ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

動画「戦場のピアニスト2002」

2015年07月22日 | 好きな歌

最近、戦場のピアニストの動画が公開されました。 

映画】戦場のピアニスト 予告編(日本国劇場特報バージョン) 1分24秒2012年3月16日公開

戦場のピアニスト 全編 3時間18分19秒
The Pianist 2002 Full Movies || Hollywood War Movie Full 

2015年7月10日公開


 戦場のピアニスト

以下の出典は、ウィキペディアhttp://bit.ly/1Hqp4bSからです。 

戦場のピアニスト』(せんじょうのピアニスト、原題: The Pianist)は、第二次世界大戦におけるワルシャワを舞台としたフランスドイツポーランドイギリスの合作映画。2002年公開

概要

ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を脚色して映像化している。

カンヌ映画祭では最高賞であるパルムドールを受賞した。アメリカのアカデミー賞では7部門にノミネートされ、うち監督賞脚色賞主演男優賞の3部門で受賞した。 主演のエイドリアン・ブロディはこの作品でアカデミー主演男優賞を受賞した。

ストーリー

1930年代後半、ポーランドワルシャワユダヤ人ウワディスワフ・シュピルマンはピアニストとして活躍していた。

しかし1939年9月、その生活が一変する。第二次世界大戦が勃発し、ナチスドイツはポーランド侵攻を開始、シュピルマンが公開録音をしていたラジオ局はドイツ空軍による突然の爆撃を受け倒壊する。
なんとか脱出したシュピルマンは混乱の中で友人ユーレクの妹ドロタと出会い、以降、僅かばかりの友好関係を築く。
帰宅した彼は、イギリスフランスがドイツに対して宣戦布告をしたことを海外のラジオ放送で知り、戦争は早期に終結すると信じて家族と共に喜ぶ。

しかし、状況は好転する事がなかった。
ワルシャワはドイツ軍に占領され、親衛隊秩序警察による過激な弾圧によって、ユダヤ人の生活は悪化してゆく。
ダビデの星が印刷された腕章をつけることが義務付けられ、少しでも目立った行動をとるユダヤ人はナチス親衛隊の暴力にさらされるのだった。

1940年後半には、ユダヤ人たちはワルシャワ・ゲットーに押し込められ、飢餓、迫害、そして死の恐怖に脅かされた。

そんなある日、シュピルマンとその家族はその他多くのユダヤ人と共に親衛隊の命令で戸外に集められ、財産を取り上げられる。
ほどなく彼らは絶滅収容所行きの家畜用列車に乗せられるが、シュピルマンだけは知り合いのユダヤ人ゲットー警察署長ヘラーの機転で救われ、その場を逃れる。

ひとり残されたシュピルマンは、ゲットー内で強制労働を課せられる。
ここでシュピルマンは、ドイツがユダヤ人抹殺を計画しているらしいこと、そして生き残ったユダヤ人たちが蜂起の準備をしていることを知る。

シュピルマンは慣れない肉体労働に耐え切れずに倒れてしまうが、仲間の配慮で倉庫番や食料調達の仕事に回される。
シュピルマンは蜂起への協力を志願し、食料調達の立場を利用してゲットーへの武器の持ち込みを手伝う。

そんなある日、食料調達のため街(ゲットー外)に出かけたシュピルマンは市場で知人女性ヤニナを見かけ、彼女を頼ってゲットーの外に脱出することを決意する。

ゲットーを脱出したシュピルマンは、ヤニナとその夫アンジェイが加わる反ナチス地下活動組織に匿われて、ゲットーのすぐそばの建物の一室に隠れ住む。

ほどなくユダヤ人たちのワルシャワ・ゲットー蜂起が起こり、シュピルマンは部屋の窓からドイツ軍との激しい交戦を目の当たりにするが、蜂起は鎮圧され、ゲットー内の大半の人が殺される結果に終わる。

その後の1年で、ワルシャワの状況は一層悪化する。
シュピルマンは隣人に存在を気付かれ、隠れ家から逃避しなければならなくなった。

アンジェイに手渡されていたメモに書かれていた住所の家を訪ねると、姿を現したのはドロタだった。
シュピルマンはドロタの夫ミルカに匿われ、ドイツ軍の病院の向かいにある隠れ家を提供される。
しかし支援者からの食料差し入れが滞り、内臓疾患で死にかけたこともあった。

1944年8月、ポーランド人の抵抗勢力はワルシャワ蜂起を起こした。しかし、この蜂起もナチスドイツに鎮圧され、ワルシャワは報復として完膚なきまでの破壊を受ける。シュピルマンは、廃墟の中で完全に孤立無援となった。

ある日、廃墟の中で食べ物をあさっていたシュピルマンは、OGÓRKI缶詰を発見する。何とか開けようと悪戦苦闘していたところ、連絡拠点設営の下見に来ていたドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルトに物音で見つかってしまう。

シュピルマンを見つけたホーゼンフェルトは尋問し、ピアニストであることを知るや、演奏するように命じる。

その見事なピアノの腕前と、ドイツの敗退を予想するホーゼンフェルトは、密かにシュピルマンに食料を差し入れる。
包みの中にはライ麦パンと共に、缶切りが添えられていたのであった…。

原作

原作であるノンフィクションは戦争直後のポーランドで『ある都市の死』(Śmierć miasta)の題名で1946年に刊行された。

冷戦下のポーランドでは、主人公シュピルマンを救ったのが旧敵国のドイツ人では好ましくないため、やむなくオーストリア人としたが、ポーランド共産主義政権の手によりすぐ絶版処分となった。

以降、1960年代におけるポーランド国内での復刊の試みもポーランド政府による妨害にあい、ポーランド国内外で再版されることはなかった。

シュピルマンの息子アンジェイ・シュピルマンが復刊に取り組み、ドイツで独訳版(ISBN 343018987X)が出版されたのは1998年、イギリスで英訳版(ISBN 057506708XISBN 0753808609)が出版されたのは1999年になってからであった。

独題は "Das wunderbare Überleben"(奇跡の生存者)、英題は "The Pianist: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-1945"。日本語版は2000年に佐藤泰一の翻訳により春秋社より刊行され、題名は当初『ザ・ピアニスト』(ISBN 4393495217)だったが、2003年の日本での映画公開にあわせて『戦場のピアニスト』(ISBN 4393495268)に改題された。 


ある感動のストーリー http://bit.ly/1KlCJPC

燃えさかる建物の中で死を覚悟し、睡眠薬を飲んだシュピルマンだったが、翌朝、彼は頭痛とともに目覚めた。

 薬が効かなかったことと、建物の火災が五階まで広がらなかったためである。

またしても彼は生き延びた。 

その後も、建物の屋根裏に潜んだり、そこが見つかりそうになって、壊れた穴から急斜面の屋根に這い出して、へばりついていたら狙撃されたりと、絶体絶命のピンチを何度もくぐり抜け、汚い水をすすり、ネズミのふんにまみれたパンをかじったりしながら、破壊作戦進行中のワルシャワで、たったひとりで逃げまどいつづける。

そうしながら、それまでのレパートリーを頭の中で弾きつづけることも忘れなかった。いま風にいえば「エアーピアノ」だ。

そして1944年初冬、ある建物で食料探しに夢中になっていると、突然、背後から声をかけられる。ふり返ると、そこにドイツ人将校が立っていた。 

 映画の字幕でも日本語版自伝でも、ここで将校の物の言い方は上から目線で、たとえば本では「ここでなにをしているのかね」という風に訳されている。

だが、息子のスピルマン教授は原典において、将校が敬語のドイツ語を使っているという重要な点を指摘する。

おそらくyouの意味でもちいる二人称主語を、duではなくSieを使っているということなのだろう。当然、動詞の活用語尾も変わってくる。

ドイツ語から英語に訳されるときにそのニュアンスが失われ、英語テキストから和訳された日本語字幕や日本語書籍も当然同様で、いちばん大切な意味が失われてしまったと残念がる。 

ともかく、ドイツ人将校に見つかったシュピルマンは、こんどこそ――ほんとうにこんどこそ、もうダメだと思う。そして言った。

 「もう動けません。どうぞお好きなように」

すると将校はきいた。「あなたはなにをして暮らしているのですか」(と、敬語で)

シュピルマンがピアニストですと答えると、別の部屋にあったピアノの前につれていき、なにか弾くように求める。 

いくら著名なピアニストでも、シュピルマンは二年間、なにも弾いていない。指はアカでこわばり、爪はずっと長いあいだ切っていない。しかもピアノは調律が狂い、鍵盤も思うように動かない。

それでもシュピルマンは弾いた。ショパンの嬰ハ短調のノクターンを。

すると将校は、シュピルマンをユダヤ人だと確認したうえで、屋根裏の隠れ場所へ導き、定期的に肉などの食料を持ってきて、さらに毛布や、最後には自分の外套まで与えるのだ。 

シュピルマンは、相手が名乗るわけにはいかないのを承知していたから、自分のほうから「ポーランド放送のシュピルマンです」と名乗る。そして、あとで自分に助けられることがあったら、この名前を出してください、と。

 敗走するドイツ軍にあって、この将校が捕虜になるのは時間の問題と思われたからである。立場が逆転する可能性は、まもなくだった。 

だが映画で見たとき、ぼくは、さすがにここはハリウッド的な演出による作り話か誇張だろうと思っていた。話がドラマチックすぎるから。

ところが、事実はこのとおりだった。 

 戦争が終わってしばらくした1951年、ポーランド放送局に、ホーゼンフェルトと名乗るドイツ人女性から一通の手紙が届く。

 「私の夫はソ連の収容所にいます。夫は戦争も終わりに近づいたある日、シュピルマンという人を助けたと申しています。もしもピアニストのシュピルマンさんなら、夫の助けになってほしいのです」 

シュピルマンは助命嘆願に奔走した。

だが、ポーランドからの問い合わせに、ソ連の返事は冷たかった。

 「収容所には戦争犯罪人しかいない」

それからほどなくして、ホーゼンフェルトの獄死が伝わってくる。脳卒中を起こし、さらには精神に異常をきたした末の死だという。

しかし、ヴィルム・ホーゼンフェルトが助けたのはシュピルマンだけでなかった。ナチスのありかたに大いなる疑問を抱いていた彼は、自分の命にも関わることなのに、何人ものユダヤ人の命を救っていたことが判明している。

 彼の凛々しい横顔の写真と、日記の一部は書籍版の「戦場のピアニスト」巻末に掲載されている。 

この人道的なひとりのドイツ人将校がいなければ、ウワディスワフ・シュピルマンは生きて終戦を迎えることはできず、息子のクリストファー・スピルマンも誕生せず、多くの日本人学生がスピルマン教授に学ぶこともなく、またポランスキー監督の「戦場のピアニスト」によって、人々がワルシャワ・ゲットーの出来事を詳しく知ることもなく、エイドリアン・ブロディは、まだアカデミー賞俳優になっていなかったかもしれない。

ホーゼンフェルトの人柄は、間違いなく、21世紀に生きる何千万という人々に影響を与えているのだ。


知恵袋 http://bit.ly/1g6nSij

質問

戦場のピアニストでシュピルマンを助けたドイツ将軍

ホーゼンフェルト大尉がユダヤ人音楽家に「シュピルマンを知っているか?
彼を助けた。(今度は自分を)助けて欲しい」とすがる場面があります。

そのあと、その音楽家とシュピルマンがその場所へ行くシーンがありましたが、
最終的にホーゼンフェルト大尉はソ連の捕虜になり亡くなっています。

シュピルマンはどうして彼を助けられなかったのでしょうか?

実話ということですが、彼の書では何と書かれているのでしょうか?

映画がどのくらい事実に基づいて再現されているかにもよりますが音楽家がシュピルマンと捕虜跡地に行った時の会話からホーゼンフェルト大尉の名前がわからなかったために救えなかったのか、名前も収容された場所も特定できていたが、時代の背景もあり救出する努力はしたものの力になることができなかったのか、感謝はしていても助ける努力もしなかったのか実際の彼の行動が知りたいのです。

 回答

シュピルマンさんの息子さんクリストファー・シュピルマンさんの著書「シュピルマンの時計」の中で、この件に関して記述があります。

(息子さんはなんと日本におられ、大学の教授をなさっているそうです!)

それによると、当時ユダヤ人をかくまったりすると、その人だけでなくその身内や、その家にいた全員が殺されてしまう可能性があった。そのためにシュピルマンを助けた際にシュピルマンさんは名前を聞かなかったそうです。

もしも捕らえられて拷問された時に白状してしまうかも知れない。それならばいっそ名前も知らなければ、相手の名前を言わなくて済むからだそうです。

ただ1951年になってシュピルマンさんがポーランドで演奏家として活躍していた頃に、放送局に一通の手紙が届き「私の夫はソ連の収容所にいる。その夫が戦争も終わりに近づいた時にシュピルマンという人を助けたと言っている。その方はもしかすると演奏家のシュピルマンさんでしょうか。そうならば収容所にいる夫の助けになって欲しい」というものだったそうです。

そこで差出人の名前を見て、初めて自分を助けてくれた人の名前を知り、当時のポーランドの共産党の幹部のところに行って調べてくれるように頼んだが、「収容所には戦争犯罪人しかいない」というソ連側の冷たい返答しか来なかった、ということです。

冷戦の当時にはもうそれ以上の行動をとることは出来なかったそうで、後日大尉の住んでいた西ドイツに行ったところ、すでに収容所で亡くなったことを知って、大変に落胆されたそうです。

しかし彼の未亡人やお子さんたちとは交流があるとのことです。
また大尉は徴兵されるまでは高校の温厚な先生だったそうで、あの映画の中でもドイツ語のセリフではシュピルマンさんに対しては、敬語を使っておられるそうです。
大変に人道的で尊敬されるべき方が、最後に悲しい最期を迎えられたことは、戦争の悲惨さを象徴しているように思います。
 

質問した人からのコメント 

聞きたかった回答です、ありがとうございました。
映画で大尉が音楽家に叫ぶシーン、レビューでも議論が飛びかっている場面です。
私は名前が聞き取れなかったいきさつもふくめ違和感がありました。
しかし、息子さんの話が事実であれば当時の背景から理解できます。
また映画の中で大尉は丁寧なsieで呼びかけているのは本当に印象的でした。

 


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