ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」 <目次と解説>

2014年12月03日 | 好きな歌

 

DR. JEKYLL AND MR. HYDE 2003
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=1mQt5FreIiQ 

 

     ジーキル博士とハイド氏の怪事件 ・・・

 

 カインの主義  カインはアダムの長子で、弟アベルを殺した男。
旧約聖書創世記第4章第8-9節に「彼等野におりける時、カインその弟アベルに起ちかかりて、これを殺せり。エホバ、カインに言いたまいけるは、汝の弟アベルはいずこにおるや、彼言う、我知らず、我あに我が弟の守者(まもりて)ならんや、」とあるので、ここにアッタスンが「カインの主義」と言ったのは、知っていて知らぬ振りをすることを意味したのである。・・・
戸口の話
  
 
 
 デーモンとピシアス 二人とも古代ギリシアの人で、その友情の厚いので有名であったので、「デーモンとピシアス」という語は、漢語における管鮑の交、刎頸の友、莫逆の友即ち親友を意味すること、「ジーキルとハイド」が二重性格を意味するようなものである。・・・戸口の話
 
 彼がハイド氏なら…… ハイドという名は「隠れる(ハイド)」という語と発音が同じであり、シークは「探す」という意味である。「ハイド・アンド・シーク」は隠れんぼを意味するので、その洒落である。・・・戸口の話
 
 フェル博士 別に理由がなくて人に嫌われたという人物。・・・戸口の話
  
 
 あのフィリッパイの囚人のように フィリッパイは昔のマケドニアの都市、聖書のピリピであって、この「フィリッパイの囚人」はパウロとシラスとをさす。使徒パウロとシラスとがフィリッパイに伝道に赴き、その地で投獄せられた。「夜半ごろパウロとシラスと祈りて神を賛美するを囚人ら聞きいたるに、俄かに大いなる地震おこりて、牢舎の基ふるい動き、その戸たちどころに皆ひらけ、すべての囚人の縲絏(なわめ)とけたり、」と新約聖書使徒行伝第十六章第二十五―六節に記されているところから、言った文句である。・・・ヘンリー・ジーキルの陳述書 
 
 壁にあらわれたあのバビロニアの指 昔バビロンの王ペルシャザルが酒宴を開いている最中に、人の手の指があらわれて、王宮の壁に解し難い形の文字を書いた。王は大いに恐れて、バビロンの知者どもにそれを解き明かさしめようとしたが、皆読むことができなかった。ダニエルが召されて、その文字を読み、王の治世の終りと国の分裂とを示すのであると言った。その予言はその後間もなく実現された。旧約聖書ダニエル書第五章に記されている故事である。・・・ヘンリー・ジーキルの陳述書 
 
 逃遁の邑(逃れのの街) 古代ユダヤで誤って人を殺した者を庇護した町である。旧約聖書民数紀略第35章、ヨシュア記第20章などに記されている。・・・ヘンリー・ジーキルの陳述書 


 「ジーキル博士とハイド氏」は、単に固有名詞としてのみならず、二重性格を意味する普通名詞としても亦、普く世界中に知られているくらいに、有名な小説である。原作の標題は“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde”(「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」)であって、ロバート・ルーイス・スティーヴンスン(1850~1894)による1885年の作、翌1886年1月に初めて出版されたものである。
 
 この作の創作過程については、既に種々の伝説が存在している。とにかく、「新アラビア夜話」及び「宝島」の出版によって初めて文学的名声を得たスティーヴンスンが肺患に悩みながらヨーロッパ大陸からイギリスに帰り、イングランド南海岸の保養地ボーンマスに父から買って貰ってスケリヴォーと名づけた家に病を養っている間、詩集「子供の詩の園」、長編小説「オットー王」などの脱稿の後、1885年、金の必要に迫られて、何か速く書き上げることのできそうな小説を頻りに考えている時に、或る夜中に見たによって、この二重人格の物語を思い付いたのだという。

 その夢に関しても諸説があるが、彼が夢みたのは、恐らく、彼自身の言っているように、一人の男が戸棚の中に押しこめられている時に薬を飲んで他の人間に変ったという場面だけくらいのものであって、他は目覚めている時に構想されたのである。

 彼は友人との合作戯曲「執事僧ブローディー」、短篇小説「マーカイム」など類似の題目を過去において幾度か扱っており、人間の二重性を主題とした物語を書くことを以前から意図していたのであった。最初の草稿は烈しい勢で忽ち書き上げられた。それを彼の妻が読み、寓話であるべきものが幾分平凡な物語になっていて、寓意が明らかにされていないと非難した。
 彼はその非難を認めて、異った見地から新たに書き直すことにし、完全な改作ができないことを恐れて最初の原稿を焼き棄て、再び白熱の興奮の中に約三万語の作を僅か三日間で書き上げたと言われている。
 尤も推敲と完成にはその後約一カ月を要したという。ともかく、スティーヴンスン自身の言葉によればこの書が「考察され、書かれ、書き直され、再び書き直され、印刷された」のが「十週間以内」であったというのは、真実であろう。

 こうしてこの作は1885年の秋の末頃には既にロンドンのロングマンズ、グリーン社から単行本として出版される準備が出来ていたが、出版社の営業上の理由から延期され、翌86年の1月中旬に発行された。
 最初は別に顧みられなかったが、「タイムズ紙」に紹介の一文が出るに至って世の注目を惹き、他の批評が続々と現われ、また聖(セント)ポール大会堂でその道徳的寓意(モラル)が説教の材料とされるに及んで、各地の教会の牧師も好んでこの作を引用し、世評は益々高まり、この書は大いに読まれて、一伝記者に従えばバイロン卿の如く「スケリヴォーの病隠遁者も一朝目覚めて自己の名高きを知った」のである。

 かくしてスティーヴンスンはこの一小編によって作家としての名声を完全に確立するに至った。
 この二年前に彼の出世作「宝島」の出現が世に迎えられた時もそれの最初の出版から一年間に売られた部数は約五千に過ぎなかったが、「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」は数カ月にして五万部を売り、更に大西洋を越えてアメリカにおいてもポーに比されて直ちに歓迎された。そして今日においては、前述の如く、全世界において「ジーキル博士とハイド氏」または「ジーキルとハイド」と言えば二重人格を意味するくらいに一般的となっているのである。

 作品そのものについては茲に解説しない。
 エドガー・アラン・ポーの「ウィリヤム・ウィルスン」、オスカー・ワイルドの「ドーリアン・グレーの肖像画」などと共に、この種の文学としては世界的古典となっているが、それらとの比較も読者にとって興味ある題目であるだろう。


 この翻訳は訳者所蔵の1886年ロングマンズ、グリーン社発行の初版本に拠ってなした。この書は同年発行の後の版を蔵しておられる市河博士の折紙付きで、その見返しの裏に鉛筆で書き込んであるように、今日ではあるいは“first edition, scarce”(初版、稀覯」)の書の部類の片隅に入るかも知れない。薄茶色のクロース表紙の本である。しかし、後に改版の際に多少改訂された個所は、大体その訂正を採った。
 訳文中に傍点を付してある部分は、原文において強調の意味を以て斜体活字(イタリック)で印刷されている語であり、圏点を付してあるのは、同じく強調の意味で頭文字だけで印刷されている語である。
 ジーキル(またはジェキルとも発音されるか)のジにヂを用いないのは、ディの音がわが国ではラオの如く屡々ヂと発音され且つ書かれるので、それと区別するためである。エドワド、リチャド等の発音はわが国における従来の慣用に従った。
 訳文中の数個の語句について巻末に簡単な注を付したが、注は一々読まれなくても差支えない。
 尚、この原作が献ぜられているキャサリン・ディ・マットス夫人は作者の従妹であって、献詩のヒースの生い茂り風吹き荒ぶ北国は彼等の故郷スコットランドをさすのである。
   1940年11月

佐々木直次郎

 


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