ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

最後の誘惑 一押し映画の分析

2015年12月31日 | 好きな歌

最後の誘惑 



★ネタバレしても観る価値のある筆者の一押し映画の分析感想文集★
 批評は原則避けて作品をよりよく理解いただけるよう書いています。
 記事を読んで興味をそそられた映画がありましたら是非ご覧下さい。
 尚、重要な部分のネタバレはせずに書いていますのでご安心下さい。

最後の誘惑

 
結婚して何年目かの大晦日のことでした…最早、流行バンドや歌手の名前がろくに分からない中年に達しつつあった私と旦那の木村某は、紅白歌合戦などには興味ナッシングでしたので、映画を観ながら年を越そうと近所のレンタル店に赴きました。私は一年の最後、あるいは新年の最初となるに相応しい映画を懸命に探しましたが、旦那が喜び勇んで選んできたのは『スパイダーマン2』(原題:"Spider-Man 2" 04年米)でした(木村某はCGデザイナーなので、この手の映画を‘職業上観なければならない’という言い訳が成立する立場にあります)。別段、ハリウッドのお子様向け娯楽映画が悪いとは言いませんが、私としてはもう少しは知性に溢れる映画で年越しをしたい気持が強く、改めて木村某とは映画の趣味が合わない事実に愕然としたものです。私の不満げな態度を見て、木村某は‘じゃあ、もう一本借りようよ。小難しいアート・フィルムでも、お前が好きなおフランス映画でも何でもいいよ!’と挑発的に言いました。ならば!と、夫婦喧嘩の予兆を感じつつも、私は自分自身も大して観たくなかったのに、敢えてマッド・マックス監督…ではなくて、メル・ギブソン監督の『パッション』(原題:"The Passion of the Christ" 04年米)を選んでやりました。
リアルな描写でキリスト最後の12時間を映像化し、‘あまりの壮絶さに失神者続出!’、‘本年度最大の話題作!’とか何とか騒がれていた問題作です。神道と仏教以外の宗教には、アレルギー反応を起し易い木村某の気質を知っての上での厭味でした(エヘヘ!)。
ところが、帰宅してから『スパイダーマン2』と『パッション』を立て続けに鑑賞した結果、私でさえもう一度どちらかを観返さねばならないなら『スパイダーマン2』を選びたい気持になってしまうほど、『パッション』はあまり好きになれない内容だったのです。
単純に言うなら、面白くなかった ―― 私はミッション系の中高に在学していたので、その間に聖書の授業や数多の礼拝で何度となく聞かされたイエス・キリストの物語が、正に聖書に書かれている通りに映像化されていただけの映画だったので、何ら新しい発見もなく終わってしまった印象でした。
 
話題となっていた壮絶な拷問シーンはさすがにこれまでに作られたキリスト映画では観られない惨いものでしたが、それ以外の部分は監督独特の解釈すらなく、正に聖書の内容をまんま映像にしただけのようなものだったのです。ギブソン監督がこの作品を通して意図していたことは、綺麗事ばかりでイエス・キリストが人類のために払った代償を語るな…みたいなことだとは理解できました。故に鞭打ち刑や磔刑が極端にリアルに描写されているのでしょう。しかし、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』を既に観て、イエスが人類を救うために払った本当の犠牲が何であったかを自分なりに認識していた私としては、鞭打ちにされることや、磔刑で死んだことそのものは、イエスが人間生贄として神と新たな契約を結ぶ上では大した意味を持たないと認識していました。考えても見てください…鞭打ち&磔刑以上に苦しく惨たらしい死に方をした人間など、人類史上五万といるはずです。イエスの場合は‘自ら望んで’という部分に意義があるとは言え、彼が味わった肉体的な苦痛だけで人類の全ての罪が赦されるなら、お得な取引と言えてしまうでしょう。

makethumbdetails一方、木村某の『パッション』への反応は、私の予想を遥かに超えたものでした。‘キリスト教信者じゃなくちゃ、全くストーリーが理解できない作りになってるじゃないか!’と彼は言い、‘あらゆる客層を想定せずに作っておいて、何をどう感じればいいって言うんだ!’と憤慨しまくり。この時ばかりは、少々悔しくもありましたが、木村某の言い分は正しいと私も同意したものです。確かに『パッション』は、イエス・キリスト物語を観る側が既に一通り知っている前提で作られた映画でした。信者である以前に、私のように6年間も聖書の授業などを受けさせられた経験がなければ、何が何だかさっぱり分からなくて当然でしょう。イエス・キリストのことなど、世界中の誰もがご存じなはずだという、ギブソン監督のキリスト者としての驕りがプンプン匂ってくるような映画であることに間違いはありませんでした。欧米圏だけでなく、その他の地域へも配給上映する前提で作るならば、いくら何でもキリスト教そのものに関する説明が必要なのは大前提のはずです。しかしギブソン監督は、聖書の授業で牧師の解説付きで学んだとしても、一般人には納得し辛いイエス・キリスト物語の、中でも信者でない方々が最も理解に苦しむ部分だけを抜き取って、何の説明も無しに映像で描写しただけでした。『パッション』を観て何らかの感動を覚えた日本人の観客など、まず滅多にいなかったことでしょう。恐るべきことにこの映画は、イエスがそもそも何故に自ら進んでローマ軍に逮捕され、磔刑になったのかについてさえ、一切語っていません。キリスト教の布教率が世界中でも極端に低い日本国内で、この作品の公開に踏み切った配給会社も一体何を考えていらしたのやら!意味がさっぱり分からないから、パンフレットの売り上げが伸びるだろうとでも計算していたのでしょうか?兎にも角にも、物語映画の観る側への配慮が無視されている『パッション』は、キリスト教信者のためだけの作品と称しても過言ではありませんでした。この映画を観ても理解できず、自分が馬鹿なのではないかと不安になられてしまった皆様…ご安心ください、貴方は馬鹿ではありません。『パッション』という作品の作りが不親切極まりないだけの話です。アート系映画の難解さとは全く違った意味で、この映画は分かり辛いと言う以上に、分かる人にしか分からないように作られた、物語映画のルールを全面的に破りまくっている特殊な作品に過ぎません。

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the_last_temptation_of_christ_movie_posterすべての疑問を解決する斬新なキリスト像

私が通っていた中学・高校は、いわゆるミッション系と呼ばれる私立校だったため、当たり前のように『聖書』の授業を6年間通して受けざるを得ない羽目になった。プロテスタント系だったので、神父ではなく牧師が主に『新約聖書』について取り上げていた記憶がある。『新約聖書』とはユダヤ教の経典でもある『旧約聖書』と異なり、主に‘神の子’としてのイエスの生涯を描いたゴスペルだ。しかし、そこに納得行かないイエスの行動が記されている場合、例え牧師先生に何らかの回答なり解説を求めても、ひとえに「信じなさい&祈りなさい&感謝しなさい」の一点張りで、実に無責任な対応しかしてもらえなかった。そんな調子だから、必然的に私を含めた生徒達は試験もあるので、そのためだけに仕方なく『聖書』を学んでいたに過ぎない。ミッション系と言っても、ほとんどの生徒はご先祖様が寺の墓に眠っていたり、元旦には神社に初詣に行くような一般的な者がほとんど…真剣に『聖書』の授業を受けていたのは、親がクリスチャンだったほんの一部の生徒達だけ。他には誰も真剣に『聖書』などに興味を示すはずもない。だが私には、‘神の子’ イエスの言動の数々の中で、個人的にどうしても疑問を抱かずにいられないものが一つだけあった。全人類を救うため、ゴルゴダの丘で磔刑にされた際に彼が天に向かって叫んだ言葉…「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)」についてだ。『聖書』の授業でも、週一回行われていた全校礼拝においても、牧師や教員らが語って聞かせていたイエス像は、神に対して絶対的な信仰心を抱き、それに従って人々を苦しみから救わんとする、博愛者にして信者の鑑とも称すべき存在だった。そんな彼が正に世界に救済をもたらそうとしている最中に、何故に‘神に見捨てられた’等と口にしたのか?しかも、そのしばらく後には打って変わって、‘これですべては成し遂げられた’という意味合いの満足したような一言を残しては死んでしまうのだから、尚更のこと全く理解不明だったのだ。

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