岸沿いにあったもの。尊王攘夷派の天狗党は水戸藩内の幾多の内乱を経て、ついには、直接、当時は京都にいる一橋慶喜公に頼ってその素志を朝廷に達しようとする。
彼らは水戸を出発して約2か月、元治元年(1864年)11月から 12月、途中に中山道を経て木曽から雪深い中を山越えをする。中津川から揖斐、越前大野を過ぎて福井で、15代将軍になったばかりの徳川慶喜、幕府追討軍総括・田沼意尊の命をうけた幕府軍による地元の大野、福井、小浜、加賀の各藩に捕縛されたが、総じて住民を含めて彼らに対して極めて同情的であったという。しかしついに828人の内 353人が翌年2月に全員斬首された。処刑を実行したのは小浜、彦根藩である。
今、NHK大河ドラマの渋沢栄一の ‘青天を衝く’ でも脇役のように顔を出す武田耕雲斎や藤田小四郎がその統率役である。以前わたしは長野県下諏訪市近くのパーライト(黒曜石)鉱山での材検で行った際に、和田峠にてこの天狗党の踏破歴の石碑をまじまじと見て驚いたもの。また処刑されたこの地は、わたしにとって若いころに読んだ書物により一度は訪れてみたかった場所であった。(西上する天狗党の概略図の画像を添付する)
〈「魔群の通過 天狗党叙事詩」山田風太郎・文春文庫〉
〈「天狗争乱」吉村昭・新潮文庫〉
〈「義烈千秋 天狗党西へ」伊藤潤・新潮文庫〉
一乗谷朝倉氏遺跡 、は百年ほど朝倉氏が治めていたが、織田信長に滅ぼされ焼失した。その後長い間、水田などの耕地になっていた。しかし近年は発掘が進み中世の城下町としての全貌が明らかにされたものである。国内でも、町ごと丸々の遺跡の文化財として残されるのは珍しい。以前は造園学や庭園を学ぶ者にとっては古庭園跡が研修、鑑賞目的の地であった。わたしが訪れていた時節は、新芽どき、一帯を足羽川が清流として貫流していて町並みや区画が整備され、植えられた桜花の爛漫を呈して軽快なロケーションである。
永平寺は、近年、大規模に大木の樹木治療がなされたと聞き及んでいたが、残念ながら正門のみの撮影でパスする。
九頭竜湖は九頭竜湖はロックフィルダム。ここはそれ程標高が高いとは思われないが、落葉樹林内にはいまだ残雪があり、さくらはまだだし草木もあまり芽吹いていない。ここで、わたしの大好きな 蕗の薹 を安価で買うことが出来た。実は今年初めて食するのである。
そうか、勝山市には恐竜博物館があるのか、わたしは帰ってきてから気付く。本当に駆け足で回ったものである。今回5回の旅では全く俳句を作れず、と言うか詠まずにいる、旅の途では思い浮かばず終わる。最後に言うが、この福井県を以って、わたしは国内47都道府県を全部、踏破をしたことになる。
また、これで、生来からの地理好きで植物好きのわたしにとって、車での 怒涛かつ進撃の旅 は終わった。長年待ち望んでいた現地への踏査(観光!)を終えて、○○○○ロスに陥るかもしれない?!。
〈企画内容〉
⑤実は、車での福岡から千葉への帰省時に寄り道をする予定だ。全走行距離は単純計算で1,200km、14時間とされるが、さすが肉体的にきついので途中で一泊する。そこで琵琶湖の東側にある高速道路内の多賀SAでのホテルに宿泊後に、米原JCTから北陸自動車道を経由して福井県の敦賀ICで一般道に降り、一乗谷朝倉氏史跡、永平寺に寄る。次に国道158号~九頭竜湖を辿り東海北陸自動車道*白鳥IC⇒一宮JCT*名神自動車道そして東名高速道路に乗り換える予定である。
福井県敦賀市は、水戸天狗党の乱 の悲惨な末路になる終焉地である。この箇所は歴史的な場所でもあるが、福井県に行くこと、この目的自体にはわたし独自の理由があり、それは後ほど明らかにしたい。
武田耕雲斎の墓
一乗谷朝倉氏遺跡
永平寺
九頭竜湖
〈実際の旅程〉
武田耕雲斎の墓に行くのには、降りるICを間違えて戻って敦賀市内に着く。が、またまた気比神宮あたりで迷い、通り掛かりの中年女性やJR敦賀駅前派出所で任務に就くべく出勤したばかりの年配の警察官、コンビニの若い女性と聞きまくりやっと着いた。ここはあの 気比の松原(17,000本、圧倒的に黒松ではなく赤松で占められている。) が近くでもあるらしい。
天狗党が押し込められた 鰊(にしん)蔵のひとつは〈水戸烈士記念館〉 は、以前海岸沿いにあったもの。尊王攘夷派の天狗党は水戸藩内の幾多の内乱を経て、ついには、直接、当時は京都にいる一橋慶喜公に頼ってその素志を朝廷に達しようとする。
彼らは水戸を出発して約2か月、元治元年(1864年)11月から 12月、途中に中山道を経て木曽から雪深い中を山越えをする。中津川から揖斐、越前大野を過ぎて福井で、15代将軍になったばかりの徳川慶喜、幕府追討軍総括・田沼意尊の命をうけた幕府軍による地元の大野、福井、小浜、加賀の各藩に捕縛されたが、総じて住民を含めて彼らに対して極めて同情的であったという。しかしついに828人の内 353人が翌年2月に全員斬首された。処刑を実行したのは小浜、彦根藩である。
今、NHK大河ドラマの渋沢栄一の ‘青天を衝く’ でも脇役のように顔を出す武田耕雲斎や藤田小四郎がその統率役である。以前わたしは長野県下諏訪市近くのパーライト(黒曜石)鉱山での材検で行った際に、和田峠にてこの天狗党の踏破歴の石碑をまじまじと見て驚いたもの。また処刑されたこの地は、わたしにとって若いころに読んだ書物により一度は訪れてみたかった場所であった。(西上する天狗党の概略図の画像を添付する)
〈「魔群の通過 天狗党叙事詩」山田風太郎・文春文庫〉
〈「天狗争乱」吉村昭・新潮文庫〉
〈「義烈千秋 天狗党西へ」伊藤潤・新潮文庫〉
一乗谷朝倉氏遺跡 、は百年ほど朝倉氏が治めていたが、織田信長に滅ぼされ焼失した。その後長い間、水田などの耕地になっていた。しかし近年は発掘が進み中世の城下町としての全貌が明らかにされたものである。国内でも、町ごと丸々の遺跡の文化財として残されるのは珍しい。以前は造園学や庭園を学ぶ者にとっては古庭園跡が研修、鑑賞目的の地であった。わたしが訪れていた時節は、新芽どき、一帯を足羽川が清流として貫流していて町並みや区画が整備され、植えられた桜花の爛漫を呈して軽快なロケーションである。
永平寺は、近年、大規模に大木の樹木治療がなされたと聞き及んでいたが、残念ながら正門のみの撮影でパスする。
九頭竜湖は九頭竜湖はロックフィルダム。ここはそれ程標高が高いとは思われないが、落葉樹林内にはいまだ残雪があり、さくらはまだだし草木もあまり芽吹いていない。ここで、わたしの大好きな 蕗の薹 を安価で買うことが出来た。実は今年初めて食するのである。
そうか、勝山市には恐竜博物館があるのか、わたしは帰ってきてから気付く。本当に駆け足で回ったものである。今回5回の旅では全く俳句を作れず、と言うか詠まずにいる、旅の途では思い浮かばず終わる。最後に言うが、この福井県を以って、わたしは国内47都道府県を全部、踏破をしたことになる。
また、これで、生来からの地理好きで植物好きのわたしにとって、車での 怒涛かつ進撃の旅 は終わった。長年待ち望んでいた現地への踏査(観光!)を終えて、○○○○ロスに陥るかもしれない?!。
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