ルーブル美術館
火曜日:休館日
水曜日、金曜日----9:00-21:45
その他 ----9:00-18:00
時間指定チケットの入口----リシュリーの優先口
【12世紀:仏王フィリップ2世1165-1223により要塞建造@1192】
・十字軍遠征で留守にするので
フィリップ・オーギュスト城壁建設----タシュロン:職人のマーク
英国の侵攻防御のためにセーヌ川近くの城壁に要塞建設
1981の発掘で要塞が出土----現在は見学可能
【14世紀:シャルル5世1338-1380により街拡大】
・城壁の外側にも街が拡大
・要塞は宮殿に変わる
この時の宮殿は「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれている
【16世紀:ルーブル美術館 国王・フランソワ1世が惚れたダビンチ】
・それは16世紀初頭の一枚の絵から始まった、モナリザである。
・以降世界の秀宝が集められてきた。
・古代ギリシャの匠が大理石から掘り出したビーナス、
・ルネサンスの画家が描いた人間の姿、
・その68万点ものコレクションが500年の歳月をかけて集まった。
・これらの作品をフランスに導いたのは国王・フランソワ1世1494-1547である。
彼は1515年イタリアに攻め入り、ルネサンスの芸術を持ち帰るとフランスを芸術の街とした。
1516年ダビンチをフランスに呼び寄せた。
その時にダビンチが持っていたのが「モナリザ」である。国王はダビンチにほれ込んだのである。
そしてラファエロ・サンティオもその一人である。
ラファエロは柔らかに描くスフマート技法をダビンチから学んでいた。
またミケランジェロの彫刻もフランソワが手に入れた至宝。
そして1519年ダビンチが亡くなったが、最後までモナリザには筆を入れたという。
・その後フランソワ1世はイタリアから多くの芸術家を招き、
フランスに新たな「フォンテーヌブロー」という芸術が生まれた。
そしてフランソワ1世は城塞であったルーブルをイタリアのような宮殿に変えた。
レスコー翼は最も古い宮殿建築で、中心にはカリアティードの間という広場がつくられ、当時は華やかな宴が開かれた。
これは国王の遺言で作られたものである。
この時期の天才レオナルド・ダ・ビンチの「聖アンナと聖母子」という最高傑作がある。
羊として描かれた危険と戯れるキリストを羊から引き離そうとするマリア、
慈愛に満ちたマリアの微笑みが印象的である。
「岩窟の聖母」は30歳の頃の傑作(制作依頼者から受け取りを拒否された)、
「洗礼者聖ヨハネ」は最晩年の傑作、キリストの出現を予見しているものだという。
・仏建築家ピエール・レスコー 1515-1578により宮殿中庭改築 @1559
装飾はジャン・グージョン1510-1567----カリアティード装飾@1550
H装飾はアンリ2世 1519-1559の意味
C装飾はアンリ2世妃カトリーヌ・メディシス 1519-1589の意味
D装飾はアンリ2世の愛人ディアーヌ・ポワティエ1499-1566の意味
・アンリ2世の事故死の後シャルル9世1550-1574が継ぐ
K装飾はシャルル9世:ゲルマン読みでカール
この時カトリーヌは幼いシャルル9世の摂政
⇒フランソワ1世の母所有の土地に宮殿----チュイルリー宮殿
火災@1870で庭園だけが残る
・アンリ4世1553-1610建造
ルーブル最大の展示室グランド・ギャラリー----元々は宮殿間を繋ぐパッセージ400m
左右の壁には16世紀イタリア・ルネサンスの名画が展示されている。
ルネサンス師
・ジョット 1267-1337
・フィリッポ・リッピ1406-1469
・ペルジーノ 1446-1523
・ギリランダイオ 1448-1494
・マンテーニャ 1434-1506
ルネッサンス巨匠
・レオナルド 1452-1519
・ラファエロ 1483-1520
・ロマーノ 1499-1546
・ヴォルテガ 1509-1566
・アンチンボルト 1526-1593
バロック
・カラバッジョ 1571-1610
・ルイ13世1601-1643建造
ルメッシエ翼By建築家ルメッシエ
カリアチット様式----柱が女性
Λ(ラムダ)装飾はルイ13世
A装飾はルイ13世妃のアンナ・ドートゥリシュ
【モナリザは1503年に肖像画として注文を受けて製作開始された普遍的な絵】
・ドゥノン翼
・モデルはフィレンツェの絹商人の妻・リザ・デル・ジョコンド。
・ダビンチの真作は15点程度と言われるくらいに少ない。
それは納期を守らず注文通りに描かないという完璧主義者だったからで、仕事はなく各地を転々としたという。
こうした状況の時に注文を受けて描いたのがモナリザである
やはり納期を守らず。当時の名誉は最高権力者・ローマ教皇から注文を受けることであったが、
ダビンチの絵はバチカンには何も残っていない。
・そしてやがてイタリア侵攻していた敵のフランスのフランソワ1世に仕える。
いかにイタリアから信頼を得ていなかったかがわかる。
そしてダビンチは、半身不随になりながらもモナリザをずっと持ち歩いて
描き直し(塗り重ねの技法:スフマート=語源はスモーク煙)続けた。
1911 盗難
1956 一部破損
現在 ニスと絵具の経年劣化により黄ばんでいる
【宗教戦争の血で染まったルーブル】
・フランソワ1世の孫シャルル9世が即位すると、カトリックとプロテスタントとの宗教対立が深まった1572/8月
・ 両者の和解を目指しカリアティードの間という広場で王の妹とプロテスタント貴族が結婚。
・ 宴の後、プロテスタントはサンジェルマン教会の鐘の音を合図にカトリックを襲撃。
・ シャルル9世はこの暴走を抑えることができず。ルーブルも多くの血で穢された。
・ ルーブルから始まったサン・バルテルミの虐殺1572年は国中に広がった。
・ フランソワ1世の芸術による平和の国フランスは消え去った。
・この宗教対立が収まったのは20年後
・ アンリ4世(パリ・シテ島の西端に騎馬像がある)が国王となり芸術の力を重んじてプロテスタントを解放した時である。
・復興はルーブル、宮殿の中に巨大な回廊(グランドギャラリー)を築かせたのである。
・アンリ4世はこの場所に多くの芸術家を住まわせて、これを拠点にフランス独自の芸術がうまれた。
・ガブリエル・デストレ(アンリ4世の寵愛を受けた女性)などのフォンテーヌブロー派芸術である。
・これを機に実在の女性の裸体表現が広まった。
ガブリエル・デストレとその妹ビヤール公爵夫人の肖像
【17世紀:ルーブル美術館 ルイ14世によるアポロンのギャラリー】
・豪華王宮入口設計(東ファサードの設計)
ルイ14世は伊建築家ベルニーニ1598-1680に依頼
仏建築家クロード・ペロ1611-1688が再設計
ナポレオン1世が着手ほぼ完成----N、鷲、蜜蜂
ルイ18世装飾完成----L
・ドゥノン翼
・17世ルイ14世の治世、フランスの芸術を花開かせ多くの芸術家を育てたことで芸術大国フランスとなった。
リゴーによるルイ14世の肖像画は有名である。
ルイ14世が即位したときの絵画コレクションはまだ数十点だったという。
そして諸国の名画をできる限りあつめたことで2500点になった。
・ルイ14世は4歳で即するが対立する貴族に追われて9歳でパリを離れる。が、再び絶対王政を取り戻したのは22才。
その権威を誇示するために芸術の力を借りた。
・その思いを伝えるのがルーブル美術館のアポロンのギャラリーである。
回廊の中央天井には太陽の神・アポロンを描いて自らをなぞらえ、太陽王と語った。
・またこの時代は戦争に明け暮れた時代でもあった。
オランダでの勝利を記念するサンドニ凱旋門は古代ローマ風で、王が育てた芸術家が刻んだものである。
・1663年ルーブル宮殿に王立絵画彫刻アカデミーが誕生した。
王の業績を後世に伝える芸術家を育てることが目的である。
そしてルイ14世が手本として示したのがニコラ・プッサンというひと世代前のフランス人歴史画家であった。
「サビニの女たちの略奪」
(古代ローマの伝説で、女が少なかったローマではサビニの女を略奪して子孫を残そうとした歴史を描いた)
などの歴史画・古典画に対する知識を頂点とした。
・ベルギーの巨匠ルーベンスは「マリーの生涯」を24枚の連作として描いた。
マリーはイタリアフィレンツェのメディチ家出身、ルイ13世の妃となったが、彼女の生涯を描いた連作である。
アポロンのギャラリー@ドゥノン翼
・ルーブルの中庭にはピエール・ピュジェによる「クロトナのミロ」がある。
かつての勇者が身を亡ぼすさまを彫刻にしたものである。何を表したかったのだろうか。
また中庭には4体の捕虜のブロンズ像がある。
それはルイ14世が20年に渡って戦争を行い4国を制覇した証のものであるという。
・この治世芸術の繁栄の一方で飢え苦しむ国民は増え続けていた。そして太陽王への尊敬は失われていった。
・1715年国の財政が破綻寸前の状態で、ルイ14世は亡くなった。
・18世紀初頭、これまでにないフランス独自の美が生まれた。それは権力や栄光とは無縁の華やかで繊細なロココ芸術。
・そしてやがて国民の家に飾るような絵が売買されるようになった。特に人気がでたのは静物画だったという。
【19世紀:ルーブル美術館 ナポレオンのコレクション】
・ドゥノン翼
・ルーブル美術館は西洋美術の宝庫であるが、実は6万点もの古代エジプトの美術品が収められている。
これらは4000年以上も前のナイル川流域の芸術である。
特に書記座像。書記はファラオの祈りを神に届ける役目を担う重要な職である。
太陽神などの神々に祈りを捧げるためにパピルスに記したヒエログラフは世界中に知られている。
これらがもたらされたのは19世紀。
・1789年のフランス革命では王政を打倒し、その直後ヨーロッパ諸国との戦争に追い込まれたときに現れたのがナポレオン
イタリア遠征などでは革命軍を鼓舞して連勝。列強からの脅威を退けてフランスを独立に導いた。
そして戦勝品である絵画などを数多く持ち帰って、
・1793年ルーブルを世界で初めての美術館(共和国美術館)に仕上げた。
イタリア・ヴェネチアの修道院から持ち出した「カナの婚礼:ベロネーゼ作@1563」
--サン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト修道院の食堂の壁
--ガリラヤ(パレスチナ地方)のカナ
--イエスが初めて奇跡を起こす---水をワインに変える
--砂時計、骨をかじる犬
--ベネツィア商人
--ベネツィア音楽隊---ティッツァーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ
(繁栄はいつまでも続かないことを暗示しているというから平家物語に通じる)
古代ギリシャ・ローマの彫刻「戦う戦士の像:BC1世紀頃」、
エジプト遠征での戦利品(200名もの学者を連れていったというから古代エジプト研究も目的)、
アメンヘテプ3世の巨象の頭部(ツタンカーメンの祖父 BC14世紀)、
プトレマイオス朝のミイラ(BC4-1世紀)を所蔵することで、名を「ナポレオン美術館」と変えた。
・ルーブルの2階の赤の間には「皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの戴冠式:ジャック・ルイ・ダヴィッド」@1804
新古典主義
この式典ではノートルダム大聖堂で2万人が参列した。
ナポレオンの背後に窮屈そうに座るローマ教皇・ピウス7世が印象的。
ナポレオンは王冠をローマ教皇から取り上げると自分で戴冠し、その後ジェセフィーヌに被せた
ジョセフィーヌの後ろにはナポレオンの5人の妹と2人の兄弟がいる
・「エイローの戦場におけるナポレオン:アントワーヌ1808」はロシア・プロイセンに勝利したナポレオン絶頂期の絵画、
以降国民の心は離れて1814年には退位。
フランス革命から僅かに25年でナポレオンの時代は終わった。
・そして美術館は王立美術館となり、新しい芸術が現れた。
「グランド・オダリスク:ドミニク・アングル」
オダリスクというのはオスマン帝国のハーレムに仕えた女性、柔らかな裸体画である。
皇帝ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌの戴冠式
・19世紀初頭に革命を起こした絵画が、「ネデュース号の筏 By テオドール・ジェリコー」である---ロマン主義。
19世紀に実際に起きた軍艦の難破描いたもので、何もない中で13日間漂流、フランス国家は救出せず、
130人もの犠牲者がでた事件であった。
ジェリコーは誰からの依頼も受けずに自ら実物の死体を描いたという。
彼方に見える船に対して必死で救いを求める黒人の姿が、当時の混乱期にあったフランスそのものを描いたのかもしれない。
この作品、当初は非難を浴びたが、ジェリコーは「真実こそが美である」と語った。
ネデュース号の筏
【フランス7月革命】
・ナポレオン亡き後、フランスは王政・革命などで揺れ動いた。
・1814年にはブルボン王政が復活して1824年迄ルイ18世が即位し、1824年迄王位に就いた。
・次に王位に就いたのは1824年シャルル10世。まさに混乱の時代であった。
・赤の間にそれ激動を象徴する絵画がある。
・ 1830年に起きた7月革命を描いた絵・「民衆を導く自由 By ウジェーヌ・ドラクロア1798-1863:ロマン派」である。
・ 当時主流であったラテン語的な古典主義(代表的なのは美術アカデミーのアングル)に対してロマンス語的なロマン主義が、
・ 現在の矛盾・描画タッチ・動的構図をテーマに描き始めた。
・ 中央で三色旗を掲げる女神は「マリアンヌ」というフランスの象徴であり自由の象徴。
・1814年にブルボン家が王政復活を成し遂げ、シャルル10世は絶対王政を目指した
・1830年の7月革命でシャルル10世1757-1836はイギリスへ亡命し
・ フランス・ブルボン家の終焉を迎えることとなる。
・ ブルジョア、労働者、市民といった異なる階級の名もなき人々たちが武器をもって自由と希望を求めたのである。
・ この作品はルーブルで公開されると熱狂的に迎えられ、民衆は自らの姿を見出したのであろう。
・ しかし革命では民衆が願った理想の社会は訪れなかった。革命を担ったはずのブルジョア達は再び国王を擁立した。
・やがて、1848年の労働者たちが18年続いたルイ・フィリップの7月王政を倒す二月革命につながる。
・ 結果政治は混迷を極め、第二帝政皇帝・ナポレオン3世1808-1873(ナポレオン1世の甥)が即位して権力を握る
・まだ独身だったナポレオン三世がスペイン貴族ウジェニー・ド・モンティジョ結婚したのは1853年1月。
・ そしてルーブルの一角に絢爛たる「ナポレオン3世の迎賓室」を造った。
・ 天井の巨大なシャンデリアはフランス・バカラ社製。室内装飾には惜しげもなく黄金が使われた。
・ ナポレオンは自国の産業に力を入れて近代化に貢献し、ルーブルを発展させたが、
・ しかし一般庶民が重税に苦しめられていた背景は忘れてはいけない。
【ナポレオン3世の頃の傑作・サモトラケのニケ】
・ナポレオン3世の頃にルーブルはほぼ現在の姿になった。
・そしてこの時代にもたらされたのが「サモトラケのニケ」BC190年頃である。
・ 1863年、フランス人によってサモトラケ島で発見された勝利の女神・ニケは、
・ 古代ギリシャ・エーゲ海の民の彫刻である。翼を広げて天から舞い降りた姿である。
・ 薄い衣に覆われ、翼を織りなす羽は降り立った躍動感に満ちている。
・ 発見当時はバラバラであったが、つなぎ合わせて復元した彫刻は2000年の時を超えて蘇ったのである。
【産業革命とともにやってきたフェルメールの絵】
・1889年万博@パリで建設されたシンボルはエッフェル塔、社会の豊かさを支えた物は産業革命である。
・ これによって地方からパリへ人々は流れ、その多くは労働者となった。
・ ボードレールの言う恐るべき、憂鬱な都会の始まりである。
・この時代にパリ市民の間で人気となった画家、それは17世紀のオランダで活躍したヨハネス・フェルメール1632-1675である。
・ それらの絵は19世紀後半にルーブルに収蔵された小さな枠に収まった情景は日常生活の女性の姿である。
【20世紀:ルーブル美術館】
・20世紀初頭、第一次世界大戦では、フランスは戦勝国となったものの140万人が戦死。
・ヨーロッパ全土が暗雲満ちた時代に脚光を浴びたの画家がラトゥール1593-1652である。
・ 17世紀宗教戦争の最中に人の奥底を見つめたフランス人画家である。
・ それが戦争の時代にパリ市民の評判となったという。
・ 「ダイヤのエースを持ついかさま師」無垢な青年をいかさま師がぐるになって騙しているまさの絵。
・ さて、騙されるカモ、騙すいかさま師は一体何を象徴しているのだろう。
【ナチスドイツによって奪われた芸術】
・1939年第二次世界大戦が勃発し、翌年フランスはドイツに敗れてパリは占領された。
・大戦中ナチスは占領した国々から大量の美術品を奪った。
・しかしルーブルは開戦前に作品を避難させ、4000点もの美術品をフランス各地に隠したのである。
・その中にミロのビーナス、サモトラケのニケ、モナリザなどが含まれた。
・守り切れずにナチスに奪われたのは16世紀につくられた宗教彫刻の傑作
・ 「聖マグダラのマリア By グレゴリー・エアハルト」がそれである。
・ かつで娼婦であったマリアはキリストによって聖女に生まれ変わる。
・ 16世紀以来、多くの戦争の中、数えきれない人々がこの像に祈りを捧げてきたのである。
・1945年第二次世界大戦後、4000点もの美術品は各地からルーブルに帰ってきた。
・ その中にあって世界最高峰の美と称えられた古代ギリシャがもららしたミロのビーナスも帰ってきた。