宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

さやかに星はきらめき

2014年12月11日 | Weblog






♪UFO CONCERT
https://www.youtube.com/watch?v=fErMBO1x944


♪さやかに星はきらめき
https://www.youtube.com/watch?v=26e0xpF0mE8

さやかに星はきらめき、
み子イエス生まれたもう。
長くも闇路をたどり
メシヤを待てる民に、
あたらしき朝は来たり
栄えある日は昇る。
いざ聞け、み使い歌う
たえなる天(あま)つみ歌を、
めでたし、きよしこよい。








♪第六の幸福をもたらす宿
https://www.youtube.com/watch?v=O4nFWVdvKhQ

♪セドナ
https://www.youtube.com/watch?v=-X4ottrn2nw


♪賛美歌404番山路こえて
https://www.youtube.com/watch?v=Xp3UPF2mZNg


♪全然休めてない『トランペット吹きの休日』
https://www.youtube.com/watch?v=_E3FnEXi54k

♪Orient Express
https://www.youtube.com/watch?v=ETEdRMj5KXY

♪聖歌570番 雨をふりそそぎ
https://www.youtube.com/watch?v=AHNHWPt4xBk

♪マルセリーノの歌
https://www.youtube.com/watch?v=bqKFXlg1h6s

♪ルパン三世のテーマ
https://www.youtube.com/watch?v=CDN7I0yLaa8

♪Domino
https://www.youtube.com/watch?v=ddKHDxyBNr0

♪SACHIKO
https://www.youtube.com/watch?v=A3gVXDi_FX0

♪Michelle
https://www.youtube.com/watch?v=BD2lobwLHC8

♪Lucille
https://www.youtube.com/watch?v=HVgaTA-TjuE

♪語りつぐ愛に
https://www.youtube.com/watch?v=v-RZ_fNg-kA

アラン・ワッツ~「100%今に生きる」
https://www.youtube.com/watch?v=oCDoqpuZV2o


♪Golden Slumbers - Carry That Weight
https://www.youtube.com/watch?v=4spkG8LizyE

かつて そこには
故郷へと続く道があった
かつて そこには
家へと続く道があった

おやすみ かわいい子 泣かないで
子守唄をうたってあげよう

黄金の眠りがおまえの瞳を満たし
微笑みがおまえの目を覚ます
おやすみ かわいい子 泣かないで
子守唄をうたってあげよう

かつて そこには
故郷へと続く道があった
かつて そこには
家へと続く道があった

おやすみ かわいい子 泣かないで
子守唄をうたってあげよう


*******

君はその重荷を背負っていくんだ
これから長い間ずっと
君はその重荷を背負っていくんだ
これから長い間ずっと

僕は君に枕を渡さない
招待状を送るだけ
祝宴が始まると その真最中に
僕はつぶれてしまう

君はその重荷を背負っていくんだ
これから長い間ずっと
君はその重荷を背負っていくんだ
これから長い間ずっと


♪笑って許して
https://www.youtube.com/watch?v=_1GKzfZgvoc



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微(かす)かな風俗 (岡田刀水士(とみし)の詩)
2014-12-11 02:02:42
         微かな風俗

山峡(やまあ)いにかゝる霧のなみ。
そのなかの夏ぐみの実は薄い星。
仄(ほの)かに匂う方角の辺りを
私は未知の家並(やな)みに近づく。

山郷(やまく゜に)の風俗の在りよう
それは口を噤(つぐ)み 瞳を伏せているけれど
仔細に覘(のぞ)くと
かすかな微笑の痕が舞っている。

姿のそりかえる鏡は澄み
薬や便箋の類(たぐい)まで店に渦まく

私の生活のかなしみ
その歪(ひず)みに強い焔(ほのお)を
噴きつける。この郷(くに)の鏡に蝶飛んで
人の香も映像について往き来している。

  中央公論社 日本の詩歌26 近代詩集
返信する
悪魔がわかるには (清濁併せ呑む)
2014-12-11 03:59:30
神をよりよく知るには悪魔の存在が
悪魔をよりよく知るには神の存在が
表裏一体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり虫歯にならない前に歯を
よく磨くわけだけど、残念ながら
歯と言うものの役割上、虫歯菌も
重要な役割って事なのかな?共存
 以下 こぴぺ 深く 感謝
堕天使・悪魔の概念
~ A concept of the fallen angels & the demons ~

「ミルトン『失楽園』のサタン」<マーチン画>

      1. 悪魔とは何か?

 数千年という長きに渡って、神という絶対的存在に抗い続けてきた悪魔たち。天使同様、悪魔についてのイメージも、今となってはかつてのものとはかなり異なっており、その定義がおかしなものとなっている。悪魔と怪物、妖怪、魔物などが一緒くたにされていることが多く、それらを混同して、悪魔とは化け物じみたもの、というイメージが定着し、それらは全て同じものであるという定義をしている人々が多いと推測する。

 だが、少なくとも西方世界、すなわちユダヤ/キリスト教の悪魔に関して言えば、悪魔は怪物でも妖怪でも魔物でもない。彼らの第一の特徴として、神、あるいはその神に追従し、神性原理の代行者として存在する天使たちが掲げる「善」の旗印に対して、敢然と「悪」の旗印を掲げて徹底的に敵対する者たちである。「七つの大罪」とされる「高慢」、「憤怒」、「嫉妬」、「強欲」、「肉欲」、「大食」、「怠惰」をはじめ、西方世界の悪魔たちは個性豊かで、彼らには「無神論」、あるいは自分たちも神々の一人であるとみなす思想などがあり、その思想に基づいた哲学、美学があるのだ。これは信念に基づいているので、生き物としての性質が時折人間にとって害をなすことになる化け物とはわけが違う。この点が化け物的な怪物、妖怪、魔物の定義と、悪魔の定義とを明確に分けている線であると考えられる。

 彼ら悪魔たちは、天使たちとの間に人間を真ん中に据え置き、それぞれが自分たちの陣営に人間を引き込もうと綱引きをしているとみてとれる。悪魔は「悪」という名の「正義」、天使は「善」という名の「正義」を掲げ、永遠の思想闘争を繰り広げているというわけだ。しかし、善と悪とは表裏一体をなすものと考えることもできる。悪なくして善は引き立たず、善なくして悪は引き立たない。つまり悪あっての善、善あっての悪という構図が出来上がっており、互いの正義を引き立たせるには、両者にとって互いの存在は欠くことのできないものというわけで、互いに互いの存在を利用しているのだ。したがって悪さえなければこの世は全て善になるという考え方は厳密に言うと違うということになる。この辺は失楽園第一巻のサタン(この場合はルシファーと同義か)の「神の奴隷」に関する言及にも表れている(サタンの項目を参照<執筆中>)。

 悪魔には、元来神に従っていた天使だったものが、神の存念に疑念を抱いて、その疑念を信念に変えて反逆した者、つまり「悪」とされるものを信奉するようになった堕天使と、ユダヤ/キリスト教の宗教圏の拡大に伴って糾合されることになった異教の中の神々が、悪魔とみなされるようになったものがいる。両者ともユダヤ/キリスト教の宗教観に基づいて悪とみなされた存在に過ぎない。特に異教の中で神々とされたものたちは、もともとそれを信奉するものたちにとっては「善」であった。その中にはただ姿かたちが恐ろしいからといってその性質までを考慮されることなく悪魔扱いにされてしまったものさえいる。宗教観の歴史を眺めてみると、善悪二元論に関する考え方は相対的なものであるのだ。

 これらが、神性原理を人間世界に広めようとする神と天使たちの善行と、それを妨げる悪魔たちの悪行の正体であると見て取ることもできる。ここから、なぜ絶対の存在である神が、悪魔を徹底的に根絶せずにのさばらせているのかということについても推測できるのだ。これは旧約聖書「ヨブ記」に明確に表れている。この場合はなんと、悪魔と神とが互いの利害の一致を見て人間に災いをもたらしているのである。


  2. 旧約聖書『ヨブ記』の神とサタン

 ヨブ記は、聖書(旧約聖書)の中でももっとも重視される内容を持っているとされ、いわゆる哲学的思索による神義論(弁神論)において一級の資料となっている。その話の内容を簡単に要約すると、アブラハムの時代のカナンに住んでいた敬虔な男であるヨブが、ひどい試練を経て、再び苦難から解放されるという話である。

 ヨブ記に登場する悪魔であるサタンは、この場合神への信仰心篤いヨブを見て、神とヨブの間に入って、ヨブを試してみようと神に進言し、神の部下として、神のために悪役を務める狂言回し的な役割を担っており、ヨブに壮絶な試練を散々に繰り返している。ヨブの信仰心を試そうとしている神はそれを黙認し、サタンがヨブにもたらす災厄をとめようとはしなかった。その災厄を受けている間、そのことに対して、友人(哲学者)や妻などとの会話があり、ヨブの嘆き、独白、神への哀願があるわけだが、最終的に神を非難することなくその信仰心を貫き通したので、ついにこれまで沈黙していた神は、「災厄を受ける以前の状態に勝る祝福」をヨブに授けている。

 一見単純に見える話だが、この話が投げかけている神義論のテーマというものは並々ならぬものではない。さまざまな見方ができるのだが、ヨブ記が意味していることについての詳しいことは別項に譲ることとして、ここではその中にある一面を取り上げてみよう。それは「災厄を受ける以前の状態に勝る祝福」というものが果たしてどんなものなのかということである。

 ヨブはサタンからの災厄によって愛する子どもたち(男七人と女三人)を一度に失った。そして妻から何故このような災厄を受けてまで神への信仰心ばかりを優先するのかというそしりまで受け、結果的に家族全てを失うことにもなっている。苦難の後にまた同じ数の子どもを得て、140歳まで生きて、子々孫々を四代まで見て死んだという結末になっているが、この祝福によって、今まで受けてきた災厄の中で命を奪われた子どもたちの死が贖われているわけではない。その子どもたちは復活したのではなく、死んだままであり、それ以上の祝福と呼ぶのには客観的に見たら疑問だらけであるということを忘れてはならないのだ。

 これまで述べてきたことからすでにお分かりになっていると思うが、ヨブの信仰心を試すために、自分の手を汚さずにサタンの好きなようにやらせたことは、上述したように、善なる神が存在するのにどうしてこの世に悪が絶えないのかということに対する答えのひとつになっているのである。つまり神は悪の存在を潰す力がないのではなく、悪の存在までも、その想定内に入っており、それを容認して、人間を試しているということが見受けられるのだ。これは、イスラム教のアッラーの概念にも若干の違いがあってもあることで、すなわち全ては神の掌にあるということであり、天使も悪魔も人間も、その範疇内にあるということなのである。まさに「仏の掌の内を飛び回る孫悟空」に等しいというわけだ。

 ここまでお読みいただいた皆さんの中には、疑問に思われる方が多いのではなかろうか。それなら「悪」ってなんだ、「善」ってなんなんだ、という疑問を覚えた方もおられるだろう。ようするにそれが、善悪二元論の限界なのである。この考え方では「敵」の存在がなければ自分の存在が引き立たない。敵という存在を永遠に作り続けなければ、自己表現できないというわけだ。これは現代社会における、とある超巨大某国を想起させることだろう。


   3. 悪魔の存在が意味するもの

 ヘブライ語の「サタン」、そのギリシャ語訳の「ディアボロ」は、「敵」あるいは「誘惑者」、「神に背いた堕天使軍団の長」をさす語として扱われることが多い。この「敵」という名前の解釈についてがまず問題となる。それは神の敵なのか、それとも人間の敵なのか、という問題である。サタンに対する最大公約数的なイメージは堕天使であり、神に反逆するものであるから、一般的には「神の敵」となる。ところが上述したように、ヨブ記に登場するサタンと名乗る存在は、神の意志に従って人間に試練を与える存在であるので、神の協力者であるから「神の敵」にはならない。こちらの場合は「人間の敵」というだけの性格が強くなる。

 また別のギリシャ語「ダイモーン」から来た「デーモン」という語も使われるがこちらはもともと「精霊」の意味で、必ずしも悪事を働くわけではなく、ダイナモとかダイナミズムなどという語源にもなっている。「デーモン」は「情熱」にも関係があり、「肉体の悪魔」という意味もある。賭け事にかける情熱を「賭けのデーモン」、中年期の浮気の衝動的な情熱を「南のデーモン」などというらしい。この「情熱」が悪と関係があるのは、神の創造の秩序を破壊し、混沌(カオス)を生じさせる可能性もあるからという見方もできるのである。

 有名な旧約聖書『創世記』では、エデンの園でイヴを誘惑してりんごを食べさせた蛇が悪魔だとされている。この悪魔、サタンとはいったい何者なのか。サタンには「悪魔王」という悪魔を統べる王としての称号・階級的な意味であるとする説と、サタンと呼ばれる悪魔がいるのだという説がある。後者の場合はヨブ記などを見ても判るだろうが、前者には誰がサタンなのか諸説あり、厳密に言えば特定的なことはいえないのだ。

 ユダヤ/キリスト教における『創世記』において、イヴを誘惑した蛇の正体としてまずあがるのは、サマエルである。天地創造の六日目に、神が自分の姿に似せてアダムを創り、天使に崇めるようにといったのを不服として、大天使サマエルが反抗して悪魔になったということで、サマエルをサタンと同一視するようになったとされているのである。これと同じような位置づけで、ルシファーやアザゼルなどがあがる。拡大解釈でキリスト教で異端とされるボゴミール派のサタナエルなどもあがっている。イスラム教でもその構図自体は変わらず、イブリースという悪魔が、悪魔たちの長であるとされている。だがこれら悪魔王とされる者たちには、それぞれ別々の伝説があり、同じ存在へと纏め上げることはできない。それら悪魔王とされる者たちの特徴やそれぞれの伝説については、各悪魔の項を参照されていただくこととして、この項ではもっと根源的な問題について触れることにしよう。

 その根源的な問題というのは、宗教概念としてのユダヤ/キリスト教の中で、悪魔の存在があり続ける本当の理由である。つまり、物語としての聖書の内容を超えた解釈による「悪魔の存在はどうしてあるのか」ということに対する切込みだ。率直に突っ込めば、それは唯一神で創造神であるユダヤの神ヤハウェに、創った世界にはびこる悪の責任を回避させる方法である。

 ヨブ記のみならず、ユダヤ/キリスト教の善悪二元論に言えることであるが、結果論として、神は悪魔の存在を撲滅できる能力がありながら、それをせずに残している。「ヨブ記における神とサタン」で述べたように、悪の存在が残されるのは、神が人間に試練を与えるためだとされ、悪や苦難にも耐えて信仰を守った者は神の栄光の内に迎えられるとされる。もともと悪魔といえども、神の創造物であることは天使や人間と代わりが無いのだから、悪魔たちの思惑がどのようなものであれ、神の許容する範囲でしか人に憑くことはできない。この場合悪魔の概念とはいわば神の、あるいは宗教概念の「設定事項」なのである。

 あるいはもうひとつの解釈として、神は天使が反抗したり、人間が悪魔の誘惑に負けたりする自由を許しているとされる説明がある。こちらは、すべての創造物は神の創造によるものであるが、その中における天使や人間に自由意志を与えており、いわば放任主義的だとする説明だ。そのため人間の行動は基本的に自由
返信する
無駄なものは何ひとつない (滅入り加減)
2014-12-11 10:48:06
 昨日は夕刻に小雨がボツリボツリ
天気予報通り・・・・・感心と言うか
ある程度先が読めてるわけなんだども、
人にわからないだけの話なんだ・・・・・・
ナルホドそういう事なんだね。 
ある現象に遭遇して、その結果
ベンチに腰を下して少し思案し・・・
なろうとは
その挙句が不安要因を持ち越すことに
その流れとしてして今・・・・・・

ではリクエスト ゆーちゅー感謝

アラン・ワッツ~「100%今に生きる」
.
VastStillness

よろしく
返信する
教科書の質から見る未来 (もみ@マヌエラ)
2014-12-11 11:25:40

|・)…

公立中学校と私立中学校の教科書の
比較写真があって、

教科書比較(中学英語)
http://blogs.yahoo.co.jp/momorin710/27528561.html

公立中学校の教科書の場合、
中学3年で 絵本のような 中身の殆ど無い
教科書で
中3としては 英検4級にも満たないレベルを勉強させられている、

これでは 絵本のような本しか読めない人間を量産するだけでなく

頭が大人になっていないままで
生徒を卒業させる事になり

結果 中身の濃い
やや難解なものを「難しい・判らないから価値がない」
と退け
中身の薄い 粗雑なものを「わかりやすいから価値がある」
と判断してしまう大人が量産されるみたい。

これでは公立と私立で 激しい二極化が生じそうばい。
返信する
教科書に漫画 (もみ@あんこ)
2014-12-11 11:36:08

|・)…

ネットだけ見て、
「どうして 日本の文化を漫画とアニメである」
と主張する人が多いのかと思ったのだけど、

教科書に漫画が載っている時代だったんだね|・)…


せんせいのための教科書
http://blogs.yahoo.co.jp/ep80_541kei/GALLERY/show_image.html?id=13609477&no=0

日本人に このような教科書を使用させ、
特定アジアからの留学生には
学費や渡航費まで与え、

日本を衰退させる以外の目的が見えないばい。

もちろん
こういった教科書での学習法しか知らない人に対して、
昭和オカルトを希釈したものを
もったいぶって顕示すれば、
恐らく 非常に特別なものに映ると思われて、
商売としては 旨みがあると言えそうばい。



返信する
勤勉だった日本 (もみ@皮はさまった)
2014-12-11 11:46:18

|・)…

「日本人は勤勉で~」というのは
昭和までの事みたい。

大学に関しては 既によく言われているのだけど、
それだけでなく

チベットの場合
僧は決まった勉強量が課され、
僧になってからが勉強という具合なのだけど、

日本仏教の場合、
僧になるまで勉強して
僧になってからは それほど多く勉強しない、
そして 僧が仏教について話す時も
「自然が~ 調心が~」
というような 漠然とした話題になる、

大学生にしても聖職者にしても
勉強しなければ 衰退に向かってしまうみたい。
返信する
ジヨンは私人だった (あの当時のオイラにわかる筈ナイジャン)
2014-12-11 12:24:41
・・なぜか周りに独り佇んでかれ私人・・・・
詩人は上の空、判らずに彼と知り合いに
あの当時彼と喫茶店でコーヒー飲んでて
彼の蒼ざめた横顔がとても美しく感じた
んだけど、その意味合いすら判らなかった
ね。その彼も、いま母親の看病しつつ我が道
貫き、嫁さん愛想着かして逃げ出して・・・・・ 
そして彼曰く、理想的な生き方は餓死だね。
なんじゃ裸ホイサッサ・・・禁鳥~
 相変わらずジョンのHelpを聴くとかれ涙涙
たぶんオイラより傷ついて生きてることは確か
だとおもうね・・・・・・・尾形亀之助 命
 以下こぴぺ 感謝
「Abbey Road」B面は正真正銘のBeatlesの最後。

Johnはそれをガラクタと言い放つ。
PaulやRingoは最高傑作と胸を張る。

でもJohnの言うとおりだろう。
B面は「Here Comes The Sun」だけが単体としては名曲だった。

でもPaulはもはや避けがたい終末に、
自分たちの最後の輝きを見せるために
未完成曲を寄せ集めのメドレーとして組合せ、
これ以上にない余韻を後世に残した。
偉大なるバンドの幕を降ろすべく。
最後の力を振り絞って。

John曰く、
Paulは作詞に真剣に取り組む事を避けていたと。
実は才能があるのに、、、と。

JohnがPaulの才能を認めていることは紛れもない事実だが、
メロディーを作るその才能に比べ
詞において認めていたのは本当に数える位の作品だった。

事実、Paulの作品で歌詞で
心に残るような感銘を受けたはものは僕も少ない。
ノートに書き留めておくような、
素敵なフレーズはPaulの歌詞には少なかった。

「Eleanor Rigby」にしても「Michelle」にしても
これは?という歌詞には、
何らかの形でJohnや第三者がヒントを与えているものだった。

彼が自力でこなし、
歌詞ではなく「詩」として美しいと思ったのは
「Here, There and Everywhere」
「Fool On The Hill」。

Paulの歌詞のすさまじい所は、
その作品の中の人物像が、街並みや3Dで浮かびあがるみたいな
豊かな描写力である。
要はそういうタイプの音楽家だったという事。

「Golden Slumbers 」~「Carry That Weight」
~「The End」というメドレーはそれぞれが
きっとPaulのメモ書き程度のアイデア、フレーズ。
いつもならばそれにJohnがヒントを与え、一つの作品としただろうに、
もはやJohnは助けなかった(その余裕がなかった)のだろう。
それが結果として珠玉の名作になったとは。

「Golden Slumbers 」でPaulはファンにお別れを言った?
「Carry That Weight」ではJohnと自分自身にBeatles以降の苦難を予言した?

そして最後の最後でPaulは
たった2行だけなのに、
どうしても僕には
忘れることのできないフレーズをとうとう作り上げた。

「The End」より
「And in the end the love you take
  is equal to the love you make
 結局はね、
 君が手にする愛は、
 君が生み出す愛とイコールなんだよ」

これがBeatlesの最後の言葉。

GoergeとJohnにギターソロを弾かせ、
Ringoにめずらしくドラムソロを披露させ、
そしてPaulは万感の思いを込めて上の2行をつぶやく。
壮大なフィナーレだった。
当時、PaulはJohnやGeorgeに置いていかれたような気がしたのだろう。
「ねえ、、John、George、、、結局僕らは何だったんだい?」と言いたかったのだろう。

2002年 東京で僕はPaulのステージを見た。
一人Beatlesに批判はあったものの、
オープニングでスクリーンにサウスポーのベースのシルエットが浮かび上がり、
続いて見慣れたシルエットが僕たちに手を振っている姿は本当に泣けた。

80年、Johnを失い、2001年にGeorgeをまた失った。
2002年のステージで露骨なまでにBeatlesを選曲したのは、
今度は人生の「Abbey Road」、集大成を演奏したかったのだろう。
だってPaulはまたJohnとGeorgeに置いていかれたのだから。
だから最後の「The End」ではもう、、、僕はPaulの顔が見れなかった。
人生の最後の夕暮れを見るような気分だった。

4回に分けて4人を語りながらBeatlesを振り返ってきました。
テーマは「最後」でした。
1曲目「Got My Mind Set on You」はGeorgeの最後のNO.1ヒットであると同時に
Beatlesメンバー最後の現時点でのNO.1ヒット。
2曲目「Good Night」はレノン=マッカートニー最後の二人以外がヴォーカルをとった曲。
そしてLennonの息子ジュリアンへのお別れの言葉、そしてLennonのBeatlesへのお別れの曲ととらえました。
3曲目「Watching The Wheels」はLennonの最後の作品にして、彼の最後の本音だったように聞こえます。
そして4曲目が「The End」。
恥ずかしながら僕のブログの100曲目(メドレーとして)となりました。

間もなく、ロンドンオリンピックの開会式にPaulが立つ。
「Hey Jude」以外に何を歌うのだろうか?
開会式に「The End」はさすがにないだろうけれど、
このメドレーは実はオリンピックにはふさわしいかも。

女王記念式典でのPaulの声の衰えはいささかショックだった。
僕はオリンピックをBeatles、最後のフィナーレとみる。
さあ!Paulよ。最後のBeatlesを見せてくれ。
Ringoは酔っ払ってステージに上がってこい!
JohnとGeorgeは天国から二人でテレビを見て、
「違うよPaul、、、ギターはこうやって弾くんだよ!」って笑って見ていてほしい。
最後の同窓会に。

では甘えて我儘で
ビートルズ
Golden Slumbers &Carry the weigh
訳詞あれば更に満足  よろしくモミさん
返信する
早速のゆーちゆー掲載感謝 (意味深ジャケット)
2014-12-11 12:55:10
遭難だよ もみ皮くん
我々の通常知って居るジャケットは
横断歩道を四人が左から右に渡る写真
このゆーちゅーだと
右から左に渡って裏表 表裏
にして表裏一体

では性器のアビーロード

この曲2曲
贅沢にもリクエスト

あっ子いわく
我儘・・・・・・・笑って許して

では和田あき子の 笑って許しても
   りくえすと  な野田前総~理ぃぃー
     よろしく
返信する
富士五湖を震源とする地震 (もみ@廿日市)
2014-12-11 16:53:20

|・)…

先ほど 富士五湖を震源とする地震があったみたい。

+++++++++++++++

富士五湖でM4.3、最大震度4の地震を観測!
神奈川県西部などが揺れる!
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-4784.html

++++++++++++++++

返信する
アメリカのニュース (もみ@水上バス)
2014-12-11 16:58:18

|・)…

陰謀論サイトのニュースは
嘘ハッタリも混ざっている事も多いので
確認をしなければいけないのだけど、

今日は
アメリカの大手銀行の中で
いわゆる 防災キットが頒布されたというニュースがあって
もし事実であれば
そのようなものが必要となる事態が
予測されているという事になりそうだけど
もみの知り合いに銀行員がいないので
確認できてないばい。

+++++++++

米銀行の全行員に救命袋が支給されます。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51945962.html
返信する

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