平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

高野山38 高遠藩内藤家の墓所

2014年04月18日 | 高野山

 信州高遠藩の初代藩主が内藤家で、河内富田林藩の第2代藩主である内藤清枚1645-1714が果たしたということであるが、事績としてはほとんど表に表れないようでわからない。高遠藩が表にでてきたのは武田信玄の家臣として名を挙げる頃で、内藤清枚の100年ほど前のこととなる。諏訪一帯を高遠頼継が治めていたが、武田信玄に滅ぼされたあとは武田氏の支配下にはいって生き延びている。後に信玄の5男で勝頼の異母弟仁科盛信が高遠城主となったが織田軍の攻撃により落城すると自害した。これが1582年のことであるから、皮肉にも同年、織田信長は本能寺の変で暗殺されている。

 ところで、江戸時代を代表する高遠藩の名君に保科正之がいる。父は2代将軍徳川秀忠である。しかし母は正室・お江与(お市の方の末娘)ではない。秀忠の乳母の侍女で北条氏の家臣の娘・お静である。つまり侍女に手をつけたのである。将軍・秀忠は恐妻家で有名であり、正妻・お江与にお静の妊娠を知られないように見性院(武田信玄の次女)に預けられ養育された。見性院の縁で旧武田家臣の信濃の高遠藩主・保科正光に預けられて正光の子として養育され、後に高遠藩の藩主となっている。お江与は秀忠に側室を許さなかったほど気の強い女性であったから、お静の子の存在を知らせるわけにはいかなかったのである。しかしお江与は正之がいずれ将軍の子として認められるときのために秀忠の子であることの証文を取っている。お江与が亡くなり正之が18歳のときに初めて秀忠との対面を果たし、松平姓を名乗るように勧められたが、正光の弟が保科家を立てて大名になるまでは保科姓を通し、やがて会津松平藩主となったのである。保科家に恩義を感じてのこの姿勢に人々は好感をもち、同母弟・忠長を切腹に追い込んだ新将軍・家光も正之をかわいがった。やがて家光は幼い子(後の4代将軍・家綱)を残してこの世を去るときに正之に将軍家を頼む、と言い残したという。感極まった正之は後に会津藩の掟となる「家訓15か条」を作り、将軍家への絶対の忠誠をうたっている。また、会津藩は旗本とは違って武を重んじる藩となっていった。幕末の時代にあっても京都守護職を引きうけ、武芸に長けた新撰組の後ろ盾となったのは、そのへんに理由がある。保科正之は家光の死後、4代将軍家綱を補佐し善政を敷いた。大名取り潰しの要件を緩め、大名が亡くなった際の殉死の禁止を徹底させた。

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高野山37 島津家久墓所

2014年04月17日 | 高野山

 関ヶ原合戦の舞台で島津隊として陣を敷いたのが島津家久の息子・島津豊久1570-1600である。母は樺山善久の娘である。1584年の沖田畷の戦いに初陣し、敵一人を討ち取ると翌月に元服を果たす。父・家久は、島津氏が豊臣秀吉に降伏した年に死去したためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう島津義弘に命じたという。父の後を継いで日向佐土原城城主となり、豊臣秀吉に従い小田原の役や文禄・慶長の役など各地を転戦する。関ヶ原の戦いでは伯父・義弘と共に西軍として参陣したが、義弘提案の夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加せず、豊久も積極的な戦闘を起こさなかった。 やがて戦いが東軍優位となり、西軍敗戦の色が濃くなると、義弘を逃れさせるためにここ烏頭坂で奮戦し時間を稼ぎ戦死したとも、島津隊は家康本陣を霞める形で伊勢街道方面に撤退した後、義弘の身代わりとなって討死したとも云われている。 

16代島津義久1566-1587       
 ┣17代義弘━18代忠恒(初代薩摩藩主)━2代光久━3代綱貴━4代吉貴━5代継豊┓      
 ┗━━家久1547-1587(義弘 家久の父は貫久)               ┃        
     ┣島津豊久1570-1600                      ┃        
    樺山善久娘                           ┃        
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛        
┃        
┃        徳川宗尹1721-1764(一橋家初代当主・徳川吉宗の四男)
┃           ┗保姫1747-1769
┃            ┣悟姫
┗6代宗信━7代重年━8代重豪┓        
┏━━━━━━━━━━━━━┛        
広大院1773-1844(篤姫・茂姫)    
┃┣-                     
一橋家斉1787-1837(
治済1751-1827(一橋家二代当主)の長男)                     
┃                      
┃                     徳川宗尹┓
┗島津斉宣1774-1841(第9代薩摩藩主 母:春光院 養母:保姫)
 ┣島津斉興1791-1859(第10代薩摩藩主) 
 ┣┃┃━島津忠剛1806-1854(今泉家10代当主)     
 ┃┃┃  ┃┃     ┣忠冬1824-1859(今泉家11代当主)  
 ┃┃┃  ┃┃     ┣久敬1829-  
 ┃┃┃  ┃┃島津久丙 ┣一1836-1883 
 ┃┃┃  ┃┃  ┗お幸(島津久丙娘)-1869
 ┃┃┃  ┃┣島津忠敬1832-1892(今泉家12代当主)  
 ┃┃┃  ┃河野通記娘  
 ┃┃┃  ┣お熊1838-1842  
 ┃┃┃  ┣お龍1840-1840
 ┃┃┃ 海老原庄蔵娘  
 ┣┃┃━松平勝善1817-1856(伊予松山12代藩主)
 ┃┃┃  ┗松平勝成(聟養嗣)
 ┃┃┃              貞姫(斉彬娘)
 ┗┃┃━郁姫(島津興子)1807-1850  ┣篤麿1863-1904
   ┃┃          ┣忠房1838-1873
   ┃┃ 近衛忠熈1808-1898(安政の大獄で失脚)
   ┃┃  
   ┃┃直仁親王┓
   ┃┃   鷹司政熈(関白)┓一条忠良(公卿)┓堀利邦(旗本)┓
   ┃┃   鷹司任子(天親院),一条秀子(澄心院),お志賀(豊倹院) 
   ┃┃徳川家慶1793-1853 ┣-
   ┃┃ ┣13代徳川家定1824-1858
   ┃┃実津 ┣-
   ┃┃ ┏篤姫1836-1883(近衛忠熈養女)   
  ┃┣島津斉彬1809-1858
  ┃┃ ┃┃┣夭折  
  ┃┃ ┃┃恒姫(徳川斉敦娘)1805-1858
  ┃┃ ┃┣寛之助1845-1848
  ┃┃ ┃横瀬克己娘
  ┃┃ ┣篤之助
  ┃┃ ┣暐姫(島津忠義室)1851-1869 
  ┃┃ ┣典姫(島津珍彦室)
  ┃┃ ┣寧姫(島津忠義室)1853-1879近衛忠熈養女
  ┃┃ 伊集院寿満
  ┃┣池田斉敏1811-1842
  ┃┣候姫1815-1880
  ┃┃┣- 督姫(家康次女)
  ┃┃山内豊熈1815-1848
  ┃弥姫(周子:鳥取藩主・池田治道娘)
  ┣島津久光1817-1887
  ┃┃┣忠義1840-1897薩摩藩12代藩主
  ┃┃┣久治1841-1872宮之城家15代当主
  ┃┃┣珍彦 重富家
  ┃┃島津千百子
  ┃┗忠欣 今和泉家
  ┣唯七郎
  ┣智姫
 お由羅1795-1866斉彬廃嫡を謀略(お由羅騒動)

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高野山36 明智光秀墓所 本能寺の変覚書

2014年04月16日 | 高野山

 明智光秀といえば本能寺の変で織田信長を討った人物である。その本能寺の変の詳細を知る手がかりとなるのが、本城惣右衛門覚書。本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の足軽・本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録の内の一番乗りで本能寺に侵入したという部分を掲載したものである。この覚書から本能寺の変がどのように行われたのかが伺える貴重な資料となっている。 

現代文訳:守天働児

『明智光秀が謀反を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たちより先に入ったと言う人がいたら、それは嘘です。まさか、信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。その時は、太閤秀吉様が備中で毛利輝元様と対峙していたので、明智さまが援軍を申しつけられたのです。京都の山崎の方へ行くと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので、、。討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。また、本能寺というところも知りませんでした。進軍の途中、軍勢の中から馬に乗った二人の武将が前に出てきたので、誰かと思ったところ、斉藤内蔵助殿(利三)の子息で小姓を二人連れていました。本能寺へ向かう間、我々はその後ろについて行きました。片原町に入った時、子息殿は北の方へ行き、我々は南の堀に沿って東に向いて進んだところ、本能寺に入る道に出ました。橋の側に門番がいたので私たちは殺して首を取りました。そこから本能寺内に入ろうとしたところ、門は簡単に開いて、中は、ネズミ一匹いないほど静かでした。門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。その頃には建物の中には我が軍の多くが入っていました。この襲撃時には、以上のとおり、敵の首を二つ取りました。褒美として、槍を貰ったので、野々口西太郎殿に伝えます。』

 と、こうである。公家に反信長の動きは存在し、更に義昭、堺衆、本願寺、雑賀衆、丹波衆等、反信長勢力は各地に数多く存在し活動していた中で、本能寺の変の当時、光秀は在京信長軍団幕僚のトップとして織田軍に関わる情報のすべては光秀のもとに集っていた。そして、光秀は変前の一年間、ほとんど信長の周辺にいた。 そして覚書にあるように、本能寺攻めは明智光秀方の将兵達にも敵が信長であることを知らせないまま、粛々と実行されたのである。明智軍兵士達は、「徳川家康」を攻撃するとばかり考えていた。本能寺攻撃の現場に明智光秀はおらず、直接指揮をとったのは、斉藤利三や明智秀満勢であった。本能寺には信長以下100人に満たない将兵が、守りをほとんど行わないまま滞在していた。本能寺では戦いらしい戦いはされず、しかも、信長のみを狙った襲撃作戦であった。

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高野山35 石田三成墓所

2014年04月15日 | 高野山

  1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。まぎれもなく妊娠の兆候である。1593年、淀君は男子を産んだ。捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。

 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。そして女あさりが始まったようである。関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。

  秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。   淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。

 三成が昵懇にしている常陸水戸城主 佐竹義宣が火急を告げてきた。 加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七将が三成襲撃を企てているというのである。 このとき三成は家康のふところに飛び込むと、家康は保護し、息子の結城秀康の警護の元、近江佐和山城へ送り届け、石田三成の地位は失墜し発言権もなくなった。 徳川家康は伏見城から大阪城へ入城して政務を指揮することとなった。  石田三成が挙兵したのはそれから1年半後のことである。天下分け目の関ヶ原の合戦である。 結局、小早川秀秋の寝返りにより家康側の勝利となると、家康は大阪城に入り、淀殿と秀頼親子と会見を持ち、危害は加えない旨を伝えた。 家康の孫・千姫7歳が大阪城に入り、秀頼11歳と結婚の儀をかわしたのは、それから3年後のことである。 家康は征夷大将軍となり、秀頼は内大臣が約束され、家康の孫・千姫が嫁になったことで、淀殿は、秀頼が成人すればいずれは天下を譲ってくれるのではないかとの望みを捨てきれないでいたのであるが、家康は征夷大将軍を辞し、秀忠に譲ると徳川家の世襲として代々天下の政権を握ることを表明した。 千姫が嫁いできたことによって秀頼の将来が保証されたと思い込んでいた淀殿は衝撃を覚えた。 それ以降、淀殿は鬱状態になり暗雲立ち込めるようになる。

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幕末129 旧オルト住宅

2014年04月14日 | 幕末

 この家にはイギリス人ウィリアム・オルト(W.ALT 1840~1905)が1864(元治元年)~1868(明治元年)の4年間住んでいました。石造円柱が列ぶベランダの中央に切妻屋根のポーチがあり軒高の堂々たる偉容を誇る幕末明治洋館遺構の中でも出色の建築です。イギリス人の設計で日本人小山秀之進が施行したといわれます。オルトは1859(安政6年)に来日、貿易商として製茶業を主に実業家として活躍しました。妻エリザベス(1847~1923)と二人の娘との4人家族で、明治元年までの4年間を長崎で過ごしました。その後大阪で1年半、横浜に2年間滞在しています。オルトは病弱でしたので長崎にいる期間が短かったのですが、もっと長く長崎にいたらグラバーやリンガーをしのぐ居留地外商となり得たでしょう。このオルト邸は1880(明治13年)から2年間、創立期の活水学院校舎として使用され、その後はリンガーの長男の手に移り長く住居として使われましたので別にリンガー(兄)邸ともいわれたりします。 長崎市 (説明板より)

 ところで、このオルト邸には坂本龍馬をはじめ土佐藩参政・後藤象二郎、三菱重工創始者・岩崎弥太郎などが訪れ、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談が行われている。つまり1867年に起きたいろは丸事件に対する会談である。オルト氏がいかに土佐藩との結びつきが強かったかがわかる。

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Wedding at Loyal Oak Hotel Spa & Gardens

2014年04月13日 | 明治維新以降

かわいいお嬢さんでした Congratulations

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幕末128 旧リンガー邸

2014年04月10日 | 幕末

 この家にはイギリス人フレデリック・リンガー1838-1907一家が住んだ。広東にある英国系の会社で、茶の検査官として働き、中国茶の熟練検査官となったリンガーはグラバーと出会った後グラバー商会に入社する。数年後の1868年にグラバー商会を退職して大浦に「ホーム・リンガー商会」を設立する。その後、リンガーは製茶業・製粉・石油備蓄・発電など幅広い活動を始め、昭和初期までウラジオストクなど海外各港との貿易・商社代理業務にたずさわり、捕鯨業やトロール漁業、そして長崎市の上水道敷設など殖産興業に力を注いだ。かくして長崎の郷土料理には、くじらが加わることとなる

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稲日太郎姫命陵がある日岡の夜桜

2014年04月09日 | 国内旅行散策

雨が降る 夜中にLEDライト 持参で撮影 濡れる夜桜

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持ち慣れぬ 傘が桜の枝に触れ カメラに雨降り 濡れる我が顔

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幕末127 グラバー園 グラバー商会はマセソン商会の長崎支店

2014年04月08日 | 幕末

 長崎といえば誰もが知るグラバー園は、貿易商トーマス・ブレーク・グラバー1838-1911が住んだ日本最古の木造洋風建築をはじめとして数多くの建物・庭園がある観光地である。写真にあるように、ここからは三菱重工業・長崎造船所を一望することができる。かくして1939年に、戦艦武蔵の建造秘匿目的で所有が三菱重工業へと移ったが、後に長崎市へ寄贈され、現在は重要文化財となっている。

【トーマス・ブレーク・グラバー1838-1911の遍歴】

1838 誕生@スコットランド

1859 上海(共同租界)へ行きジャーディン・マセソン商会入社

【ジャーディン・マセソン商会】

    前身は東インド会社(By ユダヤ系大富豪コーエン家)

    現在でも影響力は絶大で以下が関連企業

       マンダリンホテル

       セブンイレブン

       ピザハット

       ケンタッキー・フライド・チキン

       イケア

       スターバックス

    【東インド会社】

       1595  東インド会社設立Byエリザベス1世 → 英産業革命

       16世紀 有田焼をヨーロッパへ広める

       1602  ジャワを植民地化

       1664  インド進出 → キャラコ輸入

       1773  ボストン茶会事件

           平戸に商館開設

       1876  アジア貿易独占

           沖縄那覇港に入港

       1877  解体       

    設立@1832-中国広州 By ウイリアム・シャーディン&ジェームス・マセソン

    広州:当時開かれた貿易港であった

    主業務は「アヘン密輸」「茶、絹輸入」「砂糖・香辛料輸入」→三角貿易による銀取得

    1841 マセソン商会@上海→香港移設

    1842 南京条約で香港割譲

    1854 日英和親条約

    1855 日露和親条約

    1856 日蘭和親条約

       長崎、函館開港

1859 横浜にマセソン商会横浜支店(英一番館と呼ばれた)開設

       元首相・吉田茂の父・吉田健三1849-1889が支店長就任@1868

       吉田茂1878-1967 

          在任期間:1948-1954

          義祖父 :大久保利通

          孫   :麻生太郎、寛仁親王妃信子

1867 グラバー商会(ジャーディン・マセソン商会長崎支店)設立

   幕府・西南雄藩に艦船・武器を供給

   長州ファイブの英留学手配

   神戸・大阪・函館にも支店開設

   幕末の夜明けは英仏のロスチャイルド家の指南を受けて行われた

   因みに戊辰戦争、西南戦争の武器はすべてジャーディン・マセソン商会が手配(米南北戦争で使用されたもの)

1868 吉田健三1849-1889がマセソン商会横浜支店長就任

   板垣退助、後藤象二郎、竹内綱などを支援

   明治新政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績

   吉田健三が40歳で急死(病死は疑わしい)したとき吉田茂は約50万円の個人遺産を相続した

   企業物価指数から当時の50万円は、いまの20億円(約4000倍) → アヘン利権、戦争利権の温床

1870 明治とともにグラバー商会破産

   グラバーは大名から大量の軍事物資注文を受け、上海のジャーディン・マセソン商会につなぐ。ジャーディン・マセソン商会へ代金として手形を振り出し、武器を受領し大名に引き渡す。1869年、ジャーディン・マセソン商会へのグラバーの債務は膨れ上がり、一日にして紙屑同然となった約束手形、そして山と積まれた無用の銃、弾薬、黒色火薬、毛布が残ったという。つまり、戊辰戦争の規模では、彼が買いつけた多量の軍需物資が売れなかったのである。4年も続いた南北戦争並みの長期内戦を見込んでいた。1870年にグラバーは破産を申請。負債総額は50万ドル
、破産整理には7年かかったと伝えられています。

   これはユダヤ系資本・グラバー商会が金儲けの為なら、人の命と引き換えに戦争物資を多量に長期にわたって調達するという姿勢を物語るものであり、吉田健三をはじめ板垣退助、後藤象二郎、竹内綱なども同罪であると言える。ナショナリズム(伝統、共同体を大事にする)の日本がグローバリズム(利益の為なら他人はどうでもよい)によって汚染されたのである。坂本龍馬も大久保利通も西郷隆盛も幕末の英雄などではない。ジャーディン・マセソン商会の駒として知らず知らずのうちに働かされ、気が付けば、奴らの利益の為に多くの同志(日本人)を殺していたのである。

 

   高島炭鉱経営@32歳 → 後に岩崎弥太郎が買収

   高島炭鉱事件@1888

      三菱の経営で鉱夫管理は納屋制度、鉱夫虐待の状況は87年末~88年の新聞・雑誌記事によって広く知られる

      納屋制度:炭鉱夫は三菱社員ではなく納屋頭所属という間接雇用(今で言う非正規雇用)

      三菱財閥はこのような犠牲なくしては発展は無かったとも言える

1885 三菱財閥の相談役に就任@47歳

1911 死亡

佐藤秀助
  ┣岸伸介1896-1987(A級戦犯者なのに総理  CIAスパイ:米国防省が認めた)
  ┃  ┃      反共産主義を条件にA級戦犯免れる
  ┃  ┃      児玉誉士夫、笹川良一とともに日本統一教会(反共産)設立に貢献 
  ┃  ┃      児玉誉士夫、笹川良一とともにアヘン利権で莫大な富を得る
  ┃  ┃      児玉誉士夫:自称CIA、戦争で得た膨大な利益で大物政治家に資金提供
  ┃  ┃      笹川良一 :A級戦犯容疑 自称CIA 政界の黒幕
  ┃  ┃  
  ┃  ┣洋子1928-
  ┃ 良子   ┣安倍晋三1954-2022 
  ┃   安倍晋太郎1924-1991 ┣
  ┃             昭恵(森永製菓) 

  ┣佐藤栄作1901-1975
  ┃

  

大久保利通1830-1878:暗殺
  ┣利和(岩倉使節団 日本鉄道創設)
  ┣牧野伸顕(岩倉使節団)
  ┃ ┣雪子1889-1941 
  ┃ 峰子  ┣健一(作家)
  ┃     ┣和子1915-1996
満寿子1840-1878 ┃ ┣麻生太郎1940-
        ┃ ┃ ┣
        ┃ ┃千賀子1950-(父:鈴木善幸)
        ┃ ┃
        ┃ ┣信子1955-
        ┃ ┃ ┣
        ┃ ┃寛仁親王1946-2012
        ┃ ┃(父は三笠宮崇仁親王、祖父は大正天皇)
        ┃麻生太賀吉1911-1980(麻生セメント会長:父・太吉は九州炭鉱王)
   士子   ┃ 

    ┣吉田茂1878-1967(養子:父は竹内綱(板垣退助の腹心)母は妾)
   吉田健三  ┣
     喜代1904-2003(芸者)

 

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古川明日香さん

2014年04月08日 | 古川明日香 古川未来 古野あきほ 早川完奈

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2014年04月08日 | 古川明日香 古川未来 古野あきほ 早川完奈

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2014年04月08日 | 古川明日香 古川未来 古野あきほ 早川完奈

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2014年04月08日 | 古川明日香 古川未来 古野あきほ 早川完奈

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古川明日香さん 誰もいない中津南公園

2014年04月07日 | 古川明日香 古川未来 古野あきほ 早川完奈

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