ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

『神は妄想である』の著者クリントン・リチャード・ドーキンス ウィキペディア

2015年09月11日 | 好きな歌

クリントン・リチャード・ドーキンス ウィキペディア http://bit.ly/1NqIsHY

クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリス進化生物学者動物行動学者である。The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。存命の一般向け科学書の著者としてはかなり知名度の高い一人である。("Dawkins"の英語における発音は[ˈdɔːkɨnz]であり、多くの辞書の日本語表記は「ドーキンズ」とされているが、なぜか一般には「ドーキンス」という表記が多い。)

「不滅のコイル」「盲目の時計職人」「遺伝子の川」など、巧妙かつ多彩な比喩で科学を表現し、比喩使いの名手と称される。こうしたドーキンスの比喩表現は誤解を招く温床となりがちだが、ドーキンス自身は、「擬人的な思考は、使い方さえ間違えなければ、啓蒙に役立つ。また、そのレベルまで降り立って現象を解析できる。結果、科学者が正しい答えを出す助けになる」と、比喩を使った説明を擁護している。

 概説

ドーキンスは、「自然選択の実質的な単位が遺伝子である」とする遺伝子中心視点を提唱したことでよく知られている。「生物は遺伝子によって利用される"乗り物"に過ぎない」という比喩表現は、多くの読者に衝撃を与えた。遺伝子中心視点の考え方は、ミツバチが見せる一見利他的な行動など、動物のさまざまな社会行動の進化のプロセスを説明するために提唱された血縁淘汰説やESS理論を先鋭なスタイルで表現したもので、社会生物学が広く受容されるきっかけの一つとなった。自然選択を重視する彼の立場から、マレク・コーンはドーキンスをダーウィンの思想的後継者の一人と位置づけている。イギリスのメディアではダーウィンのブルドッグと呼ばれたT.H.ハクスリーになぞらえて、「ダーウィンのロットワイラー」と呼ばれることもある。

文化の伝播を遺伝子になぞらえた「ミーム」という語を考案した。スティーヴン・ジェイ・グールドとの論争でも知られる。この論争は社会生物学を受容するグループと拒絶するグループの象徴となったが、二人は創造論に対しては共闘関係にあった。熱烈な無神論者、反宗教主義者、懐疑主義者、ダーウィニストとして知られ、世俗的ヒューマニズムブライト運動、科学的合理主義の推進者でもある。2004年にプロスペクト誌が行った「イギリスの知識人100人」で首位に選ばれた。

2006年の著書『神は妄想である』は2007年11月の時点で英語版の売り上げが150万冊に達し、31カ国語に翻訳された。今日、彼の著書の中で最も有名な一冊となった。

全文→http://bit.ly/1NqIsHY

 ←ドーキンス

 

参照→神は妄想である ウィキペディア

 

経歴

 

1941年3月に、イギリスの植民地であったケニアナイロビに生まれた。父クリントン・ジョン・ドーキンスは軍人で、第二次大戦連合国軍に合流するためにイギリスからケニアに移住していた。1949年、ドーキンスが8歳の時に彼らの家族はイギリスに戻った。彼の両親は自然科学に関心があり、幼いドーキンスの疑問に対して科学的な用語を用いて答えた。

 

ドーキンスは幼少時代を「ごく普通の英国国教会信徒として育てられた」と述べている。しかし9歳の頃には「神の存在は嘘である」と考え始めた。しばらくするとデザイン論、つまり「自然の秩序や目的、複雑なデザインは神の存在の証拠である」とするインテリジェント・デザイン説の主張に納得させられ、信仰に戻った。その後再び、「国教会の習慣は不条理で、神を用いた道徳の押しつけだ」と考えるようになった。そして進化のプロセスを理解するに従い、彼の宗教的な視点は最終的に転換し元には戻らなかった。彼は自然選択が生物の複雑さを十分な説得力を持って説明できると感じ、超自然的造物主の存在を不要と考えるようになった。

 

1954年から1959年までパブリックスクールのオンドル校に通った。その後オックスフォード大学ベリオールカレッジに進学し、ニコ・ティンバーゲンの元で動物学を学んだ。1962年に学部を卒業し、1966年に学位を取得した。その後もしばらく研究のためにティンバーゲンの研究室に残った。ティンバーゲンは動物行動、特に動物の本能、学習、判断の研究の先駆者であった。ドーキンスはこの時代に、動物の意思決定について研究を行っている。

 

1967年から1969年まで、カリフォルニア大学バークレー校に動物学の助教授として赴く。カリフォルニアでは当時進行しつつあったベトナム戦争への大規模な反戦運動が行われており、ドーキンスもこの運動に深く関わった。1970年にオックスフォード大学に講師として戻った。同年ニュー・カレッジの会員に選出されている 。1990年に助教授となった。1995年に、チャールズ・シモニーの寄付によって新設された“科学的精神普及のための寄付講座”の初代教授に就任した。著名な教え子には数理生物学者アラン・グラフェン、動物行動学者でサイエンスライターのマーク・リドレー(マット・リドレーとは別人)がいる

 

2008年9月にドーキンスはチャールズ・シモニー教授職を定年退職し、後任にワダムカレッジの数学教授マーカス・デュ・ソートイが指名された。

 

1967年に動物行動学者メリアン・スタンプと結婚し、1984年に離婚した。その後Eve Barhamと結婚し娘のジュリエット・エマをもうけたが、彼らは再び離婚した。Eve Barhamは1999年に癌で死去した。1992年に、共通の友人であったダグラス・アダムスを介して知り合った女優のララ・ウォードと結婚した。

 

 


コメントを投稿