円谷プロダクション - Wikipedia
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円谷プロダクションは、円谷英二が設立した日本の独立映像製作会社。
同社は高度な特殊撮影技術を用いた作品を作ることで知られて『ウルトラシリーズ』を始めとする数多くのテレビ番組や劇場用映画を製作し続けている。
円谷英二 - Wikipedia
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円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月7日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)の初代社長。
概要
昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様と呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。
生い立ち
1901年(明治34年)、7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)で誕生する。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。
1904年(明治37年)、3歳。母セイが次男出産後病死(享年19)。婿養子だった父の白石勇は離縁され、英一は祖母ナツに育てられる。ナツの家系には、日本に銅版や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がいた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がってくれた。
1908年(明治41年)、7歳。須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学し、成績は優秀だった。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だった。あまり外交的な子供ではなかったという。
1910年(明治43年)、9歳。代々木錬兵場で徳川好敏、日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功、これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する[1]。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。
1911年(明治44年)、10歳。巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞するが、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持つ。貯金をして子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を作った。
1912年(大正元年)、11歳。新聞に載った一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。
1914年(大正3年)、13歳。尋常小学校高等科に入学。
1916年(大正5年)、15歳。尋常高等小学校8年生の課程を終える。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。
同年10月に上京、京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが一月余りで退社[1]。
操縦士を夢見て日本飛行学校へ
1916年(大正5年)11月、家族が大反対する中、操縦士を夢見て、玉井清太郎の紹介で、8月に開校したばかりの羽田の日本飛行学校に第一期生入学する。入学金は当時で600円(新築の家が二軒建てられた値段だった)したが、叔父の一郎が工面してくれた。
この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でこのときの円谷に言及しており、円谷も逝去時まで同著を意識した『日本ヒコーキ野郎』というテレビ企画を構想している。
1917年(大正6年)、16歳。日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗し、一機しか無い飛行機が墜落。教官・玉井清太郎の死も重なり、同校は活動停止(大正6年の高潮災害で設備や機材も喪失)に陥る。夢は破れ、退学する。
死去
1970年(昭和45年)、1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去(68歳)。最期までテレビ映画『日本ヒコーキ野郎』と長編特撮映画『かぐや姫』の企画を練っていた。
1月30日、日本政府より「勲四等瑞宝章」を授与される。
2月2日、藤本真澄を葬儀委員長として、東宝撮影所で友人葬が行われた。
3月1日をもって、東宝は「特殊技術課」を正式に廃止。ひとつの時代が終わる。
主な作品
教材映画
- 国防と防火(1939年、東宝)
- 農民と生活(1939年、東宝)
- 鉄道と信号(1939年、東宝) - 「着色フィルム動画(染料で、フィルムに直接色をつけたもの)」である。円谷の指導のもと、鷺巣富雄が着色を行う。
- 飛行理論(1939年 - 1940年、東宝) - 演出・脚本を担当。航空兵への教材映画。空中撮影も担当。
- 飛行機は何故飛ぶか(1939年、東宝) - 脚本・演出を担当。公開は1940年2月21日。
- グライダー(1939年、東宝) - 演出・脚本
- 九九式軽機関銃(1939年、東宝) - 陸軍兵への教材映画。
- 水平爆撃理論編(1940年、東宝)
- 鈴鹿海軍航空隊の教材映画。真珠湾攻撃のマニュアルとなる。鷺巣富雄の考案した「スチールアニメーション」を初使用。「実践編」と二部編成。
- 皇道日本(1940年、東京国策映画) - 撮影・編集を担当。
- 水平爆撃実践編(1940年、東宝) - 「水平爆撃理論編」の第二部。
- 浜松重爆撃機(1941年、東宝)
戦争映画
- 海軍爆撃隊(1940年、東宝)
- 燃ゆる大空(1940年、東宝)
- 南海の花束(1942年、東宝)
- 翼の凱歌(1942年、東宝)
- ハワイ・マレー沖海戦(1942年、東宝)
- 加藤隼戦闘隊(1944年、東宝)
- 雷撃隊出動(1944年、東宝)
- 太平洋の鷲(1953年、東宝)
- さらばラバウル(1954年、東宝)
- 潜水艦イ-57降伏せず(1959年、東宝)
- ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年、東宝) - 本作の特撮のために東宝撮影所内に「特撮大プール」が作られた。
- 太平洋の翼(1963年、東宝)
- 青島要塞爆撃命令(1963年、東宝)
- 太平洋奇跡の作戦 キスカ(1965年、東宝)
- 勇者のみ(1965年、東京映画・シナトラエンタープライズ)
- ゼロ・ファイター 大空戦(1966年、東宝)
- 連合艦隊司令長官 山本五十六(1968年、東宝)
- 日本海大海戦(1969年、東宝) - 特技監督として実質的に関わった最後の作品。
SF映画
- 透明人間現わる(1949年、大映京都)
- 虹男(1949年、大映)
- 透明人間(1954年、東宝)
- 地球防衛軍(1957年、東宝)
- 美女と液体人間(1958年、東宝)
- 宇宙大戦争(1959年、東宝)
- 電送人間(1960年、東宝)
- ガス人間第一号(1960年、東宝)
- 世界大戦争(1961年、東宝)
- 妖星ゴラス(1962年、東宝) - 日本初のフィルム6重合成を行う。
- マタンゴ(1963年、東宝) - 新鋭のオプチカル・プリンター「シリーズ1900」が導入された初作品。
- 海底軍艦(1963年、東宝)
- 緯度0大作戦(1969年、東宝・ドン=シャーププロ)
怪獣映画
1954年公開のシリーズ第1作『ゴジラ』でのクレジットは「特殊技術 圓谷英二」。『ゴジラの逆襲』で初めて「特技監督 円谷英二」としてクレジットされた。
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- ゴジラ(1954年、東宝)
- ゴジラの逆襲(1955年、東宝)
- キングコング対ゴジラ(1962年、東宝)
- モスラ対ゴジラ(1964年、東宝)
- 三大怪獣 地球最大の決戦(1964年、東宝)
- 怪獣大戦争(1965年、東宝)
- ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘(1966年、東宝)
- 怪獣島の決戦 ゴジラの息子(1967年、東宝) - 特技監修
- 怪獣総進撃(1968年、東宝) - 特技監修
- ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(1969年、東宝) - 監修(名義のみ)
- 獣人雪男(1955年、東宝)
- 空の大怪獣ラドン(1956年、東宝)
- 大怪獣バラン(1958年、東宝)
- モスラ(1961年、東宝) - 日本初の全世界同時封切り映画。
- 宇宙大怪獣ドゴラ(1964年、東宝)
- フランケンシュタイン対地底怪獣(1965年、東宝)
- フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ(1966年、東宝)
- キングコングの逆襲(1967年、東宝)
- ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣(1970年、東宝) - 監修(名義のみ)
その他の映画
- 狂つた一頁(1926年、新感覚派映画連盟、ナショナルフィルムアート、衣笠映画連盟)- 撮影補助、円谷英一名義。
- かぐや姫(1935年、JO) - 人形アニメの演出、撮影。アニメートは政岡憲三。
- 新しき土(1937年、JO・東和商事)
- 日本初の海外(ナチス・ドイツ)との合作映画。スクリーン・プロセスの技術をアーノルド・ファンク監督から絶賛される。
- エノケンの孫悟空前・後篇(1940年、東宝) - マット画合成法を日本初使用。作画は鷺巣富雄。
- 愛の世界 山猫とみの話(1943年、東宝)
- 勝利の日まで(1945年、東宝)
- 港へ来た男(1952年、東宝)
- 公職追放後の、正式な東宝復帰作品。本多猪四郎との初のコンビ作品。本多監督はこの作品で、円谷監督からスクリーン・プロセスの指導を受けている。
- 飛び出した日曜日(1953年、東宝) - 日本初の「トービジョン映画(立体映画)」。2台のキャメラを回し、立体映像を撮った。
- 私は狙われている(1953年、東宝)
- 「トービジョン映画」第二弾。立体映写の特別な設備が必要なため、『飛び出した日曜日』と併せて全国4劇場(日劇、浅草宝塚劇場、大阪劇場、名古屋名宝会館)のみの上映となった。本社の方針で2本限りとなり、円谷は残念がったという。
- アナタハン(1953年、東宝)
- 白夫人の妖恋(1956年、東宝) - 日本初の総天然色特撮映画。ブルーバック合成を日本初使用。
- 日本誕生(1959年、東宝)
- 「東宝映画1,000本製作記念作品」。バーサタイル・プロセス合成法を日本初使用。「オックスベリー社」の新型オプチカル・プリンターによって、日本初のフィルム4重合成を実現。
- 孫悟空(1959年、東宝)
- 世界大戦争(1961年、東宝)
- ゲンと不動明王(1961年、東宝)
- 大坂城物語(1961年、東宝)
- 大沈清伝(1962年) - 日韓合作映画。
- 大盗賊(1963年、東宝)
- 士魂魔道 大龍巻(1964年、東宝・宝塚映画)
- 大冒険(1965年、東宝・渡辺プロ)
- 奇巌城の冒険(1966年、東宝)
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