義を見てせざるは勇なきなり
論語の一説にあるあまりにも有名な教えですが、私好みの言葉です。
「人としてなすべき正しいこととわかっていながら、それを実行に移さないのは、勇気がないからである」という意味です。
そうは言っても、道義から見てどうしてもしなければならない事を実行できるかと言われれば、出来ないことは出来ないと居直る自分がいます。
ただ孔子の格言を肯定的に解釈すると「勇気とは正しいことをすること!」につきるということは肝に銘じています。
多くの方々からご意見をいただき、冷静に拝聴するとある部分の真意がくっきりと見えることがあります。
こんな時、このblogから皆さんの意見が得られることに大きな意味があることがわかり、無視できない重さを感じます。
何しろ議論嫌いが伝統的に受け継がれているJARLのようですから、このような機会を理事が作ることはご法度だったのかもしれませんが、もうそんな時期ではないと思っています。
勇気を出して意見を出しても、反論を受ければ敵だと思う日本人の習慣があるのか、そこで議論が止まるというケースが多く、このような土壌がJARLに有ったのではあればまず手をつけるべきです。
私の思いは、匿名であっても悪口であっても削除せずに真贋の目利きのある方の判断に委ねます。
結果は時間の推移に従い求められると思っています。
議論は今の価値の議論ですし、正義も今を基本にしたものですから絶対に誤りがないとは言えず、さりとて今の時点で間違いだと断定することもできないところが俗人である生身の人間の悩みではないかと言い聞かせる自分がいます。
法律や組織論を得意とする方を多く要するJARLですから、当然ながらこれらの議論が噴出しています。
何より定款改正という現実の場面を間もなく迎えるのですから、避けることの出来ない議論です。
これらが今までなかったことが不思議なくらいです。
この習慣になかったJARLの苦悩は、いびつな形の議論形態を招き泥沼の様相を招いています。
本質的な解決論より先に、すぐに責任論に行き当たりますが、それより残念なことは、このところ全く噛み合わない議論となっていることを憂うことです。
そこには過去の議論の経緯が全く取り上げられずに、あたかもその時間が空白だったような意図的ともいえる論旨のすり替えを感じます。
名古屋総会で問題ありとされた定款・規則案は否決されました。
その結果、これらの改正審議を議論する委員会が開催され、否決側の当事者が委員として激論に加わりました。
問題だと指摘された修正案に加え、議題以外の緊急提案にも耳を傾け議論に加えました。
何度もお伝えしている通り、採決という結果を導かず激しい議論の中で意見を交わし導いた結果です。
賛否両論のなかで議論百出でしたが、委員すべてが議案に賛同したものは少数です。
双方に不満がある議題もありましたが、導いた結論はすべての委員が大同につき出したものです。
その証しが、すべての委員は自筆の署名を加え、誠実に議論を重ねこれらを理事会に諮ることを約束した書面です。
委員会からの答申を受け理事会でこれらが承認され、評議員会でも大多数の賛意を得たことはご報告の通りです。
本来理事会の決め事がすべて満場一致などであったという方が異常なことです。
民主主義を語りだすとまた妙な方向に議論が進むようですが、きちんとした手続きで導いた結論に対し、今になってその当事者が意見を言うのは認められるとして、公然と反対を表明することは異常なことであり、自らの存在すら否定することになります。
意見が通らないという不満は、私自身これまでの理事会の中で結構多くありました。
だからといって総会の議案に、壇上から反対票を投じることはありませんでした。
これが理事としての最低限の約束事だと言い聞かせていたからです。
義を見てせざるは勇なきなりという教えが「勇気とは正しいことをすること!」なら、自らが加わった結論を自ら否定することなどは感心されることではないと思います。
後から気がついて、発言したことに誤りがあるとしても適当ではないと感じます。
私は委員みなさんの意見を聞いて定款案を提出しました。
間違いがあったならその時主張すればきちんとした議論ができました!
後から見つけ出した課題をすでに決まった結論から外せという手法についてはNOといわざるを得ません。
議論のテーブルに載せるなら、今の過ちがあることをきちんと立証して次の正式な場に移すのがルールだと思います。
それが新しいJARLが果たさねばならない課題だと思っています。
この場を作る以前に、自らが加わった議論をないがしろにする人たちの存在の方が気になります。
これまで、決して排除の論理などを行使したことがなく誠実なお付き合いの中で進んできた時間が無駄になるようではJARLにとって最大の「負」の結果を招くと思っています。
論語の一説にあるあまりにも有名な教えですが、私好みの言葉です。
「人としてなすべき正しいこととわかっていながら、それを実行に移さないのは、勇気がないからである」という意味です。
そうは言っても、道義から見てどうしてもしなければならない事を実行できるかと言われれば、出来ないことは出来ないと居直る自分がいます。
ただ孔子の格言を肯定的に解釈すると「勇気とは正しいことをすること!」につきるということは肝に銘じています。
多くの方々からご意見をいただき、冷静に拝聴するとある部分の真意がくっきりと見えることがあります。
こんな時、このblogから皆さんの意見が得られることに大きな意味があることがわかり、無視できない重さを感じます。
何しろ議論嫌いが伝統的に受け継がれているJARLのようですから、このような機会を理事が作ることはご法度だったのかもしれませんが、もうそんな時期ではないと思っています。
勇気を出して意見を出しても、反論を受ければ敵だと思う日本人の習慣があるのか、そこで議論が止まるというケースが多く、このような土壌がJARLに有ったのではあればまず手をつけるべきです。
私の思いは、匿名であっても悪口であっても削除せずに真贋の目利きのある方の判断に委ねます。
結果は時間の推移に従い求められると思っています。
議論は今の価値の議論ですし、正義も今を基本にしたものですから絶対に誤りがないとは言えず、さりとて今の時点で間違いだと断定することもできないところが俗人である生身の人間の悩みではないかと言い聞かせる自分がいます。
法律や組織論を得意とする方を多く要するJARLですから、当然ながらこれらの議論が噴出しています。
何より定款改正という現実の場面を間もなく迎えるのですから、避けることの出来ない議論です。
これらが今までなかったことが不思議なくらいです。
この習慣になかったJARLの苦悩は、いびつな形の議論形態を招き泥沼の様相を招いています。
本質的な解決論より先に、すぐに責任論に行き当たりますが、それより残念なことは、このところ全く噛み合わない議論となっていることを憂うことです。
そこには過去の議論の経緯が全く取り上げられずに、あたかもその時間が空白だったような意図的ともいえる論旨のすり替えを感じます。
名古屋総会で問題ありとされた定款・規則案は否決されました。
その結果、これらの改正審議を議論する委員会が開催され、否決側の当事者が委員として激論に加わりました。
問題だと指摘された修正案に加え、議題以外の緊急提案にも耳を傾け議論に加えました。
何度もお伝えしている通り、採決という結果を導かず激しい議論の中で意見を交わし導いた結果です。
賛否両論のなかで議論百出でしたが、委員すべてが議案に賛同したものは少数です。
双方に不満がある議題もありましたが、導いた結論はすべての委員が大同につき出したものです。
その証しが、すべての委員は自筆の署名を加え、誠実に議論を重ねこれらを理事会に諮ることを約束した書面です。
委員会からの答申を受け理事会でこれらが承認され、評議員会でも大多数の賛意を得たことはご報告の通りです。
本来理事会の決め事がすべて満場一致などであったという方が異常なことです。
民主主義を語りだすとまた妙な方向に議論が進むようですが、きちんとした手続きで導いた結論に対し、今になってその当事者が意見を言うのは認められるとして、公然と反対を表明することは異常なことであり、自らの存在すら否定することになります。
意見が通らないという不満は、私自身これまでの理事会の中で結構多くありました。
だからといって総会の議案に、壇上から反対票を投じることはありませんでした。
これが理事としての最低限の約束事だと言い聞かせていたからです。
義を見てせざるは勇なきなりという教えが「勇気とは正しいことをすること!」なら、自らが加わった結論を自ら否定することなどは感心されることではないと思います。
後から気がついて、発言したことに誤りがあるとしても適当ではないと感じます。
私は委員みなさんの意見を聞いて定款案を提出しました。
間違いがあったならその時主張すればきちんとした議論ができました!
後から見つけ出した課題をすでに決まった結論から外せという手法についてはNOといわざるを得ません。
議論のテーブルに載せるなら、今の過ちがあることをきちんと立証して次の正式な場に移すのがルールだと思います。
それが新しいJARLが果たさねばならない課題だと思っています。
この場を作る以前に、自らが加わった議論をないがしろにする人たちの存在の方が気になります。
これまで、決して排除の論理などを行使したことがなく誠実なお付き合いの中で進んできた時間が無駄になるようではJARLにとって最大の「負」の結果を招くと思っています。