ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

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2016年12月25日 | 宗教

 きょうはクリスマス

いま私はキリスト教からは離れて生活しているて何の不安もない。
神仏などの存在は否定的である。
しかしキリスト教精神(博愛精神)は受け継いでいる(と思う)。

聖書にある言葉 

5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(マタイによる福音書

米軍機よる東京空襲の最中、本国に強制送還を拒んでいた宣教師たちは、聖路可病院などの収容所で一緒になって祈っていたという話をきいた。

「神様、どうぞ私の大好きな日本人に爆弾を落とさせないで下さい。代わりに私の上に落とさせて下さい・・・」

 

詳しくは、ブログをお読みください→http://bit.ly/1LoJP3V

 


 

 

日本聖書神学校についての情報を検索していたら、次のサイトがあった。http://bit.ly/2iqOQ9m

 

目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)に住んでいたメーヤー夫妻は、日米戦争がはじまると憲兵隊によってそのまま邸内に監禁され、1年後にはおそらく国際聖母病院Click!へと抑留されている。

 

1939年(昭和14)に、いち早く帰米していた三女ジーン・メーヤーの記憶では、両親の抑留場所は「孤児院」と認識されているが、孤児たちも養育されていた宗派の異なるカトリック系の「マリアの宣教者フランシスコ修道会」=国際聖母病院のことだと思われる。

 

ここには、当局の目を逃れて潜伏していた米国人、同じ福音教会のクレイマー牧師もいた。

 

メーヤー夫妻は、抑留生活をさらに1年間つづけるが、1943年(昭和18)に米国へ捕虜交換船で強制送還されている。

 

でも、聖母病院に潜伏していたクレイマー牧師をはじめとする欧米人たちは、1945年(昭和20)に戦争が終結するまで日本にとどまりつづけた。

 

戦後、いち早く救援物資のドラム缶が下落合一帯へパラシュート投下Click!されたのは、おそらくメーヤー夫妻の情報を1943年(昭和18)に米軍当局がキャッチしたからだと思われる。

 

 

 

 



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