ある「世捨て人」のたわごと

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ナザレのイエス 

2017年05月06日 | 宗教

Jesus of Nazareth Full Movie HD - English

Where Jesus Walked

ナザレのイエス Wikipedia
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ナザレのイエス古典ギリシア語Ἰησοῦς ὁ Ναζαρηνός, Iēsūs ho Nazarēnos, 古典ラテン語Iesus Nazarenus, 紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃) は、紀元1世紀パレスティナユダヤの地、とりわけガリラヤ周辺で活動したと考えられている人物である。イエスの存在についてはフラウィウス・ヨセフス(1世紀)、タキトゥス(1世紀)、スエトニウス(1世紀)などの歴史家がその著作の中で言及している。

「ナザレの」とは福音書においてイエスが「ナザレのイエス」と呼ばれていることによる。イエスという名は当時めずらしくなく、出身地を含めた呼び方で区別されていた。キリスト教においてはイエス・キリストと呼ばれる。 

名前

「イエス」、古典ギリシア語再建音では「イェースース」(現代ギリシア語ではイイスス)᾿Ιησοῦς (Iêsoũs)は、ヘブライ語の「イェーシュア」からの転写形である。「イェーシュア」は「ヨシュア」ישוע (Yeshua)(正確には「イェホーシューア」)の短縮形であり、原義は「ヤハウェ(神)は救い」であって、モーセの後継者ヨシュアと同名である。ユダヤ人のあいだではごく一般的な人名であった。

生涯

イエスは「神の子」として誕生したと、『マルコ』『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』の4福音書が一致して述べている。しかし「神の子」という呼び方は当時ではありふれており、アブラハムの子孫を意味する言葉でしかなかったとの主張もある。(ただしヨハネによる福音書においてはイエスが『神の子』を自称したことを「神への冒瀆」としてユダヤ人に非難された記述がある。)

またイエスの誕生については、それぞれの福音書ごと記述する内容に違いが見られる。『マルコによる福音書』ではイエスの伝道から記述を始め、イエスの生誕については述べていない。母マリアの処女懐胎については、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』に記され、『マルコ』や『ヨハネによる福音書』には記述がない。『マタイ』と『ルカ』によれば、イエスはベツレヘムで誕生したことになっているが、イスラエルの救済者メシアはダビデの町であるベツレヘムで生まれるという伝承がユダヤ教にはあり、八木誠一は、この伝承に従って福音記者はこのような記述を行ったと考えている[6]。『ヨハネ』はイエスの生誕の地については記述していない。八木は、『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』によれば、イエスの父(または養父)ヨセフ古代イスラエルの王ダビデの末裔とされるが、メシアはダビデの家系に生まれるという伝承があり、福音記者はこの伝承に合わせて記述したと、と推測している。

福音書の記述の主な対象は、宗教活動を始めた時期のイエスである。その中で彼は、様々な教えを説き、奇蹟を起こした結果、弟子の集団が構成されたことになっている。福音書にはイエスがさまざまな病人の治療を行い、重い皮膚病患者を癒し、死者をよみがえらせたなど、多数の奇蹟が記されている。イエスは宣教の際に、比喩(たとえ話)を多く用いた。

大貫隆は、イエスは、洗礼教団の一派であるエッセネ派と何らかの関係を持っていたのではないか、と推測する。荒井献はイエスに洗礼をさずけた洗礼者ヨハネは、エッセネ派が帰属した〈クムラン教団〉の出自であったかもしれないとする。

イエスには多くの弟子ができ、福音書はペトロを筆頭とする「12使徒」をその代表としている。マグダラのマリアが筆頭の弟子であったというのは通説であり、マグダラのマリアがイエスの妻であったという説もある。

イエスの教え

福音書には、イエスの言葉として「山上の垂訓」など群衆に対して語った説教、弟子など限られた対象に向けて語った言葉、当時の宗教指導者らとの問答といったかたちで、多くの言葉が収められている。福音書の記述を史実と認める立場においては、福音書の中にイエスの教えについて多くの言説を認めることが可能である。一方、いわゆる高等批評においては、福音書は「イエスの言行録」ではなく「宣教文書」であり、イエスが語ったとされる言葉がイエスに帰属するかを疑うというのが基本的立場である。この立場においてイエスに帰属できる発言は数少ない。荒井献はイエスの発言にさかのぼれる言葉は少ないながら、イエスの特徴として、既存の権威に頼ることなく自らの言葉で断定的に語り、当時、一般に交流を深めることが忌避されていた人々(蔑まれ、虐げられていた人びと)に対しても分け隔てなく接し、社会の底辺に視座を据え権力を批判したことを認めている。

当時のユダヤにおける宗教的世界観は終末論を中心としていた[独自研究?]。『マタイによる福音書』は、洗礼者ヨハネヨルダン川近くの荒野において「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣教していたと記している(3章2)。また『マルコによる福音書』は、イエスがヨハネより洗礼を受けたあと「ときは満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と述べたと記している(1章15)。これは世の終末が近づいており、神の審判に備えて人は悔い改めねばならないという教えである

終末論的世界観のもとに生きたイエスは、人々に「悔い改めよ」と宣べた。その目的は「神の国(天の国)」に入るためであるが、新井智は、「神の国(バシレイア・テウー)」とは、ここにある、あそこにあるというようなものではなく、「あなたたちの間にある」と推測している。

イエスの死とその後

イエスは、伝統的なユダヤ教の一派であるファリサイ派のあり方、形ばかりで内容のともなわない見せかけの善行を痛烈に批判し、「神殿から商人を追い出す」[11](売買人を追い出し、両替商の台を倒した)など様々な批判を行った。このことは神殿貴族であるサドカイ派に対する大きな脅威であったため、イエスは政治犯として[13]おもにサドカイ派の人間によってローマ帝国に訴えられ、エルサレムのそばのゴルゴタの丘で、ローマ帝国の法に従って十字架刑に処された。

『マルコによる福音書』は十字架上で刑死したイエスの遺骸を、岩窟式の墓に葬ったと伝え、3日目に訪ねると、イエスの遺骸が消えていたと記している。川島貞雄と佐藤研は、文献学的な研究では、『マルコによる福音書』はこの記述で終わっており、後に記された復活の記述は後世の加筆である、と主張している(しかし、「イエスが死後、復活した」ということを明確に主張しているのは、他の福音書と変わらない)。

福音書によれば、イエスは磔の刑により死亡したが、3日後によみがえり、多くの弟子たちの前に姿を現したあと40日間ともに生活し、天に向かって昇って行ったとされる。

加藤隆は、イエスの死後、弟子たちは「ユダヤ教のナザレ派」として活動した、と主張している。新井智、田川建三、真山光彌によると、ほどなくして、エルサレムに本拠を置くヘブライスト(ヘブライ派)と、異邦人伝道のヘレニスト(ヘレニスム派)の間で、イエスの教えに関して論争が起こった、とする。田川によると、その後、ユダヤ戦争の結果として紀元70年エルサレム神殿が破壊されると共に、エルサレムのヘブライ派はほぼ姿を消し、イエスの教えが地中海世界全域にキリスト教として広がり、ナザレのイエスは救世主イエス・キリストとして知られるようになる。

「史的イエス」

問題の発生

史的イエスとは、イエスについてキリスト教信仰の観点とは無関係に、史料批判など歴史学的な手法を用いて探究される歴史上の人物像のことである。史的イエスに関する研究は、18世紀啓蒙時代の哲学者ヘルマン・ザムエル・ライマールスドイツ語版 (Reimarus) がキリスト教の教義によるイエスではなく、十字架刑に至るイエスの人生を見なければならないと問題提起したことに始まる。ライマールス以来の自由主義神学者たちは、イエス・キリストからキリスト教の教義を分離するという試みにもとづき、多くのイエス伝を著した。ドイツの神学者ダーフィト・シュトラウスは19世紀前半に主著『イエスの生涯』で、『福音書』にあるイエスの奇跡は自然現象を誤解したり間違って解釈したもので史実ではないと説明した。この主張は当時たいへんな驚きをもってむかえられた。フランスの宗教史家エルネスト・ルナンは19世紀後半に著した『イエス伝』によって初めてイエスを人間として描き出した。

20世紀ドイツにおける代表的な新約聖書学者ルドルフ・カール・ブルトマンは、1921年の『共観福音書伝承史』のなかで「原始キリスト教の信仰において本質的なことは、『宣教のキリスト』すなわち原始キリスト教団によって宣教(ケリュグマ)されたキリストなのであって、必ずしも『史実のイエス』ではない」という学説を唱えた。すなわち、『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の4福音書およびブルトマン学説発表後の1945年エジプトで発見された『トマスによる福音書』のそれぞれの福音記者たち(著者の帰属については高等批評トマスによる福音書も参照のこと)が史料として用いた伝承そのものに、伝承を形成してゆく目的として伝承者の信仰にもとづいたキリストの宣教がすでに内在していたということであり、そもそも福音記者たちに「史的イエス」に関する興味はほとんどなかったという説である。これは、原始キリスト教史家であるブルトマンみずからが各福音書に対して徹底的な史料批判をおこなって考察したうえで出された結論だった。

このブルトマンの学説は、史料批判によって客観的な史実を打ちたてることが出来ると考えていた歴史主義的な研究方法や、歴史主義に依拠して「史実のイエス」をみずからの信仰の拠り所として求めるに至った「自由主義神学者」に対するきびしい批判であり、聖書学のみならず神学一般にとっても20世紀最大の学的問題となった。

荒井献は、5福音書を相互に比較すると、各福音記者が等しく同一人物であるはずの「ナザレのイエス」について記しているにもかかわらず、それぞれの福音書に描写されるイエス像は互いに相当異なっており、全体として多様であることを指摘し、その理由として、ひとつには各福音記者によって採用されたイエスに関する口碑伝承そのものが異なる場合があることを掲げる一方、『マタイ』と『ルカ』にみられるごとく、両者に共通のイエスの語録資料(いわゆる「Q資料」)に依拠しながらも全体としては異なるイエスの言説を読み手に提示する場合があることを指摘し、このイエス像の多様性は各福音記者における「史観と視座の設定点」の差異以外からは説明できないはずであり、その設定のありようは詮ずるところ各福音記者の信仰のあり方やその創造力の内実によっているのではないかと指摘している。


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