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大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

蜘蛛塚と蜘蛛窟

2009年08月19日 | 御所市・五條市
あの日、葛城一言主神社の拝殿の横で『謡曲「土蜘蛛」と蜘蛛塚』いう解説板を見かけた。
源頼光とその家来の渡辺綱にまつわる伝説?「土蜘蛛」の史跡だという。
「頼光が原因不明の熱病にうなされている時、枕元に現れた怪しげな法師を頼光は銘刀「膝丸」で斬ったが、法師は消へ失せてしまう。
そこで渡辺綱をはじめとする家来の四天王に命じて探索させた。渡辺綱らは血痕を追跡し北野の杜で大きな塚を掘り返したところ三尺余も ある大蜘蛛を発見。これを串刺にして賀茂の河原に晒すと頼光の熱病は快癒した。」という。
なんでここで、京の都の妖怪話なんやろか?
でも、この「土蜘蛛」は、むかし葛城山に住んでいた「 土蜘蛛」の精霊やった???
たいして歴史の知識がない私だが、「土蜘蛛」という言葉に引っかかった。
確か・・・神武天皇が東征で宇陀の方から奈良盆地に入って来るとき・・・
盆地東南部の「忍阪」という場所で戦ったのが「土蜘蛛」やったはず?
それがどうして反対側の盆地西南部の葛城に?
この近くの「高天彦神社」にも「蜘蛛窟」というのがあるという。
御所市史によると,「むかし、千本の足をもつ大きな土蜘蛛がすんでいた。時の天皇はお悩みであったので勅使がきて、字 サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。矢の落ちたところを矢の段という。土蜘蛛を高天彦神社の傍に埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛のいた窟は神社の前の並木の東にある。」とある。
日本書記には「土蜘蛛」のことを、「そのひととなり、身短くして手足長し。しゅじゅと相類す」と書かれているという。
神武天皇の皇軍と先住民との戦い?東征?
日本書記によれば神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、それを覆いかぶせて反抗する「土蜘蛛」を捕らえて殺した。それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったと葛城の地名の伝承について記しているという。
そして「一言主神」と「土蜘蛛」との関係は・・・
「写真;高天彦神社前にある蜘蛛窟」


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