ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

GHQチャペルセンターの思い出

2016年12月01日 | 所感

私は日本聖書神学校から中退した。まだ同校にいた頃、GHQチャペルセンターの日曜礼拝に出席していた。

叔母(西室淑子)を案内したこともある。西室美奈子の母

 

親戚の有名人・・・滝川さぎり

 

私の母の妹は東京音楽学校(現在の芸術大学)の声楽課を卒業しました。
その娘が松竹歌劇団(SKD)の昭和40年代の大幹部の一人「滝川さぎり」です。
そして滝川さぎりのいとこがフェースブックに登録しています。

 


https://www.facebook.com/otomaru.otohiko
http://bit.ly/2gJYpwi

 

 

そこにはGHQチャペルセンターがあった----議事堂前
http://exci.to/2fMlr3q 

下の写真の右,道路を挟んだ二つの三角地。この国会議事堂前にチャペルセンターがあったことを知る人は少なくなったのではないだろうか。戦後、GHQの教会がここにあった。議事堂に通じる真ん中の道路はなく、議事堂真正面にあたる位置に建てられていた。それが、占領軍としての意図によるものであったのかどうかは分からない。たまたまGHQに近い適地であったという理由だけだったかもしれない。この駐留米国人専用の教会は、昭和27年のサンフランシスコ条約で日本が独立した後も存在していた。60年安保の国会突入デモはこのチャペルセンター前に集合した学生によって行われた。樺美智子さんが圧死した悲劇の場所である。
この教会がなくなったのは、おそらく東京オリンピック前だと思う。

大学時代、昭和34年ころキリスト教徒でもないのに毎週日曜日、この教会に友人と通った。英会話の“勉強”のためである。午前11時からミサがあり、それが終わるとロビーでコーヒーを飲みながらそれぞれ歓談する。会話力も満足でないのにずうずうしくその輪の中に入りひと時を過ごしたのだ。当時の東京に居住するアメリカ人の数は少なく、ここに来る人たちは大使館関係や軍の高級幹部とその家族が多かったのではないだろうか。婦人たちもいかにもインテリという感じの品格を備えた人たちであった。まだ戦後14、5年しか経っておらず、日米の経済力の差は歴然であり、彼らに占領軍の意識が残っていたとしても無理はない。それでも彼らはあか抜けない学生に優しく、会話の相手をしてくれた。

大学では、英会話習得を主な目的とする英語クラブに所属していて、アメリカ人と直接話す機会があればどこへでも出かけて行ったものである。いろいろなコネを得て、現在代々木公園になっているワシントンハイツにある学校の先生の家を訪ねたり、成増のグラントハイツの米軍家族の家に行ったり。今と違ってアメリカ人を見かけることも少なく、街を歩いていても話しかけて友達になったり、とにかく生の英語に飢えていた。
そういう時代の英語クラブには部員が100人以上所属していたものだが、近年のクラブの様子を聞くと部員は僅か20人程度と言う。もう英語クラブに入らなくても、生の英語に接する機会はいくらでもある。世界中のテレビ放送が生で聞ける時代であり、もはや生の英語に飢えていた時代があったなどと言っても、彼らにはイメージすらわかないのではないだろうか。

国会議事堂とその前の三角地帯(森)。 by Google
チャペルセンターは今、議事堂へ向かう道路になっているあたりにあった
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大館郷土博物館 中田 羽後:なかた うご(1896~1974)
http://bit.ly/2gLrsOL

大館市桜町に生まれ、4歳の時に、牧師である父の転任により東京へ移住しました。青山学院中等部を卒業後、アメリカに留学しました。帰国後に「メサイア」を最初に邦訳演奏し、『リバイバル聖歌』を出版しました。その後、再びアメリカに渡り、日本人初の音楽学士号を得て帰国しました。
  業績は宗教音楽にとどまらず、NHK《みんなのうた》の第1回で放送され人気を集めた「おお牧場はみどり」の作詞も行いました。
  晩年は青山学院大学や東京女子大学などで指導にあたり、教会音楽研究誌である月刊『聖歌の友』を創刊するなど、生涯を通じてプロテスタント宗教音楽の伝道と普及に尽くしました。

1896年(明治29) 大館市桜町に生まれる。
1915年(大正 4) 青山学院中等部を卒業。
1921年(大正10) 『リバイバル聖歌』を出版。
1927年(昭和 2) 日本人初の米国音楽学士となる。
1932年(昭和 7) 「東京ボランティヤ・コワイア」を組織。
1947年(昭和22) GHQ東京チャペルセンター聖歌隊指揮者を務める。
1959年(昭和34) 日本福音連盟聖歌委員会編『聖歌』編集委員長になる。
1967年(昭和42) キリスト教文化協会よりキリスト教功労者表彰を受ける。
1969年(昭和44) 月刊『聖歌の友』を創刊、主筆となる。
1974年(昭和49) 死去。

 

中田羽後 - Wikipedia
http://bit.ly/2fSeUI1

おお牧場はみどり - Wikipedia
http://bit.ly/2gLzU0k

 

おお牧場はみどりは、スロバキアおよびチェコ東部モラヴィア地方(ホレラ・リプカ、ホレラ=菩提樹が燃えていた、燃えていた= - スロバキア語原題 : Horela lipka, horela / チェコ語原題 : Hořela lipka, hořela)と、チェコ西部ボヘミア地方(アイ、ルーチュカ、ルーチュカ・シロカー=ほら牧場、広い牧場= - チェコ語原題 : Aj, lúčka, lúčka široká)の民謡邦題。日本語版は中田羽後が作詞した。 

概要

スロバキアやチェコの農村地帯で古くから親しまれていた民謡で、両国では現在も民俗歌謡祭などでよく歌われている。19世紀末から20世紀初頭にかけての移民によってアメリカにもたらされ、牧場での集団労働を賛美する労働歌風の「ああ、美しい牧場」(英語原題 : Ah, Lovely Meadows)に改作された。

日本語の「おお牧場はみどり」は、大正時代に留学で渡米した経験を持つ牧師の中田羽後が、アメリカの"Ah, Lovely Meadows"の英語詞を下敷きに「ああ牧場はみどり」として3番構成の歌詞を作ったもの。第二次世界大戦後、日本YMCA編集の歌集に掲載され、うたごえ運動の隆盛を背景に各地の歌声喫茶で広まった。さらに1961年4月3日にはNHKが『みんなのうた』第1回放送の最初の歌として紹介し、この時題名と歌詞が「おお牧場はみどり」に改められた。学校教科書にも掲載されたことで母国以上に親しまれる歌となった。

NHK紅白歌合戦では、1956年第7回にて藤山一郎が「あゝ牧場は緑」の曲名で歌い、2002年第53回においてもコーナー企画「憧れのTVヒーロー&ヒロイン50年ショー」の中で歌われている(歌手:東京放送児童合唱団保田圭吉澤ひとみ高橋愛紺野あさ美小川麻琴新垣里沙モーニング娘。))。

チェコおよびスロバキアでは、自国の"Horela lipka, horela"や"Aj, lúčka, lúčka široká"の曲がアメリカや日本に伝わっていることは広く知られておらず、ドナルド・ラムズフェルド米国防長官(当時)がNATO大使時代の1973年に歌詞を覚えたという"Aj, lúčka, lúčka široká"をチェコの記者に歌ってみせた[ことや、"Horela lipka, horela"と「おお牧場はみどり」との関連についての日本人研究者の言及などが話題として報じられている。一方日本国内では、文献やインターネット上で、元の2曲の取り違えや憶測、曲解にもとづく伝聞を元にした「原曲は猥歌」「卑猥なため現地では子どもに歌わせていない」といった根拠のない流言飛語がいまなお絶えない。

 


 

 ベルカントシンガーズ 童謡コーラステレビ番組 おお牧場はみどり
https://youtu.be/fbqIZQc4t9Q


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