ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

米機の東京初空襲(1942年4月18日)の思い出

2016年08月11日 | 映画

米機の東京初空襲1942年4月18日

1942年(昭和17年)4月18日(東京に最初の空襲があった日)の思い出
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当時、母と私は叔母の夫(陸軍主計将校)の生家(山梨県大月市七保町)を訪ね、そこで過ごしました。大きい茅葺きの家で、2・3階は蚕のねぐらになっていました。

私を養子にしたいという親族の意見があったらしいですが、詳しいことは分かりません。

しかし、私の学校の問題ということで、須賀川(福島県)に戻ることになりました。

これも推測ですが、母にとっては、再び養蚕という仕事に従事するという煩わしさが嫌だったのかも知れません。

1942年(昭和17年)4月18日(東京に最初の空襲があった日)の早朝、私と母は祖母の夫に送られて家を出ました。

駅までの間に桂川(相模川の上流・山梨県の呼称)が流れています。
それを横切らねばなりません。当時は橋がなかったから、この渓流をおんぶされて渡りました。

朝早く家を出たのは、おそらく、他人に気づかれないように(逃げるように家出)するためだったと思います。須賀川から運んできた荷物は置いたままで、その家を出たのでした。

荷物は後で送り返されたことも知りました。

中央本線猿橋駅から上り列車(電気機関車が牽引)に乗り、東京に向かいました。

八王子駅(?)で東京行きの電車に乗り換え、更に東京駅で池袋方面行の山手線(外回り)に乗りました。 

神田駅を出た頃、電車の窓越に飛行機が見えました。かなりの低空飛行で、操縦席には人の姿が見えました。後で気づいたのですが、機体には日の丸ではないマークが付いていました。

電車が目白駅についた時、ホームのスピーカーから「空襲警報」のアナウンスを耳にしました。

てっきり友軍機と思っていましたが、実は敵機だったのです。マークが星の形の米軍機でした。地上からの対空砲火(高射砲)の音も聞こえませんでした。

 


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