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松浦里紗@塩飽諸島・小与島

2021年08月31日 | 益田杏奈 松浦里紗 まい 水無月いと みゃ みどり

 

 

 平家は完全に福原を放棄して屋島まで撤退せざるを得なかった。 勲功の第一は義経である。 次の屋島を攻略するまでの間、範頼は吉備、安芸を攻めて拠点を確保し、義経は京都の守護を命じられていた。 京都守護は軍略が生かされるというよりも政治的な手腕が問われる任務であり、義経の得意とするところではなかった。 このとき、後白河法皇は義経を検非違使兼左衛門尉に任官したのであるが、頼朝の戦略は鎌倉に朝廷とは独立した軍事政権を築くことにあり、それを確保するには配下が安易に朝廷と接触してはならないところにある。 ところが、義経はそれを犯してしまった。 その背景には、京都の治安を守るには何らかの役職に就いたほうがいい、ということと、何かと範頼が優遇されていたところにある。 義経が後に 頼朝の敵になっていく事の発端はここにあった。 範頼軍がようやく大宰府を押さえ、伊予の河野水軍が源氏に味方することにより屋島攻略が可能となり、再び義経の出番がやってきたのである。 

 義経の戦略はその速さにある。紀伊の熊野水軍、伊予の河野水軍の協力が得られると、少数の精鋭を率いて海を渡ることを決めた。 ところが 頼朝から軍目付として派遣されていた梶原景時は、船には逆櫓をつけるべきでそれまで出撃するべきではないと慎重論を唱えた。 しかし義経はそれを一蹴した。早い出撃で敵の不意を突くべきというのである。 ここ摂津の「ながらの別所」には義経率いる強豪が集結した。折りしも強風である。 そのせいか、梶原景時の到着のみが未だであった。 義経は淡路、阿波の状況を仔細に探らせ、強風を利用し、この風雨の中、よもや・・・との平家奇襲出陣を決めるのである。 一番は云うまでもなく主将義経、二番は田代冠者信綱、三番は後藤兵衛実基、四番は金子十郎家忠、五番は淀の江内忠俊の船である。 そして、そのあとには鵜殿党、安宅党、九鬼党などの輸送船団である。  夜中の2時に船立ちをし、4時間後には阿波国勝浦(小松島市)に到着したという。 勝浦の近藤六郎親家、桜間の介能遠を破ると、義経一向は、深栖陵助が先の偵察の時に残していた仲間と讃岐路で合流した。 ここまでくればすぐそこは讃岐の平野、屋島も間近である。 

 一方、屋島の平家軍は義経軍がここまで迫っていようとは夢にも考えていなかった。 大将・平知盛は長門まで遠征し、また、伊予の河野通信を迎え撃つために、阿波・淡路にいた平家軍勢も集結していた。 かくして屋島の武者は少なく、さびしい限りである。 まして、義経の命で伊勢三郎・深栖が雑兵を連れて各地に松明をかざし、平家の眼を欺いたこともあり、義経本陣はいとも簡単に、牟礼の総門を破ったのである。  平家の武者は少ないといっても、源氏軍200騎足らずに比べるとはるかに多い。 しかし、平家方には馬がなく、多くの歩兵も、鵯越に続く急襲と源氏の精鋭の前には、餌食となるのである。 そして平家軍は牟礼の北になだれていった。 そして義経軍は反平家の郷武者が加わり、300騎近くに増えていたのである。

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