ヘブライ語のティベリア式発音 ウィキペディア
ヘブライ語のティベリア式発音(ヘブライごのティベリアしきはつおん)とは、ヘブライ語の発音方式の一つで、旧約聖書のヘブライ語の伝統的な発音方式である。もともとはイスラエルの都市ティベリアのユダヤ人社会で口承により伝えられていた、聖書を朗読する際のヘブライ語の伝統的な発音方式であった。
概要
中世の初めに(8世紀頃)ティベリアのマソラ学者達は、子音のみで記された聖書ヘブライ語の伝統的な発音が後代に失われるのを防ぐため、子音のみのヘブライ文字からなる本文に、母音を示す符号「ニクダー」や、節回しを示す「タアメー・ハミクラー」を付加する書式を考案した。
ティベリア式発音を表記するために考案された「ニクダー」はミシュナーなどの他のヘブライ語文献でも使用され、後に様々な地域のユダヤ人社会で「ニクダー」はそれぞれの地域の伝統的な発音方式で読まれるようになった。「ニクダー」は今日、現代ヘブライ語の母音記号としても継承されている。しかし、現代ヘブライ語の「ニクダー」は、記号の形こそティベリア式のものを継承しているが、母音の発音方式自体はティベリア式発音とは異なり、セファルディムの発音方式が採用されている(詳細については“ニクダー”の項を参照)。
ティベリア式発音の研究資料
現在ヘブライ語の文法書で説明されている発音方式は、ティベリア式の発音体系ではなく、中世フランスのラビで、聖書注解者のダヴィド・キムヒが著した文法書に記されている体系に基づいている。キムヒの体系ではティベリア式の母音記号が「短母音」と「長母音」に分類され、それぞれの母音記号には、セファルディムの発音方式に基づいた音価が定められている(母音記号「カマツ」(אָ) には2種類の音価、/a/, /o/ がある点や、シュワー (אְ) の発音は /ɛ̆/) とされている)。
そのため、ティベリア式発音の本来の音韻体系を知るには、様々な文献を収集、検討することが必要である。以下はその参考資料である。
- アレッポ写本などの旧約聖書の初期の古写本には、古い発音体系を示す記号が記入されており、当時どのように聖書ヘブライ語が発音されていたかを知る直接の証拠となっている。
- 10世紀のヘブライ語学者アーロン・ベン・モシェ・ベン・アシェルの文法書『声の書』(Sefer haQoloth)や、『読者への指南』(Horayath haQoré)などの10世紀から11世紀頃に著されたヘブライ語文法書。また、アブラハム・イブン・エズラやイェフーダー・ベン=ダーウィード・ハイユージュなどの中世のセファルディムの文法学者による著作にある発音についての明確な説明の記述。イブン・エズラやイェフーダー・ベン=ダーウィード・ハイユージュの著作からは、すでにティベリア式発音がその地域の発音方式に影響されている証拠が見られる。
- ティベリア式と同時代の他の発音方式、エレツ・イスラエル(イスラエルの地)式や、バビロニア式。当時、パレスチナ、ティベリア、バビロニアのユダヤ人社会では、それぞれの地域の方言を基にした発音方式を発達させていた。「エレツ・イスラエル式」、「バビロニア式」で使用された母音記号は今日では使用されていない。ティベリア式の母音記号「ニクダー」は主にヘブライ文字の「下」に表記されるが、他の2つの方式の母音記号は、ヘブライ文字の「上」に表記されているのが特徴である。
- カライ派の人々によってアラビア文字で記された旧約聖書の写本。これらの写本では、母音の表示にティベリア式の母音記号が用いられている。母音の長短の区別を表すため、アラビア文字で長母音を表す子音文字(matres lectionis)やスクーンが記されており、ティベリア式発音の母音の長短の区別や音節構造を知ることができる。
- 口承によるヘブライ語の様々な発音方式の中でも特にイエメンのユダヤ人のヘブライ語の発音や、カライ派の発音方式。これら2つの発音方式は、ティベリア式発音と同じような古い発音の特徴をよく保持している。
母音
ティベリア式発音におけるヘブライ語の母音では7種類の通常長さの母音と、7種類の短い母音が区別されている。ヘブライ語の文法用語では、通常の長さの母音は「完全母音」(ヘブライ語:תנועות מלאות, [tĕnuˈʕoθ mĕleˈʔoθ ])、短い母音は「誘拐された母音」(ヘブライ語:תנועות חטופות, [tĕnuˈʕoθ ħătˤuˈfoθ ])と呼ばれる。
完全母音
完全母音はすべて、1つの固有の記号により表されるが、/u/ を表す記号のみ2種類がある。注意すべき点は、これらはすべて別々の母音を表しており、発音される長さの区別はなく、すべて同じ長さで発音されていたということである。
IPA での音価 | 記号の形 | 記号の名称 (ヘブライ語) | 備考 |
---|---|---|---|
[ɑ] | בָ | קָמָץ(カマツ) | 手書きの写本でのカマツの形には、ヘブライ文字の下の水平線と、さらにその下の点から成るものがある。名称の由来は、この母音を発音する際に両唇を「窄める」(ヘブライ語:קָמַץ, [qɑmasˤ])ところから。 |
[a] | בַ | פַּתָּח(パタフ) | 名称の由来は、この母音を発音する際に両唇を「開く」(ヘブライ語:פָּתַח, [pɑθ aħ])ところから。 |
[e] | בֵ | צֵירֵי または צֵירֶה(ツェーレー) | |
[ɛ] | בֶ | סֶגוֹל(セゴール) | 「セゴール」とはもともと「ブドウの房」のことで、記号の形からこの名称が付いた。 |
[i] | בִ | חִירִיק(ヒリック) | ヒリックの後にヘブライ文字「ヨッド」が母音補助記号として続く「ヒリック・マレー」もあるが、両者に音韻上の違いはない。 |
[o] | בֹ | חוֹלָם(ホラム) | ホラムの後にヘブライ文字「ヴァヴ」が母音補助記号として続け「ホラム・マレー」のあるが、両者に音韻上の違いはない。また、手書きの写本では常に文字の左上に記入された。 |
[u] | בֻ וּ |
קֻבּוּץ(クブツ) שׁוּרוּק(シュルク) |
「クブツ」と「シュルク」に音韻上の違いはない。ヘブライ語の本文の綴りに子音文字の「ヴァヴ」が準母音記号として記されている場合には「シュルク」が、それ以外では「クブツ」が使用された。 |
- 注:「記号の形」の欄でのヘブライ文字は、すべて "ב"で表しているが、「シュルク」は「ヴァヴ」と組み合わされた記号のため、そのまま表示している。
誘拐された母音
「誘拐された母音」とは、上に挙げた「完全母音」のそれぞれと対を成す、短く発音される7種類の母音である。
すべての種類の「誘拐された母音」が記号化されているわけではない。これは、「誘拐された母音」のそれぞれの音価の区別があいまいで、どの「誘拐された母音」を発音するのか、厳密に記号化するほど重要ではなかったからだと思われる。
「誘拐された母音」の記号としては通常「シュワー」が使用されるか、「シュワー」の隣に他の母音記号を組み合わせて表記される。これらの記号は普通、喉音を表す文字の下に記されるが、喉音以外の字母に記されている例も少なくない。
例:הַגֳּרָנוֹת(『ヨエル書』 第2章第24節)・אֶשְׁפֲּטֶךָ(『エゼキエル書』第35章第11節)
IPAでの音価 | 記号の形 | 記号の名称 (ヘブライ語) | 備考 |
---|---|---|---|
[ɑ̆] | [ ְ ] または [ ֳ ] | שְוָא(シュワー)または חֲטַף־קָמַץ(ハタフ・カマツ) |
|
[ă] | [ ְ ] または [ ֲ ] | שְוָא(シュワー)または חֲטַף־פַּתָּח(ハタフ・パタフ) |
|
[ĕ] | [ ְ ] | שְוָא(シュワー) | |
[ɛ̆] | [ ְ ] または [ ֱ ] | שְוָא(シュワー)または חֲטַף־סֶגוֹל(ハタフ・セゴール) |
|
[ĭ] | [ ְ ] | שְוָא(シュワー) | この母音の表記に [ְִ] 「ハタフ・ヒリック」という記号が使用されている例があるが、非常にまれである。 |
[ŏ] | [ ְ ] | שְוָא(シュワー) | |
[ŭ] | [ ְ ] | שְוָא(シュワー) |
- 注:『アレッポ写本』では、通常はただの「シュワー」で表記されるような場合でも、替わりに「誘拐された母音」が表記されている場合が見られる。これは、置かれた状況により、微妙に異なって発音される「シュワー」の音価をより正確に表現しようとしているのである。また「ハタフ・ヒリク」は、下に「ヒリック」が記された喉音の字母の直後の字母に使用されている例が5箇所、同写本中にある。
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