作曲家藤掛 廣幸さんの結婚記念日のメッセージと作品(2)
私はこんな道を通って作曲家になった...... http://on.fb.me/1N0QAJC 2011年7月7日 22:36
木漏れ日にキラキラと輝く谷川の流れ......
森の中で見つけた山百合の花の甘くむせるような薫り.......
あぜ道にゆれていたうす紫色の可憐な桔梗の花.......
みずみずしい新緑に包まれた山々..........
山々の緑を映して深い色に染まる川の水面.......
川面に光る鮎の姿..........
作曲をする時には、心にこんなイメージがよく浮かびます。
15才で中学校を卒業して、村を離れても、子供の頃に過ごした自然環境が作り上げてくれた感性が心の中に根を張り、作曲活動の源泉になっているんだな、と感じる事があり、東白川村で少年時代を過ごす事が出来て良かったな、と思えるのもそんな瞬間です。
作曲家になりたいと思ったのは中学3年の時でした。
子供の頃から山や川で遊んでばかりで、好きな事しかやらず、唯一自慢出来るのは、気が強くて「喧嘩には絶対負けないぞ」という事だけ!
ピアノを練習していた訳でもなく、音楽を勉強するような環境も経済力も無かったので「作曲家になりたい」という私の希望を聞いても誰一人実現の可能性を信じる人がいなかったとしても何ら不思議ではありません。
中学を出たら就職する事になっていたのに、たまたま受けた模擬テストの成績が良いのを見て、担任の先生が「新聞配達をすれば全日制高校へ行けるから県立高校を受験しなさい」 と勧めて下さいました。
全日制高校へ行けるなんて思ってもいなかったのですが「もし行けるのなら、シューベルトと誕生日も一緒だし、作曲家になりたいな」と単純に思いました。
「バイエル」というのがピアノの教則本だという事を知ったのも、その頃です。
図書館で「ピアノの弾き方」という図解入りの本を借り、「黒腱が二つ並んでいる左隣が..ド....というような調子で体育館に於いてあったピアノを借りて必死で独習しました。
音楽課程入試のピアノ実技はバイエルを10回も間違えて、最下位だったのにも関わらず、たまたま学科の成績が良かった為、県立高校だったのが幸いして幸運にも合格出来ました。
新聞配達店に住み込みで朝夕刊配達、集金、拡張等の仕事をしながら高校に通い、仕事の合間に大急ぎで学校まで走ってピアノを借りて練習しました。
それを見ていて、新聞店の親父さんが「孫にピアノを教えてやってくれ」とピアノを買い、私の部屋に置いて自由に練習出来るようにしてくれました。
そのお陰でずっと能率がアップしました。
大学に進んでからも、近くの新聞店で住み込みで働きながら作曲の勉強を続けましたが、今度の新聞店の親父さんは「出世払いでいいぞ」と言ってピアノを買ってくれました。
「毎月の月給から少しずつ払わせて下さい」とお願いして何年かかけて払い終えましたが、自分のピアノが持てるなんて夢のようでした。
このお二人の素晴らしい親父さんも、亡くなって何年もたちますが、私の心の中に、熱い感謝と共に今も生き続けています。
その後、いくつもの音楽コンクールに作品を応募して受賞しましたが、一番の転機になったのは世界三大コンクールの一つと言われていた「国際エリザベート音楽コンクール」でのグランプリ受賞でした。
力強い人間の生命力を感じさせる縄文土器からのイマジネーションを大編成のオーケストラ作品に結実させた「縄文譜」の受賞演奏会の為に1978年、初めてヨーロッパを訪れました。
いつかは必ずヨーロッパへも行かなければならないから、と英語の勉強にも力を入れていたのが役に立ち、この機会にと約2ヶ月かけてヨーロッパ各地を廻ったのも良い経験になりました。
受賞記念演奏会は、ベルギー国立交響楽団が素晴らしい演奏をしてくれて、満員の聴衆が立ち上がり盛大な拍手が何分も続き、大成功でした。
授賞式ではファビオラ女王様と通訳無しで直接話をしながら金メダルと賞状を頂きましたが、私が英語で書いたプログラムの解説を読んで「曲も素晴らしいがメッセージがとても良かった。
あなたはアメリカかヨーロッパ、どこで勉強したのか?」と聞かれたので「日本を出たのは今回が初めてです」と答えると大変驚かれました。
最後に「日本に帰ったらヒロヒトに宜しく伝えて下さい」と言われたので、「ヒロヒトさんとは誰ですか?」と女王さんに聞いてしまい、日本大使が大慌てで「て.て.天皇陛下の事ですよ!」と小声でアドヴァイスして下さいました。
あの時大使はヒヤッとしたんだろうなと思いますが、天皇陛下というのは「ヒロヒト」と呼ぶなんて、その時初めて知りました。
こんな風にして作曲家への道を走って来た訳ですが、当然の事ながら全て順調に行った訳ではなく、コンプレックスに打ちのめされそうになったり、様々な問題にぶち当たり、くじけそうになった事も沢山あります。
そんな時はいつも「どうせ何も無い所から始めたんだから思いっきりやってみよう」と自分に言い聞かせて乗り切ってきました。
「コンプレックス」が却ってバネになり、良い力を与えてくれたのだと思います。
経済的には貧しくても自然の中でのびのびと子供時代を過ごした事が、作曲活動をしていく上での精神の大きな財産になっている気がして感謝しています。
今後とも力の限りベストを尽くして生きて行きたいと思っていますが、これから人生を作り上げて行く子供達には、最初から「無理だ」とか「出来ない」と決めつけるのでは無く、「やればどんな事でも出来るぞ!」という勇気を持って欲しいな、と思います。
イギリスの友人に何度か言われ、いつも自分に言い聞かせている素敵な言葉を紹介します。
Nothing is impossible!
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