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大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

篤姫と天誅組の頃

2008年09月17日 | 吉野町・東吉野村
毎週TVドラマ「篤姫」を欠かさず見ている。
時代は幕末、「尊皇攘夷」の頃。
江戸、長州、薩摩から遠く離れた奈良・吉野の山 中にも、この幕末の頃の歴史が残っている。
その名は“天誅組”。
“新撰組”の名前はあまりにも有名だが、“天誅組”の名前を知っている人は?
その“天誅組終焉の地”を高見山登山に行く道中に、東吉野の道端に見ることができる。
この秋、談山神社で10月18日より、明治維 新140年、天忠組大和義挙145年を迎え、特別展「天忠組 近代を開いた志士たち」が開催されるという。
どうして“天誅組”、“天忠組”と、中央の文字が違う(使い分けている?)のか、詳しい訳はしらないが、覗いてみたいと思っている。
※天誅組について
1863年8月13日(明治維新の5年前)、孝明天皇が大和国畝傍山稜に詣で、陵前で攘夷断行の勅命を幕府にくだすため、天皇みずから大和行幸(行幸とは、天皇が皇居から外出すること)を宣言されました。
 天皇の大和行幸の露払いとして、また討幕軍の先鋒になろうと、行幸宣言の翌日、公家中山侍従忠光を主将にいただき、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石を総裁にして「天誅組」が旗揚げされました。
8月17日に倒幕の狼煙を上げるため幕府の五條代官所を襲撃し、櫻井寺に幕府に支配されない日本初の政府である五條御政府を樹立しました。武力による最初の討幕運動が大和五條において行われました。
しかし、翌18日に薩摩・会津の公武合体派の謀議により政変が起こり、三条実美ら尊皇攘夷の公卿19人が即時参内停止になり、有名な「七卿都落ち」が起こります。大和行幸は中止になり一転天誅組は賊軍として追討軍に追われることになりました。
天誅組は尊王の志が厚い十津川で兵を募り、難攻不落の「高取城」を攻め取り、ここから天下の尊皇攘夷の志士たちに倒幕の号令を挙げるため、26日に高取城への攻撃が開始されました。高取の鳥ヶ峰で火蓋は切られましたが、大阪冬の陣・夏の陣で活躍した攻城砲が天誅組に火を噴き、火力で劣る天誅組は敗退しました。そして、圧倒的な幕府の追討軍との死闘をくりかえしながら、血路を開かんとして、西吉野村・大塔村・十津川村・黒滝村・下市町・下北山村・上北山村・川上村から足の郷峠を越えて、東吉野村で最後の死闘を繰り広げ終焉を向かえました。
「写真;天誅義士戦死の地、吉野郡東吉野村」



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