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深田梨乃さん

2010年02月04日 | 藤元亜紗美 三好真琴 深田梨乃 舟橋菜々

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河合耆三郎源義輝

2010年02月04日 | 幕末

 河合耆三郎河合耆三郎源義輝は新撰組勘定掛である。 天保9年(1838年)、播州高砂の米商人・小間物屋という裕福な商家・河合儀平の長男として生まれる。  妹きくの嫁ぎ先、大阪平野町の八百源から新撰組に応募したのは25歳のときで、勘定掛を務める。 818の政変では京都御所南門の守備に当たっている。 また、池田屋事件のときも出動しており金15両の報奨金をもらっている。 さらに長州藩勢を迎え撃った禁門の変にも出動し、長州藩兵が撤退したあとの残務処理にあたっている。 大阪町奉行所の依頼を受けて摂津に出張して敗走した長州藩が捨てた武器類を大阪まで移送するための人足の調達などを宿役人に命じている。 河合耆三郎源義輝に同道したのは山崎大三郎。 ところが1866年、 近藤勇の妾、御幸太夫の身請け金五百両用立ての段になって、帳簿に対する不足金五十両が穴埋めできず、不正があったとして2月12日切腹になったという。 一説には斬首。 遺体は壬生寺に葬られて、後年姉・松浦鶴、妹。神田菊、らにより墓碑が建立された。 享年29歳。

壬生寺にある河合耆三郎源義輝 墓碑

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藤原良房の別荘・白河院跡

2010年02月03日 | 平安時代

 現在の「京都白河院」は、池泉回遊式の山水庭園と数奇屋造りを有する和風旅館となっている。 白河院は、白河第・白河殿とも称し、平安時代中期には摂政・藤原良房の別荘として造営されたあとは北家藤原氏によって代々受け継がれ、藤原道長、藤原頼通から伝領した嫡男・師実は、頼通の死後に白河天皇に献上し、この地に白河天皇御願の寺院として法勝寺を造営したときには金堂・講堂・阿弥陀堂・法華堂・五大堂・八角堂・常行堂などの諸堂が立ちならび、池の中島の八角九重塔は、壮大な高塔であったといわれる。 

 白河院は、もと藤原良房の別荘で、北家藤原氏によって代々受け継がれてきたが、藤原師実の時、白河天皇に献上され、承保2年(1075)天皇によってこの地に法勝寺が建立された。法勝寺は、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺とともに六勝寺と総称された寺で、東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域を有し、境内には、金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。中でも池の中島の八角九重塔は壮大な高塔であったといわれている。しかし、文治元年(1185)の大地震により九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、更に康永元年(1342)の火災により残る堂舎も焼失した。その後覚威和尚によって一部再建されたが、衰退の一途を辿り、やがて廃寺となった。(京都市説明板より)

 さて、白河院という名の由来にもなった白河上皇について触れたいと思います。 熊野が広くその名を知られるようになるのは、白河上皇による熊野御幸が行われるようになってからである。 熊野を初めて詣でた宇多法皇の907年から役180年経った1090年に白河上皇(1034~1129)が熊野を詣で、以来9回の熊野御幸により熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなった。 白河上皇は藤原摂関家から実権を奪い、「院政」を始めます。 白河天皇の祖父・後朱雀天皇には2人の皇子がいました。 第1皇子は藤原道長の娘・嬉子を母とする親仁親王、第2皇子は三条天皇の皇女・禎子を母とする尊仁親王です。  藤原氏の血を引く第1皇子の親仁親王は後朱雀天皇譲位後、後冷泉天皇として即位するが、後朱雀天皇は聡明な尊仁親王を愛し、親仁親王に位を譲るとき、弟の尊仁親王を皇太子にし、次の天皇の位は弟の譲るということを条件とする。 藤原摂関家の頼通・教通はそれぞれ自分の娘を後冷泉天皇に嫁がせ、皇子の誕生を待つものの一人の子もできないまま後冷泉天皇は崩御し、藤原氏と外戚関係をもたない尊仁親王が即位する。 宇多天皇以来百七十年ぶりの、藤原氏と外戚関係のない後三条天皇(白河天皇の父)である。

 後三条天皇は権力を摂関家から取りあげ、天皇親政による国政の改革に取り組むこととなる。 つまり藤原氏が牛耳っていた経済的な基盤である「荘園」を、後三条天皇は法律により規制し、藤原氏抑制を図ります。 後三条天皇はわずか4年半の在位で、白河天皇に譲位し半年ほどで病没するが、白河天皇がその遺志を継ぎ、反藤原・天皇親政を行うのである。 天皇として14年間在位した後に1086年、8歳の善仁親王(堀河天皇)に譲位し、自らは上皇となって、「院政」を敷きます。 1107 年に堀河天皇が亡くなり、4歳の孫・宗仁親王(鳥羽天皇)を即位させ院政を続け、さらに1123年成人して扱いにくくなった鳥羽天皇を退位させて5歳のひ孫・顕仁親王(崇徳天皇)を即位させる。 皇室の権力を確立させるため、白河上皇は、数々の荘園を手に入れ、寺社に参詣して影響力を確立し、中級貴族の受領層の支持を取り付け、院の御所には警護のための北面の武士を置くなど、院の権力を強化する。 こうして政治の実権が上皇に推移するとともに、藤原氏の経済的基盤となった「荘園」も、上皇に流れ、白河上皇は天下の権力と富を一身に集めた専制君主となり、権勢を誇ります。

 譲位後、堀河、鳥羽、崇徳の3代、43年に渡って院政をとり、「治天の君」として政治の実権を握り続けた白河上皇はこれまでの制度や慣例などを気にせずに意のままに政治を行うことができ、熊野「御幸」も可能であった。 しかし、なぜ熊野だったのかについては定かではない。 しかし、結果的にはこの御幸をきっかけとして、熊野三山は、中央との結びつきを得、財政基盤をも得ることができた。 3回目の熊野御幸の時(1117)、白河上皇は寵妃・祇園女御とその養女・璋子を伴います。 璋子は白河上皇とは関係があり、孫の鳥羽天皇(1103~56)の后に入れます。 つまり、熊野御幸は璋子入御の祈願のためのものであり、鳥羽天皇は祖父の愛妾を后にします。 5回目の熊野御幸(1119)は、懐妊中の璋子の無事を祈願するために行われたようで、第1皇子(のちの崇徳天皇)は無事生まれますが、その子はじつは鳥羽天皇の子ではなく、祖父の白河上皇の子であった。 白河上皇は、崇徳をかわいがり、1123年、鳥羽天皇を退位させて崇徳天皇を5才で即位させる。 7~9回目の熊野御幸(1125、27、28)では 、白河上皇は待賢門院璋子と鳥羽上皇を伴う。  白河上皇の死後二十数年ののち、孫同士が皇位継承を巡って争って保元の乱を起こすとそれがきっかけとなってこれまでの貴族の世は終焉を迎え武者の世へと移行します。 このように白河上皇の9回に及ぶ熊野御幸が、のちの鳥羽上皇の21回、後白河上皇の34回、後鳥羽上皇の28回という熊野御幸を生み、さらに武士や庶民による「蟻の熊野詣」を生むこととなる。

 

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陽忍による新撰組諜報員・斉藤一

2010年02月02日 | 幕末

 池田屋事件で新撰組の名を日本中に轟かせた。 その理由は新撰組の機動力と諜報力によるもので、京都守護職配下の会津藩士は新撰組の足元にも及ばなかった。 その諜報力を担っていたのが斉藤一であり、彼の得意としたのが陽忍である。 これに対する隠忍とともに忍術の極意といわれている。 自分の身分を隠して相手から情報を収集する隠忍の場合は変装、武器が必須となるのに対して、陽忍の場合はなんら必要としない。 つまり、長い時間をかけて敵の懐にはいりこんで信用を勝ち取り、あわよくば敵組織の幹部となって自然と情報を収集する方法である。 新撰組の斉藤一はまさに陽忍に長けた人物であった。 実はこの斉藤一は出自不明で近藤勇とどのようにして知り合ったのかはっきりしない。剣の腕前は沖田総司に次ぐほどであったという。 無外流というから、実践を重んじる天然理心流と通じるところがあるようだ。 

 斉藤一の陽忍が発揮されたのは伊東甲子太郎一派の粛清のときである。 近藤勇の推薦により新撰組に加入した伊東甲子太郎は新撰組つぶしのために脱会し、御陵衛士という孝明天皇の御陵を守り、勤皇の志を貫くという新派を構えたのである。 これでは新撰組の仇敵である薩摩・長州とおなじであり、幕府に忠誠を誓う近藤・土方への挑戦状と同じである。  御陵衛士結成に際して伊東は新撰組の隊士の多くを引き抜くのであるが、この中に潜り込んで陽忍を発揮したのが斉藤一なのである。 斉藤一は試衛館の生え抜きではないが若くして隊長に抜擢され組の剣術師範も勤めているにもかかわらず、策士の伊東はだまされ、斎藤は新撰組つぶしを画策している証拠をつかんだ。 かくして伊東甲子太郎は油断したすきに酔い潰されて暗殺され、しかも放置された死体を引き取りに来た高台寺党も殲滅された。 斎藤は鳥羽伏見の戦いから江戸に戻り甲陽鎮撫隊にも参加し会津に転戦したときには土方に代わって新撰組組長をつとめている。 しかし北上しようとした土方に対して斉藤は会津を見捨てるわけにはいかないとして会津に残り、敗戦後は警視庁に加入し、西南戦争では政府軍として参戦し、1915年まで生きた。

 壬生義士伝では坂本龍馬暗殺の犯人として描かれている。 これは伊東甲子太郎に怪しまれて坂本龍馬暗殺を命じられた斉藤は新撰組を守るために行ったもので、暗殺犯は当初は新撰組の原田左之助とされ、後に京都見回組の犯行とされたものとは違っている。  

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新撰組といえば局長・近藤勇

2010年02月01日 | 幕末

 新撰組といえば土方歳三・沖田総司など有名であるが、局長近藤勇を通して幕府に忠誠(新撰組の旗印・誠) を尽くした理由をさぐってみたい。 1834年武蔵国の裕福な百姓・宮川久次郎の三男として生まれた。 百姓の子は百姓の時代であるから武士になることは不可能の時代であったが、幸運にも将軍直轄地・天領育ちであったために先に述べた原則がある程度自由であった。 つまり武士もどきであっても咎められることはなかった。 剣術の必要性を感じていた勇は、天然理心流の近藤周助を師とし、道場の後継者になる。 このときに近藤勇に変名している。 因みに土方歳三・沖田総司は同門の後輩である。 こうして百姓の子である勇が武士よりも剣術に優れたことから本当の武士を目指すこととなるのは自然の流れであった。 一方、勇のライバルである薩摩の西郷隆盛や、長州の伊藤博文は武士ではあったが家禄が少なく極めて貧しかった。 薩摩藩島津家も長州藩 毛利家も関が原の戦いの敗者であったからである。 長州藩・高杉晋作が作った奇兵隊員は徳川のために没落したと思う子孫がほとんどである。 討幕派の奇兵隊も、佐幕派の新撰組も目的は同じで、真の武士になることにある。 従って、身分を越えるためには剣の達人であることが必要なのである。 

 300年の泰平の時代が続いていたが突然黒船がやってきた。 これにより侍の本分である武が問われるようになるものの、多くの武士は長い泰平によりその能力を失っていたから、近藤らの新撰組の出番となったのである。 黒船の出現により日本中に攘夷の嵐が巻き起こった。 開国論を旗印とした薩摩も長州も、最初は攘夷論であった。 だから、開国して通商条約を結んだ幕府を糾弾したのである。 攘夷原理主義者は京都において打倒幕府のための尊王攘夷活動を行った。 そこで清河八郎は、尊王攘夷派から将軍を守るために腕利きの浪人を集めて京を守ることを提案した。 こうして結成された浪士組であったが、清河の狙いは別のところにあり、だまされた幕府は刺客を放って清川を始末した。 この間清河に反発して別派を作ったのが近藤勇らのグループであり、時を同じくして京都守護職に任じられた会津藩の松平容保を頼り、両者は合体した。 このときに新撰組は誕生する。

 新撰組の敵は尊王攘夷派であるが、彼らの討幕の根拠は勅違反にある。 開国に当たって通商条約を結ぶには勅許が必要であるのに幕府も井伊直弼もそれを無視して開国したところにある。 その尊王攘夷派の最大の陰謀が池田屋事件であり、彼らは池田屋を中心にして討幕クーデター計画を立てていた。 近藤らは首謀者の古高俊太郎を捕らえて、池田屋を襲撃した。 世間はその諜報力と機動性を評価し新撰組は一挙に時の人となる。 しかし新撰組はあくまで剣術家であり、薩摩・長州の大砲、新式銃には勝てるはずもなく鳥羽伏見の戦いでは破れ、江戸に戻った近藤は官軍に捕らえられて処刑された。 しかし本当の武士になるという本望は遂げたのである。 

京都 新撰組屯所ちかくの壬生寺にある近藤勇の胸像

  

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坂本龍馬の活動拠点 材木商「酢屋」

2010年01月31日 | 幕末

 幕末の志士、坂本龍馬が海援隊の活動拠点として、暗殺される3日前まで過ごしていたと伝えられる材木商「酢屋」は京都・三条のすぐ南の通り(龍馬通)に面してあります。 二階部屋は当時の様子が再現され公開されています。 酢屋は、1721年創業の材木商・酢屋嘉兵衛が土佐藩で知り合った龍馬と意気投合し、二階にかくまったとされています。 龍馬は、ここに海援隊京都本部を置き、隊士らとともに寝泊まりしていたという。 この地からすぐ東には高瀬川が流れ、極めて立地条件が良かったことが現在も伺えます。 龍馬が暗殺された醤油問屋・近江屋はすぐ北側にあり、西の高瀬川沿いに二条まで北上する途中には、佐久間象山、武市瑞山、桂小五郎、古高俊太郎など多くの著名な志士の寓居跡がならんでいます。 命を狙われていた頃、多くの仲間から土佐藩邸に移ったほうが良いと勧められたにもかかわらず、ここに本拠として近江屋で暗殺された・・・と語られていますが、土佐藩邸は二条と三条の間の高瀬川沿いにあり、ここ酢屋からも極めて近くです。 龍馬がこの地にこだわった理由を知るには150年前の龍馬の気持ちになって再度高瀬川界隈をゆっくり歩いてみる必要がありそうです。

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新撰組にとっての1864年

2010年01月30日 | 幕末

 1864年 池田屋事件(新撰組が池田屋で尊攘派浪士を斬り込む)が起こります。 八月十八日の政変で京都を締め出された長州藩は、御所を焼き払い、孝明天皇を長州に連れ出し、京都守護職ならびに所司代を討ちとるという過激な行動にでる予定でした。 一方、新撰組はこの不穏な空気を察知、内偵や取り締まりを強化していました。そして、一人の不審者が浮かび上がります。古高俊太郎は、土方歳三の激しい拷問の末、京都焼き討ち計画の陰謀を白状します。近藤勇は京都守護職・松平容保に報告、近藤隊、土方隊、井上隊の三隊に分かれ、計画グループの捜査を開始します。 やがて近藤隊八名が長州藩定宿・池田屋で密会している長州・土佐・肥後の浪士を発見します。 近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四名が池田屋に突入し、やがて騒ぎを聞きつけた土方隊や井上隊が加勢。 二時間の乱闘で、倒幕浪士七名を斬殺、二十一名を捕縛します。 新撰組の名は全国に轟き、一躍、歴史の表舞台に立つことになりました。

 池田屋事件で、長州藩の怒りは頂点に達しますが、公卿落ちしていた長州藩は、威嚇の意味もこめて京都への出兵を決断します。ぞくぞくと京都に集まってきた長州兵は各地に布陣します。 膠着状態が続く中、ついに勅旨をもって「このような挙にでることは認められない」という孝明天皇の意志が長州側に通達され、ついに京都への進軍を決意することになります。 伏見から北上した長州兵と前線を守備していた大垣兵が激突し、応援に駆けつけた新撰組は、嵯峨から進撃し御所に迫った長州兵と幕府軍の戦闘を目撃します。 御所の蛤御門付近に殺到した長州兵は、これまでの怨恨もあって会津兵を押しまり門内に侵入します。しかし、突如現れた薩摩兵に側面を疲れると、来島又兵衛が狙撃弾を受けて戦死。 長州兵は総崩れとなります。 新撰組が御所周辺に到着したとき、すでに蛤御門を中心に展開されていた戦闘は、ほぼ長州兵の敗北が決していました。 

 1864年頃、開国か攘夷か、倒幕か佐幕か・・・で明け暮れる状況に危機感を感じていた勝海舟は、強い国家を作るべく神戸に海軍操練所を設立します。 当初、薩摩藩は佐幕派でしたが、幕府の疑いから 倒幕派になります。 そんな中、龍馬は西郷に会うため大阪の薩摩屋敷を訪れます。このころ龍馬は長崎に「亀山社中」という海運会社を設立した。 薩摩藩らの援助により設立された亀山社中の目的は、神戸海軍操練所時代に考えていた貿易を実現するため商社をつくり海軍・航海の技術を習得することであった。 龍馬は、長州へ向かった。桂小五郎を「おとす」ためである。 桂小五郎は、池田屋事件後、長州に戻り挽回の機会をうかがっていた。 西郷隆盛のドタキャンで桂小五郎は憤慨。 これにて薩長同盟決裂かと思われた瞬間、坂本龍馬が起死回生のアイデアを提案する。こうして、再び両藩は会談の機会を得、1866年1月、京都の薩摩藩邸において薩長同盟が成立した。 この年、将軍家茂が病死し、徳川慶喜が十五代将軍となり、孝明天皇が崩御している。

 薩摩藩は、大政奉還の策を承認したものの、あまり期待はせず、従来通り武力倒幕を目指し突き進みます。しかし、10月15日大政奉還の勅許を得るこれにより、武力衝突はひとまず回避され、同時に徳川幕府260年の歴史は幕を閉じます。 慶喜は、仮に政権を返上しても、朝廷にはどうすることもできず、結局は徳川が政権の中枢に座るものと考えていました。大政奉還から10日後、慶喜は将軍辞職願いを提出しましたが、案の定、朝廷はこれを受理する勇気がありませんでした。 また、薩長の力をあなどれないと認識していた慶喜は、薩長などの一部の藩による独断政治に対し懐柔策をとっておく必然性があると考えていました。

 この年、坂本龍馬・中岡慎太郎が近江屋の二階で、幕府見廻組に襲撃され、死亡している。大政奉還は理想的な国政改革でしたが、これにより幕府を倒されてしまった佐幕派、徳川を完全に排除できない倒幕派それぞれが不満を募らせる結果となり、その提唱者である龍馬は暗殺の対象となります。 京都四条河原の近江屋に身を潜めていた龍馬は、たまたま居合わせた中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。 その後近藤勇は伏見の黒染辺で高台寺党の残党に狙撃され、右肩を負傷すると療養のため大坂へ下り、あとを土方歳三に託すこととなります。

 

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孝明天皇崩御

2010年01月28日 | 幕末

 1866年12月孝明天皇は天然痘にかかり小康状態のあと急死する。 実はこの崩御には砒素中毒説、つまり毒殺説があり岩倉具視下手人説が流布しており今日でも謎である。 孝明天皇が反慶喜派の列参に対して逆鱗し、かえって岩倉具視を黒幕とする中御門経之ら公家の立場は悪化した。 天皇は攘夷論者ではあったが慶喜らを信任し、慶喜が15代将軍に宣下されたのは孝明天皇崩御の20日ほど前のことである。 孝明天皇が仮に健在であったら、たとえ岩倉具視と薩長が連携したとしても天皇を奪取する宮廷クーデターは無理であった。 新天皇は中山忠能を外祖父とする明治天皇である。新天皇の登場によって岩倉、中山忠能ら処罰を受けていた公武合体派や尊攘派の公家たちは赦免される。 岩倉具視は5年にわたる隠棲生活から、月一度の入洛を許される身となった。 そして大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎など討幕派武士と急速に結びついた。 島津久光と松平慶永、伊達宗城、山内豊信の4大名が上洛したのは1867年5月、久光が兵700を率いて上洛し朝廷の人材登用を摂政に要求した。 前の22人列参中心人物である中御門経之、大原重徳の登用である。 朝彦親王、二条斉敬、鷹司輔煕、九条道孝を含めて薩摩の縁家であった近衛忠房も慶喜を支持し、薩摩藩側にはつかなかった。 こうして徳川慶喜は孝明天皇という後ろ盾はなくしたが、摂家・親王によって構成される朝議を完全に掌握し、薩摩藩は追い詰められた。 薩長同盟の合意に従い、大久保利通は兵力を備え、6月長州藩と薩摩藩との間で武力討幕が合意された。

 討幕派の戦略は長州藩の木戸孝允が坂本龍馬に送った書簡にあらわれているという。 西郷隆盛を躍起責任者として天皇を奪取することが目的である。 こうして薩長の討幕派発起準備が進む中、これに対抗して武力によらない政治改革の計画が立案される。 土佐藩が工作し6月に結ばれた薩土盟約は幕府が大政奉還をするというもので、土佐藩の手による大政奉還建白書に受け継がれ、武力発起の薩摩藩は土佐藩を討幕に引き込むために盟約に加わった。 この薩土盟約の構想は坂本龍馬が作成した船中八策をもとにしたものであり、諸候会議・人民共和を趣旨とした。 土佐藩は大政奉還を慶喜に建白し、10月には慶喜による英断がなされた。 坂本龍馬が中岡慎太郎とともに河原町三条の近江屋で暗殺されたのは、この一月後の1867年12月10日のことである。 

 実は、大政奉還と同時に「討幕の密勅」が岩倉具視から薩摩藩と長州藩へ密かに渡された。 中御門経之、中山忠能、正親町三条実愛の三人の公家により作成されたが詔書の体裁は整っていない。 幼帝祐宮に討幕の意図を聞けるわけはなく、天皇による記載が何もないのである。 つまりこの密勅は岩倉具視による偽勅なのである。 王政復古のクーデターが起こったのは1867年12月9日であるから坂本龍馬が近江屋で襲われた直後で、岩倉具視が王政復古発令の文書をもって御所にはいり 中御門経之、中山忠能、正親町三条実愛の三人の公家とともに幼帝を擁して王政復古を宣言した。 西郷隆盛は討幕派と土佐藩らを指揮して宮門を固め軍事制圧を行い、土佐や越前藩などは自藩の存続をはかり参加しているが、計画の詳細を知っていたのは岩倉、西郷のほかには木戸、大久保らほんのわずかな者だけであったという。 王政復古の大号令では徳川慶喜の大政奉還、将軍職辞退を認め、摂関・幕府を廃絶して、総裁・議定・参与を置くと宣言された。 それぞれには公家5名と藩士が5藩から3名ずつ選ばれた。 5藩は薩摩、安芸、土佐、越前、尾張藩である。 討幕派だけで極秘に準備されたこの臨時政府と幕府の軍事力とが対決する戦いが、翌1868年から始まる鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争である。

孝明天皇が眠る後月輪東山陵は京都・東山、泉涌寺の裏山にあります

 

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薩長同盟の年と二条斉敬墓

2010年01月27日 | 幕末

 朝廷から一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光の6名で始まった政治参与が終焉を迎えた後、薩摩藩では西郷隆盛が沖永良部島から戻され禁門の変を指揮していた。 1865年将軍徳川家茂の江戸からの征長を契機に薩摩藩は幕府から離れて長州藩に近づくのである。 大久保利通ら薩摩藩は朝廷に対して暴威をもって言を貫く一橋慶喜の恐るべき政治力を認め幕府への危機感を深めて長州藩に近づいたのである。 長州藩は坂本龍馬の仲介もあって薩摩藩を通じて長崎のグラバー商会などから1万挺以上のゲベール銃を購入し幕長戦争に備えている。 通商条約では諸藩は外国商人から兵器を買えないことになっていたが、雄藩の威力がものを言った。こうして薩長交易が深まり、1866年、木戸孝允は密かに京都伏見の薩摩藩邸に入り西郷隆盛らと会見する。 こうして坂本龍馬が仲をとりもち薩長同盟が合意に至ったのである。 合意内容は藩内でも秘密にされ、幕府との戦争の際には薩摩藩が京都と大阪に兵を出すこと、長州藩が敗戦しても薩摩藩が援助を続けること、幕府が朝廷を掌握してしまったときは薩摩藩が兵力で戦うことなどが合意事項であった。 

 1866年6月、幕府は長州藩に対して石高36万石から10万石を削減する要求を出したが、これに対して長州藩は拒否し、瀬戸内海の大島で幕長戦争は始まった。 長州藩の主力は奇兵隊らの諸隊で、参謀は高杉晋作、大村益次郎、山県狂介である。 将軍がいる大阪・兵庫では打ちこわし一揆がおこり、大阪城において徳川家茂が21歳で病没し、徳川宗家を受け継いだ慶喜が撤兵を命じた。 長州・高杉晋作が指揮した騎兵隊は農耕をしながらの民兵との混成部隊ではあったが、狙撃距離、命中確立が高いライフル銃(銃身の螺旋で弾丸に回転が与えられ、ジャイロ効果により弾道が格段に安定する)を藩から支給され、厳格に統制された部隊であった。 軍事訓練を行ったのが大村益次郎で、その日課は極めて厳しいものであった。 そして脱隊事件は起きた。 浪士出身の立石孫一郎ら第二奇兵隊の隊士約130人が隊の幹部を殺害して陣営を脱走したのである。 この動きは諸隊全域に広がったために、木戸孝允は脱走して帰藩した隊士を全員斬罪に処したから、長州藩の地域社会を戦慄させることとなる。 

 幕長戦争中に一橋慶喜が徳川宗家を相続し征長軍を引き上げて休戦した。 朝廷では孝明天皇をはじめ関白二条斉敬や朝彦親王らが慶喜を支持する一方、慶喜に反対する公家勢力があった。 岩倉村に隠棲を強いられていた岩倉具視と裏で連絡をとっていた中御門経之たちである。 これら22人の公家が列参して孝明天皇に対して関白二条斉敬や朝彦親王らの罷免を求めたが、天皇は激怒しこれに応じず、逆に慶喜は地位を強めた。 結果、岩倉具視が敗北し、薩摩藩の大久保利通や中岡慎太郎、坂本龍馬が岩倉具視に近づくきっかけとなる。 年末慶喜は天皇の信任を得て将軍職につき、幕政改革を行う。 

徳川家重1712-1761(9代将軍)     
 ┣徳川家治1737-1786(10代将軍)       
至心院┣千代姫    ┣-
   ┣万寿姫   倫子女王(1738-1771)閑院宮直仁親王の第6皇女 
   ┣家基1762-1779 
   ┃徳川家康    
   ┃┗宗尹(一橋徳川家初代当主)           
   ┃  ┃┏斉隆1777-1795福岡黒田氏藩主   
   ┃  ┃┣斉敦1780-1816一橋徳川家3代当主   
   ┃  ┃┃   ┣-
   ┃  ┃┃ ┏保子 
   ┃  ┃┃二条治孝1754-1826(左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉通1781-1798(母:嘉姫)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣九条輔嗣1784-1807(養子 父:九条輔家)   
   ┃  ┃┃ ┃ ┣九条尚忠1798-1871(養子:関白左大臣)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条道孝1839-1906(左大臣 最後の藤氏長者) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┗節子(大正天皇皇后 貞明皇后)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条幸経1823-1859(養子:鷹司政通の子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条夙子1833-1897(孝明天皇女御 英照皇太后) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928  
   ┃  ┃┃ ┃樋口基康娘   
   ┃  ┃┃ ┣西園寺寛季1787-1856(母:徳川宗翰娘)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉信1788-1847(母:徳川宗翰娘)    
   ┃  ┃┃ ┃ ┣二条斉敬1816-1878  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃   ┗二条厚基1883-1927 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃    ┗二条弼基1911-1965(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┗広子(有栖川宮幟仁親王妃)  
   ┃  ┃┃ ┣九条尚忠1798-1871(関白左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┗隆子(常蓮院)   
   ┃  ┃┃   ┃ 
   ┃  ┃┃   ┣斉朝1793-1850(正室:家斉娘 淑姫)    
   ┃  ┃┣治国1776-1793(母:お富)   
   ┃  ┃┣斉匡1779-1848(徳川田安家2代当主   
   ┃  ┃┃ ┣松平慶永1828-1890(春嶽)田安家3代当主→越前松平氏15代藩主  
   ┃  ┃┃ ┣徳川慶臧1836-1849徳川尾張家13代当主  
   ┃  ┃┃お連以   
   ┃  ┃┃   
   ┃  ┗治済┓1751-1827(一橋徳川家2代当主)   
   ┣徳川家斉1773-1841(養子 第11代将軍)
 蓮光院(お知保)  ┃
        ┏━━━━┛
       ┣敦之助1796-1799(清水徳川家養子)正室近衛寔子 (広大院島津重豪娘)  
        ┣淑姫1789-1817(尾張徳川斉朝妻) 側室お万(勢真院)
    ┣家慶1793-1853(12代将軍)    側室お楽(香琳院)
     ┃ ┣家定1824-1858(13代将軍)   母:本寿院1807-1885       
     ┃ ┃┣-       
     ┃ ┃篤姫1836-1883       
     ┃  ┗慶昌1825-1838(一橋徳川家6代当主)母:清涼院         
     ┣敬之助1795-1797(尾張徳川家養子)側室お歌(宝池院) 
    ┣峰姫1800-1853(水戸徳川当主斉脩妻)側室お登勢(妙操院)         
     ┃治紀 ┣-       
     ┃ ┣徳川斉脩1797-1829(水戸8代藩主)       
     ┃ ┗徳川斉昭1800-1860(水戸9代藩主)       
     ┃   ┣徳川慶篤1832-1868(水戸10代藩主)      
     ┃   ┣徳川慶喜1837-1913(15代将軍)      
     ┃ ┏吉子女王1804-1893(父:織仁親王)      
     ┃ ┣有栖川宮韶仁親王1785-1845      
     ┃ ┗喬子女王1795-1840       
    ┃   ┣竹千代、儔姫
    ┃  家慶1793-1853(12代将軍)
    ┣斉順1801-1846(清水家3代当主)  側室お登勢(妙操院)          
    ┃ ┗家茂1846-1866(14代将軍)   母:実成院1821-1904          
     ┣斉明1810-1827(清水徳川家当主) 側室お八重(皆春院) 
     ┣斉民1814-1891(津山藩8代藩主)  側室お八重(皆春院)         
     ┣斉衆1812-1826(鳥取藩主)     側室お八重(皆春院)         
     ┣斉良1819-1839(浜田藩主)     側室お八重(皆春院)         
    ┣斉裕1821-1868(徳島藩13代藩主) 側室お八重(皆春院)     
    ┣斉荘1810-1845(田安家4代当主)  側室お蝶(速成院) 
    ┃ ┗昌丸1846-1847(一橋徳川家6代当主)          
    ┣和姫1813-1830(長州藩主毛利斉広妻)側室お蝶(速成院)  
    ┣浅姫1803-1843(福井藩主松平斉承妻)側室お美尾(芳心院)    
     ┣斉温1819-1839(尾張藩11代藩主) 側室お瑠璃(青蓮院) 
     ┣斉彊1820-1849(紀州藩12代藩主) 側室お袖(本性院)     
     ┣斉善1820-1838(福井藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┣斉省1823-1841(川越藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┗斉宣1825-1844(明石藩主)    側室お似登(本輪院)

徳川慶喜を支持した関白・二条斉敬公墓(二尊院にて)

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袈裟御前の首塚がある浄禅寺

2010年01月26日 | 平家物語

 京都南インターを出てすぐ北側1kmほどのところに袈裟御前ゆかりの地があります。 平家物語ではお馴染みの袈裟御前、夫を持つ身でありながら遠藤盛遠という北面の武士の告白に苦しみ壮絶な死に方を選びます。

   藤原得子(美福門院)1117-1160              
     ┣体仁親王(ナリヒト)76近衛1139-1155             
    ┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘             
    ┃ ┃             
   鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
    ┃     ┃    佐藤義清(後の西行)も護衛             
     ┃     ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
    ┃     ┃                           ┃              
    ┃     ┣顕仁親王75崇徳1119-1164         源渡              
    ┃     ┃    ┣重仁親王1140-1162               
    ┃     ┃    ┃     乳母:有子           
    ┃     ┃    藤原聖子1122~1181               
   祇園女御   藤原璋子(待賢門院)1101-1145         
     ┣清盛?  ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
    白川上皇72代1053-1129   

平家物語・袈裟御前

 1107年に即位した鳥羽上皇には皇后藤原泰子(高陽院)をはじめ、寵愛妃・藤原得子(美福門院)そして中宮・藤原璋子(待賢門院)がいました。袈裟御前は、鳥羽と藤原璋子(待賢門院)との間にできた統子内親王(上西門院)に 雑仕女として出仕していたのです。 一方、鳥羽上皇の護衛武士には『平家物語』の主人公である平清盛をはじめ、遠藤盛遠、同僚には佐藤義清(後の歌聖といわれる西行)や源渡がいました。 袈裟御前は源渡の新妻であり、涼しい目元に凛とした気品のある桔梗の花のように美しい女性でした。 そして遠藤盛遠は袈裟御前が鳥羽上皇の皇女統子に仕えていた頃から懸想していたのですが、袈裟御前は源渡に嫁いでしまいます。傍目からも羨ましがられる仲の良い幸せな夫婦でした。盛遠は諦め切れません・・・・。  言い寄ってくる盛遠に袈裟がきっぱりと断りますが、「ならば、そなたの母を殺し、我も腹を切る」と遠藤盛遠は言い出します。 困り果てた袈裟はついに「わたくしは夫のある身でございます。いっそのこと、夫を亡きものに…さすれば、あなた様の御心に沿えましょう程に」と泣きながら言います。 そこで 「今晩八つの鐘を合図に当屋敷に忍び込み、東より二つ目が夫の寝所にございます。先に休ませておきますれば、洗い髪を頼りに夫をお討ちください」 という袈裟の言葉通りに盛遠は実行したのです。  盛遠は斬り落とした首を抱いて屋敷から走り出たのですが、月明かりの中でその首を見て仰天します。 それは、なんと源渡ではなく、愛しい袈裟の顔だったのです。  それは、一途に自分を思ってくれる盛遠と愛する夫との板挟みになって煩悩した末の袈裟の悲しい決断でした。 盛遠は幾日も袈裟の首を抱いて鞍馬の山奥をさまよった果てに出家しました。 武士を捨て名前も文覚と改名し、各地の霊場を遍歴しては三十二日間の断食や厳冬の那智の滝に何日間も当たるなどの荒行に励んだといいます。

 後に、京都に戻ってきた文覚は荒れ果てた神護寺の再建を果たそうとして後白河法皇に何度も直訴を繰り返し遠島など申し渡されますが、次第に顔見知りとなっていきました。そして、ついには院宣まで入手して頼朝の蜂起をを説得するまでになるのです。 袈裟御前は、盛遠を文覚として生まれ変わらせたヒロインであり、もし文覚が居なければ頼朝の蜂起はなくて歴史が大きく変わっていたのかもしれないのです。 愛する人の為に、同僚を殺そうとした結果愛する人の首を斬った男・・・・そして、愛する人との貞操を守るがために、自ら愛してもいない男に斬られた女・・・平家物語の幕はあきます。

袈裟御前・恋塚

 

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足利尊氏の重臣・高師直 乱世の英雄

2010年01月25日 | 鎌倉・室町時代

 高師直?-1351(高:高階の略)というお方、源氏の棟梁・八幡太郎義家の庶子と云われる高階惟章が、義家の三男源義国とともに下野国に住して以来高氏と称して、足利氏の執事職を代々つとめた。 弟の師泰とともに古典『太平記』に記される逸話や後世の創作などによって「悪逆非道」の烙印を押されている高兄弟である。 元禄時代に実際に江戸城内で起こった刃傷事件 「赤穂事件」を描いた「仮名手本忠臣蔵」での最大の悪役として登場する。 当時の人形浄瑠璃では、赤穂事件をそのまま取り上げることができなかったために、実際の悪役・吉良上野介を「太平記」に登場する高師直になぞらえているのである。 高師直は武蔵守として筆頭に登場するのであるが、江戸時代に実は武蔵守を名乗った大名・旗本は誰もいない。 武蔵国江戸城に本拠を構えた徳川将軍家に対して、地方官という身分の低い官位・武蔵守が存在すること自体失礼にあたるわけで、徳川300年の歴史上武蔵守は誰もいなかったのである。 楠木正行を死に追いやった足利尊氏腹心の高師直は塩谷高貞(宇多源氏佐々木氏の出で、足利尊氏に従い出雲・隠岐の守護となった。 )の妻に横恋慕し塩谷高貞も死に追いやる。 この塩谷高貞こそ仮名手本忠臣蔵における浅野内匠頭なのである。

 1333年、後醍醐天皇の第8皇子・義良親王(当時5歳。後の後村上天皇) は、後に中宮となる顕子の父北畠親房と兄顕家に奉じられて東北鎮定のため奥州へ下向し、翌年の建武元年(1334年)、親王宣下。建武新政が瓦解した後、延元三年(1338)秋、東国経営のため再び親房ほかと共に船団を組んで出航したが、暴風に遭って義良親王の船は伊勢に漂着、その後吉野に帰還します。 同四年(1339)三月、父帝の皇太子となると、 同年八月十五日、践祚。時に十二歳でした。 正平三年(1348)正月、高師直らに吉野行宮を攻められて賀名生(あのう)に遷居。同六年、足利氏の内訌により尊氏が南朝に和議を申し入れると、翌年、南朝軍は京都を占拠。後村上天皇は男山(八幡山)に出陣して光厳院・光明院・崇光院を捕えたが、入京を目前にして事態は急変、足利軍に京都を奪回され、結局賀名生に還幸となります。

【1336-5 湊川の戦い 対 後醍醐天皇(新田義貞--敗走、楠木正成--自害)】 室町幕府が設立されたのは1336年、建武式目という幕府の基本法が発布されたときである。この時楠木正成は湊川の戦いで戦死し、尊氏は京を奪回して後醍醐天皇を軟禁し神器をとりあげた。実はこの時幕府の将軍の御所は室町にあったわけではなく、三大将軍義満の時に室町御所ができたのである。 

【1336-11 足利幕府創設 後醍醐天皇は吉野に南朝樹立】

【1337    後醍醐天皇方北畠顕家1318-1338が鎌倉を攻略 対 高師直】

【1338-02 師直は北畠軍を撃破@奈良般若坂---分捕切捨ての法:敵の首を持ち帰る必要なし】

     05 南朝側・北畠顕家を討ち取る 石清水八幡宮を焼き討ち

幕府は本来東国武士団の政権であり足利氏も東国であったが、幕府軍の中核が畿内の武士であったために京に幕府が置かれた。 建武式目は鎌倉幕府の全盛体制を理想とし、保守的なものであったため、足利直義の政治体制に激しい不満を示した人々がいた。婆沙羅大名がその中核で、高師直という足利家の執事、名門京極氏出身の佐々木導誉、土岐頼遠が代表される。 

【1347-00 楠木正行挙兵@紀伊--河内に侵攻 目標は京】

師直(7000騎)は四条畷に本陣(東は生駒山 西は湿地)、弟・師泰を堺浦に布陣させて、楠木正行軍(3000騎)を迎える。四条畷の戦いでは楠木正行は弟正時と刺し違えて自害。師直軍は吉野に進み南朝の行宮を焼き払う。(太平記では師直は傍若無人:執事施行状---恩賞あてがいを行うシステム)

尊氏1305-1358(息子・義詮@関東1330-1367)の弟で政権を握っていた直義1307-1352(息子・直冬1327-1400を長門探題@中国に就任)はこれらの高師直の横暴に対して、土岐頼遠を死罪にしたが、尊氏が寵愛する高師直は抑制できないでいた。天皇家、公家、寺社の訴えに対して直義は高一族を抹殺する決意をした。

【1349-06 直義は高師直を評定所に呼び出し暗殺を実行】しようとしたが、これは失敗する。

【1349-6-15 師直は執事(代々高氏の役目だった:のちの管領)解任】(直義が尊氏に直談判)---施行状の発行は師直に代わって直義が行う

【1349-8-13 師直は直義攻撃のため出陣】 師直の弟・師泰はこれを聞いて大軍勢を率いて京に向かうと直義が脱げ込んだ御所(尊氏邸)を包囲した。要求は直義の執事・上杉重能、畠山直宗の引渡しである。この時尊氏が仲裁にはいり事件は一応解決するが、越前に流罪になった上杉重能、畠山直宗は契約違反により流罪先で殺害され、直義も出家に追い込まれた。義直の養子で 越前局を母に持ち尊氏を実父とする足利直冬も地位を追われて九州に逃亡していたが、勢力を中国へも広げていた。

師直は執事に復帰。尊氏は高師泰軍団を送り込んだが手ごわく、自ら討とうとする。

【1350-10-26 出家していた直義は京を脱出】これに激怒したのは直冬を実子同様に寵愛していた直義である。当時壊滅状態であった南朝側の後村上天皇を見方にし南朝を完全復活させ、これを後ろ盾として反尊氏派・文治派を集めて、若い足利義詮を攻め、京・北朝を陥落する@1351-1-15。

【1351-2-17摂津・打出浜の戦い 尊氏・師直軍は直義軍に圧倒される】尊氏、師直は敗走して松岡城に逃げ込む。弟・直義との直接対決を避けた尊氏は和議を申し立て高師直、師泰兄弟を出家させたが、都への護送途中で暗殺されている@1351-3-24。今度は直義の腹心・上杉重能の養子となっていた能憲の手にかかったのである。義直側にくみしたのは、細川、畠山、吉良、桃井といった足利一族。天龍寺の落慶法要では足利代表で吉良氏、家臣代表で高氏が出席。この時吉良氏は高との参列に激怒したという。

1352-2-26 直義死去 その後足利義詮が二代目将軍に就任

 

尊氏は近江の佐々木導誉、義詮は播磨の赤松則祐と連携して東西から直義を挟み撃ちにして討とうとしたが、察知した直義は京を脱出して北陸で兵を集めると鎌倉に向かった。尊氏はなんとしても武家政権発祥の鎌倉を陥落させるわけにはいかない。京を留守にするにあたって直義が復活させた南朝側に攻められるわけにもいかない。そこで尊氏は南朝側に無条件降伏することによって支持を仰ぎ、後村上天皇から直義追討の宣旨を受けた後、鎌倉を攻め直義を降伏に追い込み毒殺するが、この時北畠親房の画策により北朝側の天皇・上皇・皇太子は息を吹き返した南朝側に捕われ、留守番をしていた義詮は京を逃げ出したことによって京は再び南朝側の支配下となった。1352年、北朝の光厳・光明・崇光上皇と直仁皇太子は捕虜として幽閉された。 ところが近江で勢力を立て直した義詮は佐々木・土岐氏の支援を得て再び京を攻め、後村上天皇・北畠親房は敗走し、短い南朝の時代は終わり二度と復権することはなかった。
                      ┏北畠顕信-1338            
                      ┗北畠顕家1318-1338            
                      ┏楠木正季-1336             
                      ┗楠木正成-1336 
                                      ┣正行-1348
                         赤松円心1277-1350    ┗女(伊賀観世家に嫁ぐ)
            ┏足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338┣観阿弥  
                   ┃上杉重能 畠山直宗(直義執権)   上島元就┗世阿弥
                   ┃ ┗能憲                  ┣観世元雅
                   ┃  ↑                   ┗音阿弥
                   ┃  ↓
                   ┃ 佐々木導誉 
                      ┃ 赤松則祐
┏北条泰家-1335    ┃┏高師直  
┗北条高時1303-1333  ┃┗高師泰         【大覚寺統】     
  ┗北条時行-1353 ⇔ ┣足利尊氏1305-1358  ⇔  後醍醐天皇1288-1339
         上杉清子┃┣義詮1330-1367                   ┃┃                 
             ┃┃┃藤原慶子                     ┃┃                 
             ┃┃┃┣義持1386-1428 斯波義将       ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┗義量1407-1425             ┃┃                 
             ┃┃┃┣義教1394-1441 ⇔ 赤松満祐    ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┣-  ┣義勝1434-1443       ┃┃                 
             ┃┃┃┃日野宗子┣義政1436-1490       ┃┃                 
             ┃┃┃┃    ┣義視1439-1491       ┃┃                 
             ┃┃┃┃春日局 日野重子1411-1463⇔今参局┃┃                 
             ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418               ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)            ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ 日野康子  ┏━━━━━━━━┛┃
             ┃┃┃┃┃ ┣-     ┃┏━━━━━━━━┛ 
             ┃┃┣義満1358-1408  ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)                 
             ┃┃┃   ┣女子   ┃┃                 
             ┃┃┣満詮 日野業子  ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368                 
             ┃┃紀良子       ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
             ┃┃藤原仲子(崇賢門院)┃┃┃                
┏西園寺公宗1310-1335  ┃┣基氏1340-1367   ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
┗西園寺公重       ┃赤橋登子       ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
             ┣直冬1327-1400     ┃阿野廉子1301-1359             
            越前局          ┣護良親王1308-1335            
                         ┣懐良親王1329-1383           
┏1光厳上皇1313-1364                         源師親娘      
┃ ┣3興仁親王(崇光天皇)1334-1398      
┃ ┣4弥仁親王(後光厳天皇)1338-1374    宮人 
┃ ┃        ┣後円融天皇1359-1393 ┣宗純王1394-1481 
┃ ┃藤原仲子(崇賢門院)1339-1427┣後小松天皇1377-1433
┃三条秀子       三条厳子1351-1406   ┣称光天皇1401-1428
┗2光明天皇 豊仁親王1321-1380              日野資子
                                     日野資国┛(日野業子の兄) 

西陣舟橋 高師直邸宅跡

高師直は足利尊氏を支えた室町幕府のNo2。室町幕府成立の立役者。また南北朝の争いでも功績をあげている。その高師直の屋敷があったところが「船ばし」と呼ばれていた。堀川は昔からよく氾濫し、その時には船を並べて橋としました。これが船橋と呼ばれるゆえん。師直は足利直義と利害対立が頻発し、最初は直義を抑えますが、最終的には直義派に殺される。この石碑があるのは和菓子屋「鶴屋吉信」さんのお店の前。

 

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名和長年が戦死した三条猪熊

2010年01月24日 | 鎌倉・室町時代

 京都で幕末の史跡巡りをしていますと、こんな史跡にも出会います。名和長年は隠岐に流されていた後醍醐天皇を助けて以来忠誠を誓い、最後はここ京都御所の北西にある三条猪熊にて足利軍の松浦党に討たれた。 殉節の地と彫られた石碑は名和公園内にあります。

 名和氏の先祖は村上天皇の第七子具平親王であるから赤松氏と系統が同じである。そこから9代目の僧侶・常陸房昌明という人物が源義経の伯父である行家を捕まえて恩賞として鎌倉幕府から但馬の多田荘と葉室荘を与えられ、承久の変でも鎌倉幕府の側に付き但馬の守護職と多数の荘園を与えられた。 そしてその子の行明にも伯耆の長田が与えられたという。 山奥の長田から海岸近くの名和に館を移し姓を『名和』と名乗り、海運業、漁業などで財力のある豪族となっていった。

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
          ┃         ┗季則--赤松則景-家範-重則→
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)
→赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘 
   ┗赤松氏範          ┣
    ┣氏春          赤松義村?-1521(置塩城主)
    ┣家則           ┣赤松晴政1513-1565
    ┣祐春           ┗赤松政元1500-?(上月城主)
    ┣季則
   ┗乙若丸

  鎌倉倒幕に失敗し(元弘の変)、隠岐に流された後醍醐天皇は幕府討伐を諦めず密かに山陰の武士達への協力を求めた。 1333年になると播磨の赤松円心など西国の武士が幕府に反旗を翻し、吉野山では天皇の息子・護良親王が奮戦しており、、後醍醐天皇は隠岐を脱出しようとする。 天皇の警護をしていた佐々木義綱を味方にし出雲の豪族である塩谷高貞に協力するように伝えたが、高貞は態度を明らかにしなかった。 1633年2月24日、後醍醐天皇は一緒に流されていた千種忠顕らとともに隠岐を脱出した。 途中で追手の船に追いつかれたが、なんとか船頭の機転により追手の船から難を逃れることができた。 後醍醐天皇らは最初出雲の杵築浦を目指したが西風に流されて伯耆国の名和湊に漂着したという。  千種忠顕が先に上陸し道行く人に武勇で知られた名和長年という財力・思慮に富んだ人物のことを聞くと、忠顕は名和氏の館に行き、その武勇に頼った。 酒宴の最中だった名和一族のなかでも長年の弟である長重が進み出て「名を後の世に残すのは名誉なことである」として、名和一族は天皇を奉じて挙兵することを決意したのである。 

 琴浦町にある船上山の要害に立て籠もることを決めた長重は天皇を背負って船上山に向かった。 一方長年は兵糧5千石を用意したという。 立て篭もった150騎の名和軍は逆木を打って守りを固め、1333年2月隠岐守護の佐々木清高が率いる2000ほどの幕府軍を船上山で迎えた。 幕府軍の指揮官・佐々木昌綱が流れ矢により右眼を負傷し戦死すると、昌綱の部下500は戦意を失い、また別の指揮官・佐々木定宗は800騎を率いて搦手で戦っていたが、降伏してしまったという。 佐々木清高は攻め立てていたが、今が好機と見た名和長年は射手を率いて攻撃に転じ、幕府軍を討ったのである。 この勝利によって後醍醐天皇は上洛のために諸国の武士に綸旨を発して兵を集めると、西国中の兵士が船上山の周囲2~30里に集まり人馬の波で埋まったという。 これらの功により名和長年は伯耆守に任ぜられた。 

 当時、長年は『長高』と名乗っていたが後醍醐天皇の進言により長年と改名した。 京都に上洛した長年は従四位下に叙せられ京都の東の市場を管轄する東市正に任ぜられた。 また息子の義高も正五位下左衛門少尉に叙せられ天皇の親衛隊である検非違使に任ぜられた。 京都の人々は栄進し権勢を振るった名和伯耆守長年・楠木正成・結城親光・千種忠顕を『三木一草』と呼んで噂したという。  政権を獲った後醍醐天皇だったが、その政治は公正なものとはいえず、戦功のないものに領地が与えられたり、戦功のあった赤松円心には恩賞が少ないなど公家に厚く武家に薄い恩賞に武士達の不満は募っていった。 1335年6月、西園寺公宗の天皇暗殺計画が発覚する。 西園寺公宗は北条氏と親しかった為、建武の親政では没落していたが、その一族を盛り立てて再び世に出ようと、北条氏の残党と組んだのであった。 西園寺公宗は名和長年らに捕らえられた後、処刑されたため計画は未然に防がれた。 1335年、鎌倉で最後の執権北条高時の息子・時行が兵を挙げて足利直義を一蹴して鎌倉を占領した。 これを源氏再興の機会だと見た足利尊氏は勅許を待たずに鎌倉に向かって出発すると直義と合流し3万騎の兵で北条軍を破り鎌倉に入り居座った。 そんな尊氏に対して後醍醐天皇は新田義貞を討伐軍として鎌倉に向かわせた。 足利軍と新田軍は三河の矢作川で激突し新田軍は勝利を得たが、再び結集した足利軍の逆襲を受け敗北する。

 1336年1月、西進する足利軍を止めるため、名和長年らは近江の勢多に陣を構えて迎え撃ったが脇屋義助の守る山崎が敗れたため、足利軍は京都に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。 長年は足利軍を破らずに天皇のもとに帰る訳にはいかないとして京都に入ったが、名和軍の旗印を見た西国の兵士達は一斉に襲い掛かってきた。しかしこれを17度まで破り100騎あまりになりながら内裏に行き、伏し拝んでから天皇のもとに向かったという。  その頃、奥州の北畠顕家が尊氏を討つため大軍を率いて西進しており、1月27日に京都を取り返すために名和長年や楠木正成らとともに攻撃をしかけた。 尊氏の援護がなかった足利軍は大敗し九州へと落ち延びた。 いったん九州に落ちた足利尊氏は兵を集め、またたく間に九州を平定して再び上洛を開始した。 1336年5月25日には上陸を阻止しようとした新田義貞・楠木正成と足利軍が湊川で激突したが、官軍は敗北してしまう。 後醍醐天皇は再び比叡山に移動し、1336年6月14日足利尊氏は光厳天皇を擁して上洛を果たした。 

 劣勢となった後醍醐天皇方は名和長年と新田義貞で京都に攻め込み奪回する計画を立てる。 楠木正成は湊川の戦いで、千種忠顕は雲母坂で討ち死し、結城親光は降伏を装って大友定載に斬り付けた後に戦死するなかで、生き残った名和長年は6月30日、出陣するが、敵に取り囲まれて孤立し得意の弓で奮戦し数百騎の敵を撃ち落とすも最後は三条猪熊のあたりで九州の松浦党の草野将監秀永に討ち取られた。

 

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新撰組にとっての幕末1863年

2010年01月23日 | 幕末

 1863年5月10日、まさか幕府がこの日に攘夷を決行するなどとは誰も思っていないなかで、攘夷決行という天皇との約束を守った藩があった。 それが長州藩であり、尊王攘夷家・久坂玄瑞がその中心人物である。 まず、下関海峡近くの田野浦に停泊中のアメリカ商船に砲撃します。 沈めるには至らなかったが、逃げるアメリカ船を見て長州藩は皆絶叫して喜んだという。 その後もフランス艦、オランダ艦にダメージを与えることに成功する。 一方で、同じ長州藩の桂小五郎は、「攘夷」と叫ぶ過激な倒幕尊王攘夷運動を危険視し、藩の強化策に努めようとしていた。 ちょうどこの月、桂小五郎と村田蔵六は、伊藤博文を含め、長州藩士15名をイギリスに留学させ、真の開国をめざしていたのです。

 この頃、壬生浪士組は芹沢鴨・平山五郎を粛清の名のもとに斬殺します。 壬生浪士組は、公務の他、活動資金にも精を出し、悪どく稼いでいると悪評がたつ生糸商・大和屋が倒幕を志す過激尊王攘夷派に資金を調達しているということを耳にし、「自分たちにも資金を調達しろ」と強談に訪れますが、主人が留守であることを理由に拒絶されます。 芹沢率いる壬生浪士は「今晩、大和屋の蔵を焼き討ちするので、町内の者は外出しないように」と予告した上で、午前零時、蔵に火を放ちます。 名目は、「生糸の値段が高騰したのは、大和屋が輸出品としての生糸を買い占めたのが原因であり、攘夷の一環として、このような外国と手を結び市民の生活を脅かす不届き者を退治する」ということでした。 蔵の中はすっかり燃え尽き、店舗と家屋の打ち壊しには市民たちまで参加し始め、市民たちの拍手喝采の中、芹沢鴨は大変満足していたといいます。 大和屋焼き討ち事件を引き起こした芹沢鴨は、かなりの人物ではあったが、酒乱という欠点を持ち、新撰組の統率にいきづまっており、ある日近藤は会津藩に呼び出され、朝廷筋から芹沢鴨を召し捕るようにとの報告を受けます。 しかし、壬生浪士創設の張本人、筆頭局長の芹沢鴨を召し捕って差し出してはまずかろうということになり「暗殺」を選びます。 ちなみに近藤がこの計画実行に選んだのは、天然理心流門人で運命共同体とも言える山南、土方、沖田、井上の4人でした。

 京都では、真木和泉(久留米藩)と彼を厚遇する長州藩士たちの倒幕運動が活発になる一方で、 土佐藩を脱藩した吉村寅太郎が中心となって結成された天誅組は、倒幕は時期尚早と考える真木和泉の説得を振り切り挙兵、京都五条の代官所を襲撃します。 これを天誅組の乱といい、幕末史において初の倒幕を意識した挙兵となり、さらに長州系尊王攘夷倒幕派を一式、京都から締め出そうという計画が持ち上がります。 攘夷親征を不審に思うと同時に長州藩に政局を乗っ取られるのではないかと危機感をもった薩摩藩は会津藩に接近すると、 会津藩、薩摩藩、淀藩によって御所の全ての門を封鎖し、長州系の者が中に入れないようにします。 異変に気づいた長州藩は、激突も辞さない意気込みでいましたが、ここはひとまず長州に下がって体制を整えるべきと結論をだした桂小五郎ら首脳部が必死に押し止め、戦闘は回避されます。そして、翌19日、長州兵は長州系七公卿を護衛しながら京都を去り、長州へ落ちます。七卿落ちです。 八月十八日の政変に出動した壬生浪士に対し、朝廷から一人につき一両の褒美が下され、さらに朝廷から「新撰組」という隊名も下されます。 約90年前、会津藩の軍編成の組織名 「新撰組」がその由来です。

京都・壬生にある新撰組屯所跡

 

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小松帯刀寓居跡

2010年01月22日 | 幕末

 小松帯刀は、その功績の割には知名度が低く、一昨年の大河ドラマで脚本家の意図があって、篤姫の幼き頃の家庭教師役として登場し、一気に知名度が高まったお方です。 その小松帯刀の寓居跡が京都にありそこには長州藩・桂小五郎なども出入りしていたと知って「京都市上京区堀川一条東入ル南側」へ行ってみた。 なんとこの場所は帯刀寓居跡であると同時に、応仁の乱最初の戦闘地であり、藤原道綱母子や源頼光の一条邸跡であり、近衛堀川屋敷跡でもあるという。 一挙に数多くの歴史に触れることができた思いで少し興奮してしまった。 この石碑は、京都女子大や同志社大学で先生をしておられる歴史地理研究者・中村武生先生によるものだそうです。

 さて、この場所は平安京の頃の地名でいうと、左京北辺二坊五町にあたり、「蜻蛉日記」の著者・藤原道綱の母が住み、後に藤原道長に仕えた武将・源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。 ここで少し蜻蛉日記と藤原道綱母について紹介です。 

 蜻蛉日記は974年頃の作で、 作者・藤原道綱母の本名は不明です。 世の中の物語は嘘ばかり・・・私は蜻蛉日記で本当のことを書きます・・・との出だしで始まり、かなり過激な日記で、今で言う暴露本形式である。 さて、そのお相手はというと、かの有名な藤原兼家(道長の父)ですから、道長と道綱は異母兄弟になります。 序盤では、藤原兼家と結婚した15年間の出来事、つまり父の陸奥赴任、道綱誕生、町の小路の女への嫉妬、母の死などが書かれている。 中盤では兼家と結婚し、道綱が生まれるが、兼家が「町の小路の女」という愛人を作り、その嫉妬に苦しむ。 作者の病気、賭弓での道綱の勝利、唐崎の祓え、石山詣でなど、兼家とはますます疎遠になり、出家を決意する。  終盤では自己を内省する澄んだ境地で、兼家を客観的に眺める心境が記されている。 兼家も訪れなくなり、愛情を一子道綱にそそぐという内容である。 藤原道綱母は藤原倫寧の娘で、歌人としても名高い。  兼家の正室は時姫で、藤原道長の母にあたり、藤原道綱母は時姫と同格の妻であった。 また蜻蛉日記に登場する 町小路女も 兼家の妻の1人である。 時の権力者、藤原兼家を相手に嫉妬にまみれた感情を赤裸々に綴るが、当時は一夫多妻の世の中であり、たとえ藤原道綱母が当時王朝三美人のひとりといわれたお方であっても、藤原家の繁栄の為の犠牲者ともいえます。

 次に、付近一帯は応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもあると記載あります。応仁元年の1467年5月26日、東軍・細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。 以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅することとなります。応仁の乱についての紹介です。 

 山名宗全は京都に大きな権力を打ち立てる。足利義視(室町8代将軍足利義政の弟)が細川勝元を後見としたように、富子(室町8代将軍足利義政の妻)はさらに大きな義尚(義政の子で9代将軍)の後見として、山名宗全を選んだ。 足利義視を推す細川勝元と義尚を押す山名宗全が真っ向から対することとなった。 結果、この対立抗争は富子の予想に反して11年もの長い期間にわたって続いた。これが応仁の乱である。

 応仁の乱によって京都のほとんどは焼き尽くされ多くの文化遺産が失われた。すべての発端は足利代8代将軍義政の後継者争いによるものである。 足利義政は銀閣寺で代表される東山文化を大成させた文化功労者ではあったが、ほとんど政治に関与することはなく、その結果起こったのが応仁の乱であるから将軍としての罪は大きい。

 義視勢は16万、義尚勢は9万と細川勝元が有利であったが、途中で山名宗全は大大名大内政弘を迎え入れ、形勢は逆転し、義視は伊勢へ逃げて北畠氏を頼った。花の御所のすぐ近くに相国寺があり東軍義視側の本拠地であったが義視逃亡のあとに優勢となった西軍は一気に東軍を攻めた。これを相国寺合戦という。 義政は自分の室町殿へ降りかかる火の粉を眺めて宴会をしていたという・・・。 応仁の乱勃発6年後に義政の御父・伊勢貞親が死亡し、その数ヵ月後に山名宗全、細川勝元と相次いで死亡している。 動揺する義視をしりめに、義尚が征夷大将軍に任命された。 翌年の1474年にいよいよ富子は義尚の後見人として政治の舞台に登場するのである。そして小河の新邸が完成すると義政は政治を放棄して、移っていく。 その頃、山名宗全の後継者としての政豊が西軍の大将として、細川勝元の後継者の政元が東軍の大将として室町殿で会見し、講和を成立させた。ただ、東軍の赤松政則、畠山政長 西軍の大内政弘、畠山義就などは講和を認めていない。 世の中落ち着いたようには見えたが、幕府の財政は苦しく、徴税が思うようにいかず、義政の浪費に富子の苦労は並大抵ではなかった。1476年に内大臣であった富子の兄・日野勝光は左大臣となるが病魔に襲われてあっけなく死亡した。義政の義弟という地位を利用して辣腕をふるい、秘計を巡らすところにはいつも多額の金が動いたのは事実で、毒殺されたという説もある。しかし、勝光の死後、和平の機運は高まった。 1477年大内政弘の仲介で義政、義視の和解が成立し、富子から1千貫を受け取った畠山義就は京都から立ち去った。そして義視は大内政弘の斡旋により美濃の土岐成頼(斉藤道三に滅ぼされた土岐頼芸の祖父)のもとに身を寄せ、京都から立ち退いた。こうして11年に続く応仁の乱はやっと終わることになる。 系図を見てみると争乱に関わった両者とその背後がよくわかるので面白い。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

 また、江戸時代には筑前福岡・黒田家邸となり、同家御用達商人だった古高俊太郎、別名・桝屋喜右衛門も出入りしたと推定される。 1864年6月5日、古高の政治活動を怪しんだ新選組は彼を逮捕し後に惨殺するが、これが池田屋事件に発展することとなる。 尚、この地の向かいは、五摂家筆頭・近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があったという。 薩摩島津家の家老・小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされていることから、当邸が有力候補地となっている。 1866年1月、小松帯刀寓居には長州毛利家の桂小五郎が出入りし、薩長同盟が締結された可能性がある。 寺田屋事件直後に龍馬がお龍と結婚したときに、小松帯刀の誘いで温泉旅行を楽しんたともいわれている。 小松帯刀は小松家当主から薩摩藩家老となり、1862年3月には、島津久光、大久保利通らとともに兵1000を率いて上京し、これを機会に関白九条や所司代酒井を襲撃しようとする有馬新七ら諸藩の尊王攘夷派が伏見の寺田屋で蜂起計画が時期尚早として制圧している。 後に土佐藩を取り込むために、京都の料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛、土佐の後藤象二郎・乾退助・中岡慎太郎・坂本龍馬との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。 この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展する。 これらの慎太郎・龍馬による軍事同盟は、土佐藩内においては戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力とし、 土佐出身者は薩摩・長州・肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力となっていった。 

 このように、当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であったことを思いながら一人で興奮していたのでした。                                               

 

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薩英戦争が坂本龍馬の思惑を実現化した

2010年01月21日 | 幕末

 薩摩藩の三事策、つまり将軍上洛、五大老設置、一橋慶喜を後見職、松平慶永を大老職とする策が実現し、京都には守護職がおかれて会津藩主の松平容保が任じられた。 文久の幕政改革が行われ、幕府は大名たちの協調を求める主張に譲歩した。 島津久光は江戸からの帰路、神奈川の生麦村で騎馬のイギリス人4人とすれ違った。 薩摩藩士は大名行列に対して無礼として商人・リチャードソンを斬首した。 これにより翌年薩英戦争を引き起こすこととなる。 1863年6月、薩摩藩が生麦事件の犯人引渡しを断ったためにイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、薩摩藩は発砲したため薩英戦争に突入した。 この戦争によりイギリス側の戦死者13人に対して、薩摩藩の死者は少なかったが、アームストロング砲の砲撃により市街の消失など被害は甚大であった。 しかし鹿児島遠征と居留地防衛を両立できるだけの軍事力はないと判断してイギリス軍は早期に退去した。 この頃京都では、攘夷親征の方針が公表され尊王攘夷の過激派・真木和泉らは攘夷・倒幕を主張していた。 薩英戦争が講和へと動く頃、京都の攘夷運動は最大の盛り上がりを迎えた。 薩英戦争で戦った薩摩藩は講和へ向けてイギリス軍艦の購入申し込みを行い、島津斉彬依頼開国論を唱えていた薩摩藩は薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにし軍政改革をめざす開国路線を確立した。 こうして攘夷論の長州藩と公武合体開国論の薩摩藩は真っ向から対立することとなる。

 1863年の8月18日の政変は朝彦親王、近衛忠房らと薩摩藩・会津藩らの公武合体派によって綿密に計画されたものである。18日公武合体派の兵力は密かに御所九門を固め、その中で朝議が開かれ、攘夷親征延期が決定された。 長州藩と尊攘過激派は京都から追放され、三条実美ら7人の尊攘派公家と長州藩兵が長州へと敗走したのが七卿落ちである。 こうして鷹司輔煕は関白を罷免され徳川家斉の甥・二条斉敬が関白の座についた。 この頃、尊王攘夷過激派の土佐・吉村虎太郎や備前の藤本鉄石らは攘夷・倒幕の天誅組(孝明天皇に代わって攘夷を目指して公武合体派を殺戮するの意)を結成し、公家の中山忠光を擁して18日の政変前日に大和五条の幕府代官所を襲撃した。 ところが京都の政変で情勢が一変したため諸藩兵に敗走した。 このとき十津川郷士も離反し、中山忠光は長州藩に逃れ、吉村虎太郎は戦死した。 一方、政変後に京都を追われた平野国臣ら尊攘過激派は七卿落ちの公家・沢宣嘉を擁して長州藩奇兵隊からの脱藩士・河上弥市らも加わって天誅組に連携する攘夷・倒幕挙兵を計画した。 しかし大和での吉村虎太郎らの戦死に影響されて鎮圧の諸藩に包囲され沢以下多くの幹部は逃げ、河上らも彼らが納税半減をえさに集めた農兵により殺され、尊王攘夷運動は終焉を迎えた。

 やがて朝廷から一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光の6名に政治参与が命じられ、1864年参内が始まった。 武家による政治参与は前例のない変革であり、二条城で参与会議が開かれ、雄藩諸侯の国政参加が実現したのである。 島津久光はこれで開国論の立場を確立しようとし、洋式軍制を導入するための莫大な資金捻出のために天保通宝を250万両私鋳している。 その後すぐに新撰組による池田屋襲撃事件が起きた。 長州藩では俗論派が勢力を強め、藩体制の確立を進めていた周布政之助や高杉晋作は京都への侵入は控えていたが、池田屋事件に反発した長州藩尊攘過激派は上京し、7月には御所西側の禁門周辺で薩摩・会津藩と激しく戦った。 結果、京都洛中二万八千軒が消失し長州藩は撃退された。 蛤御門の変である。 

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