大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

役行者と前鬼、後鬼

2008年09月16日 | 奥吉野(天川・川上)
吉野に参ると“役行者(えんのぎょうじゃ)”の像をよく見かける。
先日の山上ヶ岳・大峰山寺にも、もちろん吉野の脳天さんにもあった。
今回は“役行者”について
“役行者”は続日本記によると634年に生まれ、名前は小角(おずぬ)という。
大峯山で修行し仏様の出現を強く祈ったとき、金剛大菩薩の姿を感じ、これを本尊として修験道を開いたそうだ。
701年6月7日68歳で亡くなったと伝えられてい る。
大峯山の開祖役行者の両脇には、常に“前鬼”、“後鬼”とよばれている従者が控えている。
“前鬼”は斧を持ち、“後鬼”は水瓶を抱えている。役行者の没後、大峯修行者に奉仕をせよとの遺言にしたがい、“前鬼”は大峯奥駈けの前鬼の宿(奈良県吉野郡下北山村前鬼)に、“後鬼”は大峯山山麓の洞川(吉野郡天川村洞川)に住み着いたという。
私の山行は、中学3年の夏、1週間ほど“前鬼”の宿坊で宿泊したところからはじまった。
だから時折、前鬼の“不動七重の滝”が見たくなってしまうのだ。

※前鬼・小仲坊の由来を書いた案内板
かつて役の行者には前鬼・後鬼という二鬼の従者がいた。
斧と水瓶を持った男女の鬼で二人は夫婦であったという。役の行者は彼等に大峰山中に住んで修業者の手助けをするように命じられた。それ以後前鬼、後鬼の5人の子供の子孫がこの前鬼の里で各々宿坊を開き、奥駈行を支え続けた。
五鬼継(森本坊)、五鬼助(小仲坊)、五鬼上(中の坊)、五鬼童(不動坊)で自給自足の生活をしながら行場を守りつづけてきたが明治の末頃から転出が相次ぎ、現在は小仲坊一軒になってしまったが、今も年間200人ほどの修験者が宿泊するという。
「行場を守って修業者を手助けする」という1300年前の役の行者との約束を今も守っているとのこと。 長い年月にわたって、近畿の屋根ともいわれる大峯深山の谷間に孤立して活きつづけてきた。
「写真;役行者の像、吉野蔵王堂から脳天さんへと谷を降りる道中にあった。」


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5 コメント

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Unknown (峰岳 )
2010-09-18 08:57:33
初めまして。 検索しているうちに貴方のブログに突き当たり楽しく拝見させていただきました。

突然で申し訳ありませんが、実家に残っている掛け軸があり「前鬼 義静」の印が押してあり村の長老から、家宝ですよと言われたそうです。
昔、大おじいさんが洞川の龍泉寺にいましたので何か「前鬼 義静」手がかりを掴みたいのですが、お知恵拝借宜しくお願いします。
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前鬼・後鬼 (瓜亀仙人)
2010-09-18 14:10:24
峰岳さんへ
はじめまして,
洞川は,後鬼の里。
高校時代の同級生が,家業を継いで旅館をしていますが,聞いてもたぶん分からないでしょう。
前鬼へは長らく行っていません。
世界遺産に指定された頃,TV番組に五鬼助(小仲坊)さんが出演しておられ,週末には大阪から前鬼に通っておられるとのことでした。その後のことは・・・
一度,奈良・吉野を訪ねられることをお薦めします。
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Unknown (Unknown)
2010-09-18 19:48:40
瓜亀仙人様

早速、お返事有難うございました。
私も奥吉野に足を伸ばして探して見ます。
これからも楽しく拝見させて頂きます。

有難うございました。
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Unknown (幽黙)
2010-09-18 20:06:34
義静で思い起こすのは
静御前(戒名が義静)と
鑑真和上の弟子の僧侶
義静(ぎじょう)ですねぇ

さて

っと横レスすみません
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五鬼助 (瓜亀仙人)
2010-09-18 22:25:14
「前鬼 義静」の意味。
興味深くなってきましたね。
私の記憶では,前鬼の里に住む
五鬼助家では,代々名前の最初の文字が「義」だったのでは???
他の五鬼継(森本坊)、五鬼上(中の坊)、五鬼童(不動坊)の方のお名前は知らないのですが・・・
35~40年ほど前,サントリーウイスキーのCMで,囲炉裏を囲みながら日本オオカミの話をしておられたのが,五鬼助家の先代でした。
あの方も「義」がついておられたと思います。
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