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聖書の説話とクルアーンの関係 - ウィキペディア

2016年05月28日 | 語学

聖書の説話とクルアーンの関係 - ウィキペディア

聖書の説話とクルアーンの関係では、イスラームの中心的宗教聖典クルアーンと、ユダヤ教キリスト教の聖典聖書の、特に同じ説話の登場人物について述べる。

西洋の非宗教的な学者の傾向として、上記のような類似点を分析し、聖書がクルアーンの起源と発展に影響した証拠とみなそうとするところがある。

しかし伝統的ムスリムの観点からいえば、こういった論議は意味をなさない。 伝統的ムスリムは、クルアーンは神アッラーフ天使ジブリールガブリエル)を通じてムハンマドに一連の啓示の中で伝えたものであり、この完璧で神性に満ちた啓示が一語一語、何度も何度も間違いがないように確認しながら、ムハンマドによってイスラームの支持者のために漸進的に筆記されたものだと信じている。

一方でクルアーンの物語は、それらを知らない人々に物語るための詳細よりも、物語の教訓や宗教上の意義に重きを置く。 人々が物語の詳細を既に知ると仮定した上で、道徳的・宗教的部分を強調する。
聖書もまた、神の啓示を反映したものだとはみなされる。しかしその啓示は、物語も大切な神託も、人間の手に渡る段階で貶められ歪められており( tahrif )、この逸脱を修正するためにクルアーンムハンマドに伝える必要があったのだとされる。

ムスリムが聖書をどう捉えるべきかの指針が存在し、重要なものに『クルアーンは常に聖書よりも信頼性が高い』というものがある。 そのため聖書は、クルアーンに一致する部分は受け入れられるが、クルアーンに一致しない部分は拒絶される。 聖書の中の多くの物語は、クルアーンでは触れられていない。 こういった節に関しては、ムスリムは信じるようにも信じないようにも指示されていない。 読んでもよいし、望めばその内容を伝えることもできる。

2つの聖典の共通点は、表面的なものにとどまると主張される場合もある。 聖典の通訳には原文の潜在的なメッセージが織り込まれ、訳者が体系的な差異に気づかされることにもなる。

全文聖書の説話とクルアーンの関係 

 


 

 聖書 - ウィキペディア

ユダヤ教およびキリスト教関連の宗教ではもっとも重要な宗教文書とされる。もっとも、旧約聖書新約聖書の両者を聖書と呼ぶのはキリスト教の立場に基づくものであることは留意すべきである。

ユダヤ教にとってはいわゆる新約聖書は教典ではないし、イスラム教にとっては両聖書(正確にはその一部)とクルアーンとはいずれも教典(またはそれに準じて尊重される文書)である(ただし、クルアーンが優越すると考えられており、内容に齟齬がある場合はクルアーンの記述が優先される)。

全文聖書 


私のメモ帳・・・「コーラン」 イスラーム教の聖典 ウィキペディア
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 クルアーン(コーラン)ウィキペディア 

クルアーンقرآن qur’ān)あるいはコーランは、イスラーム教イスラーム)の聖典である。

イスラームの信仰では、唯一不二のアッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。

ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。

クルアーンは、読誦して音韻を踏むように書かれている。「クルアーン」という名称はアラビア語で「詠唱すべきもの」を意味し、アラビア語では正確には定冠詞を伴って「アル=クルアーン」と呼ばれる。

英語では、Quran(Qurʾan)または、Koranと表記されるが、「コーラン」は、回教(回紇(ウイグル)に由来))と共に中国語「古蘭(または可蘭)」に由来する。 

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ムハンマド

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クルアーンの成立と正典化

クルアーンの成立経緯は、クルアーン自身とハディース(預言者ムハンマドの言行録)、およびムスリム(イスラム教徒)の伝承によれば、以下の通りである。

アラビアヒジャーズ地方の町マッカ(メッカ)の商人であったムハンマドは、40歳ほどであった西暦610年頃に、迷うところがあってしばしばマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していた。ある日の瞑想中に突然、大天使ジブリールガブリエル)が彼のところにあらわれ、神から託された第一の啓示を与えた(この最初の啓示時期はラマダーン月のライラトルカドルという説がある)。

はじめムハンマドはこれをジン(魔人)に化かされたものかと思い怖れたが、やがてこれを真に神から与えられた啓示と信じて、自ら啓示を受け取って人々に伝える使徒としての役割を務めることを決意した。そうして啓示はムハンマドが死ぬまで何回にも分けて下された。

ムハンマド自身は文盲であったため、彼を通じて伝えられた啓示はムハンマドと信徒たちの暗記によって記憶され、口伝えで伝承され、また書記によって記録され伝承された。しかし後にムハンマドに直に接し啓示を記憶した者たちが虐殺されはじめ、記憶を留めるためにクルアーンを一冊にする作業がはかられ始めた。
このように書物の形にまとめられたクルアーンをムスハフという。

まとめられる以前は、イスラーム共同体全体としての統一した文字化が行われなかったため、次第に伝承者や地域によって内容に異同が生じたり、伝承者による恣意的な内容の変更や伝承過程での混乱が生じはじめて問題となっていた。

これに対し危機感が抱かれ、初代正統カリフアブー・バクルの時期(632年~634年)に、ムハンマドの秘書を務めたザイド・イブン=サービト英語版)によって、初のクルアーンの編纂が行われ、続いて、第3代正統カリフのウスマーンがクルアーンの正典化を命じ、650年頃、再びザイド・イブン=サービトを中心として、クルアーンの編纂が行われて1冊のムスハフにまとめられた。ウスマーンは公定ムスハフを標準クルアーン(ウスマーン版と呼ばれる)とし、それ以外のムスハフを焼却させた。このためウスマーン版を除くムスハフは現在までのところ発見されておらず、クルアーンに偽典外典のたぐいは存在しないとされる。

1972年に発見されたサナア写本英語版には、ウスマーン版以前のものと考えられるクルアーンの断片が含まれており、従来、ウスマーン版以外のクルアーンの内容を伝えるものとして唯一のものとされてきた。

しかし、2015年になってイギリスバーミンガム大学に保管 されてきたバーミンガムコーラン写本英語版に使われている羊皮紙放射性炭素年代測定法で測定したところ、ムハンマドが生きていた時代に重なる568年645年のものであることが判明し、ウスマーン版以前のものとしては現存する最古の写本であると考えられている。この写本は2ページ現存しており、スーラの第18章から20章の一部が書かれている。

 

 


新約聖書とコーランを読んで二大宗教批判

新約聖書とコーランを読んで二大宗教批判

「新約聖書」と「コーラン」を読了した。読んでいて、どちらの書にもたいそう驚きを感じた。わたしがキリスト教およびイスラム教に対して、まちがった先入観をもっていたことを表わしていると思う。
「旧約聖書」は長ったらしいユダヤ民族の歴史書で、途中で読むのを断念してしまった。だが、概略はつかんでいると思う。
それで、まず、結論をいうと、「キリスト教徒の語ることは新約聖書には書いてない。
キリスト教徒の語ることは『コーラン』に書いてある。」ということである。

「新約聖書」に何が書いてあるかというと、イエスの伝記である四つの福音書と、聖霊の子と書いてあるはずのイエスがなぜか神の子として扱われるようになる様子を書いた歴史書である「使徒行伝」である。イエスは、自分のことを「ユダヤの王である」といい、その僭称の罪は死罪であるとしてユダヤ人に訴えられ、ローマの役人に死刑にされる。「使徒行伝」において、ペテロとパウロは、犯罪者であるイエスを神の子と信じる人を増やすために、民族の垣根を越えて布教する。犯罪者を他民族に神の子だと信じさせるのだから、ペテロとパウロはすごいものである。

わたしは、「新約聖書」の「使徒行伝」の反体制的なところを非常に高く評価し、体制を脱構築した歴史書だとして、神、イエス、聖霊への信仰はまったくないのに、かなり高く評価している。

だが、旧約聖書にも、新約聖書にも、神が全知全能で、神が天地の所有者で、神が万物の創造主であることはほとんど書いてない。書いてあった記憶がない。

で、「コーラン」には、神が全知全能で、神が天地の所有者で、神が万物の創造主であることは明確に書いてあり、くり返し、流麗な文章で賛美される。

はっきりいって、一神教の書物としては、まちがいなく、キリスト教の「聖書」より、イスラム教の「コーラン」のが優れている。

だから、わたしは、キリスト教徒には、「コーラン」を読むことを勧めようと思うし、キリスト教徒と宗教の会話をするには、「コーラン」のことばを引用して語れば、さぞ、キリスト教徒に喜ばれると思っている。
で、「コーラン」を読めば明白だが、「コーラン」は「旧約聖書」の解説書のようなものである。

モーセと、その兄アロンと、ノアと、アブラハムのことがくり返し言及され、称えられる。
「コーラン」では、神はいかなる子ももうけなかったとされ、イエスは神の子であることを否定される。

さて、「聖書」と「コーラン」の内容の紹介が終わったら、二つの哲学的検証に移りたいと思うが、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、同じ神を信仰しているのは明白である。
ただ、この神、一神教の神というものは、普遍的前提を知っている存在だと考えられる。
わたしが、現代哲学を勉強したかぎりでは、人類はひとつの普遍的前提すら知ることができない。
つまり、神を知ることはできない。
カントの「純粋理性批判」において、神は、物自体より至高の存在だとされる。そして、神は空間や時間より至高の存在であるか、という疑問がなげかけられる。

これに対して、「コーラン」において、「ああ、主は万物をとりかこむお方であるのに。」
という記述があり、カントと同じように、神を物自体より至高の存在ととらえているのがわかる。

わたしがいいたいのは、現代哲学において、普遍的前提を知る神の想定など考えても無駄であり、
キリスト教も、イスラム教も、過去の遺物であり、過去の悪習である。だから、新しい現代哲学を構築し、新宗教を開くべきである。わたしは、日本神道の信者であり、八百万の神々を信仰しているし、我が家は仏教の浄土真宗の檀家であり、葬式は浄土真宗で行っている。
仏教については、勉強している途中だが、それらのわたしの信仰も、狂信であると認めます。キリスト教を信じることも、イスラム教を信じることも狂信です。

世界中の人々が、過去の宗教からくる先入観から脱しておらず、先進的な思想を構築する必要性を強く感じるのです。
わたしがこのブログの記事を公開することで、
イスラム原理主義者から命を狙われるかもしれないと思うと、非常に怖いのですが、
やはり、キリスト教は邪教ですと断言したニーチェのごとく、
わたしも真実に誠実に叫ばなければならない。

キリスト教も、イスラム教も、仏教も、まちがってます。

あと、どうしても気になる余談をしますが、イエスはセム系のユダヤ人であります。
ヨーロッパ人にとって、イエスは白人でなければならないのです。
ヨーロッパ人はイエスを黄色人種だとは絶対に認めないでしょう。

だから、セム系のユダヤ人は白人ということになり、セム系のアラブ人も白人だということになるのです。
世界人類が幸せでありますように。
 

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