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宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「海の魔界」

2015年04月21日 | Weblog




海には 神仙界と蛇界があり、
そのため 地方によっては決まった時期の夜に
蛇界より来たる存在が 海岸沿いの町に来たり
子供を連れてゆこうとするようです。

以下 ネットに投稿されていた体験談のコピペです。

+++++++++++++++++++++++++++++++



自分は子どもの頃から大学に入るまでずっと浜で育ったんだけど、
海辺ならではの不思議な話がいろいろあった。

自分の家はその界隈で一件だけ漁師ではなく、親父は市役所の勤め人だった。
砂浜があって国道があり、その後ろはすぐ山になっていて、
その山の斜面にぽつんぽつんと家が建っていて、浜の中に漁のための小屋があるようなところ。

自分が小学校頃までは、8月の最初の週、
7日の日までは漁師は漁に出ちゃいけないことになっていて、
特に7日の晩から朝までは、子どもは家の外へも出ちゃいけないことになってた。

何でも、沖に『ふだらく様』の舟が来て、外に出ている子どもは引かれてしまうらしい。
こういうのは神隠しとか、普通は女の子が危ないんじゃないかと思うけど、
特に本家筋の跡取りの男の子なんかが危ない、という話だった。

大人達は集落の公民館に集まって朝まで酒飲むし、漁師だから喧嘩もする。
夏休み中の子どもは家でおはぎを食べて早く寝る、という日なんだ。
ただそんな日でも、国道は少ないながらもときたまは車が通ってるわけだし、
世の中が合理的になったのか、自分が中学校になる頃には行われなくなった。

それでもやっぱり、8月7日前後は海で遊んじゃいけないとは言われてたんだけど、
中学校2年の8月6日の日の朝に浜に出て、水死体を発見した。

岩場になってるところを歩いていて、外国のブイなんかの漂着物を探していたら、
海中2mくらいのとこに人のお尻が見える。
慌てて大人を呼んだ・・・。

引き上げられたのは近くに帰省してた大学生だった。
波で海パンが脱げて、頭を下にして沈んでた。

その前日の午後には亡くなってたのだろうと、来た警察の人が言っていた。
自分がまだ当時健在だった爺ちゃんに、『ふだらく様』と水死した人は何か関係があるのか聞くと、
「関係あるかもしれないね、ふだらく様は男が好きだから」という話。

その出来事で、自分は子どもながらも凄くショックを受けたんだけど、
次の日が8月7日で本来の忌み日に、ちょうどテレビで怪談特集とかやってて、
自分は見ないで早く寝た。
けど早く寝すぎて、夜中の2時過ぎ頃トイレに起きてしまった。

その頃は実家も改築する前で、家の外にボットントイレがある状態。
トイレは山側なので浜を見ることはないけど、まだ暗い夏の闇の中を裏戸から出て歩いていると、
沖の方から「ドン、ドン」と太鼓を叩くような音がかすかに聞こえてくる。
自分はその時、「これはふだらく様だから見にいっちゃいけない」、と思った。

だけど・・・自分は馬鹿だから見に行ってしまったんだよ。

そしたら、国道を挟んで沖の方に、板屋根のついた昔の小さな舟が浮かんでいる。
距離感がよくわからない。
本来沖は真っ暗で見えるはずがないんだけど、赤い光がその舟を包んだようになってて見えるんだな。

沖は波が荒いのか舟は上下に浮き沈みしてて、よく見ると舟には何本か鳥居がついている。
太鼓の音も小さく聞こえていて、自分を呼んでいるような気がする。
しばらく見てるうちにぼうっとしてきて、浜の方に歩き出そうとした。
そのとき、国道を大きな音をたてて大型トラックが通って、目が覚めたようになった。
もう一度見たら沖の舟は消えていた。
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はりえんじゅ (みずかみかずよ全詩集)
2015-04-21 00:18:35
            はりえんじゅ

地の底の暗闇から
せいいっぱい
生気をみたした
公園のすみの
はりえんじゅの木

みえないところで
ふるいたち
毛根のさきのさきまで
ふりしぼった力で
どれほどの歳月を
耐えたであろう

拍手するのは


やすらかに
はれやかに
心を
そよがせる
公園のすみの
はりえんじゅの木よ

  石風社   いのち  みずかみかずよ全詩集
返信する
桃と柳 (もみ@寧陽)
2015-04-21 08:19:38

|・)…

家相では

陽木=庭に植えると縁起がいい
陰木=庭に植えると縁起が悪い

と分類されていて、

大陸では 桃は陽の霊木
       柳は陰の霊木

とされていて 日本の家相と共通、

また大陸では
桃や柳の木の枝を 煮炊きの為の薪に使用してはいけないとされているみたい。

返信する
でじゃヴュ (既視感)
2015-04-21 08:49:29
 もしかしたら生きてる事が既に感覚的に視てる
ものなのかも。幻覚とは少し違うね。夕暮れと
いっても明るい日差しが差し込む林道の中で
視た幻影。その瞬間は実在なんだけど、実はデジャヴュ
って気づいた瞬間なんともいえない気持ちになるね。
 今でもその光景は鮮明に脳裏に焼きついている。
三面記事の中の日常、これとても見方を変えれば
実は既視感的遭遇をしているのかも。
 以下ウイッキ こぴぺ 感謝
             
             既視感

既視感(きしかん)は、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることである。フランス語 "déjà-vu"[† 1]よりデジャヴュ、フランス語由来の英語 "déjà vu"[† 2]よりデジャヴまたはデジャブなどとも呼ばれる。

フランス語の vu (「見る」を意味する動詞 voir の過去分詞)、および、訳語の「視」は、いずれも視覚を意味するものであるが、聴覚、触覚など視覚以外の要素もここでいう「体験」のうちに含まれる。

既視感と逆に、見慣れたはずのものが未知のものに感じられることを「未視感」という。フランス語 "jamais vu"[† 3][† 4]より「ジャメヴュ」「ジャメヴ」「ジャメブ」とも呼ばれる。

概要[編集]

一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多い。過去の体験は夢に属するものであると考えられるが、多くの場合、既視感は過去に実際に体験したという確固たる感覚があり、夢や単なる物忘れとは異なる。

過去の文学作品においても言及が見られ、近年現れ始めた現象ではないことを示している。一般大学生の72%が経験しているという調査結果がある[1]。記憶喪失や夢などのギミックと組み合わせて、物語の伏線として利用されることもある。

歴史[編集]

déjà vu という語は、超能力研究をしていたフランスの超心理学者エミール・ブワラック(英語版)がシカゴ大学在学中に執筆した『超心理学の将来』(L'Avenir des sciences psychiques, 1917年)の中で提唱されている。

説明の試み[編集]

この現象を説明しようとする試みが多数ある。

既視感は、統合失調症の発病初期段階の人や、側頭葉てんかん症状を持つ人に現れることも一部でありはするが、かといって既視感全般を精神疾患に結びつけて説明しようとするのは無理がある。既視感は健全な人に多発することも稀ではなく、健常人が持っている、ごく一般的な感覚である。すでに言及したように、一般大学生の72%が経験しているという調査結果もある[1]。

フロイト[編集]

ジークムント・フロイトはPsychopathologie de la vie quotidienne 『日常生活の精神病理学』(1901年)において、デジャヴというのは既に見た夢なのだ、とした。同著では、以前見た夢がよみがえったのだが、無意識のうちに見たものだから意識的には思い出すことができないものなのだ、とした。

超心理学[編集]

超心理学的な見方を好む者などでは、しばしば予知夢と関連づけて考察することがある。

だが「実際にはそうした夢すら見ていない場合が多く、別の内容である場合も多い[要出典]」とする批判、また「体験するのと同時に、過去に同じ体験を夢で見たという記憶を作り上げ、その場合でも夢を見たと感じるためだ[要出典]」という批判もある。

心理学・脳神経学など[編集]

20世紀末から、既視感は心理学や脳神経学的研究対象として注目された。しかし、実験で既視感を再現することは非常に困難であるため、実験を通しての研究法は確立していない。

これらの領域では、既視感は予知・予言ではなく、「記憶が呼び覚まされるような強い印象を与える記憶異常[要出典]」と考えられている。

ほとんどのケースではその瞬間の記憶のみが強く、その記憶を体験した状況(いつ、どこで、など)についてははっきりしないことが多い。同様に時間の経過により、既視感の経験自体が落ち着かない経験として強く記憶に残り、既視感を引き起こした事象や状況の記憶はほとんど残らない。これは「短期記憶と長期記憶の重なり合いが原因[要出典]」と考えられている。体験している事象は、脳の意識的に働いている部分が情報を受け取る前に記憶に蓄えられ、処理されるからである。

他の視覚に関連づけた説明もある。「片目がもう片方の目よりわずかに早く見た部分的な視覚が記憶され、ミリ秒後にもう片方の目で見た、同じ光景が強い既視感を引き起こす[要出典]」というものである。しかしこの説明では、既視感のきっかけが聴覚によるものや指先によるものである場合を説明できない。また、隻眼の者も既視感を経験することが報告されており、これも説明できない。

「人間の感覚から神経を通ってきた信号が、脳内で認識し記憶される段階で、脳内で認識される作業以前に、別ルートを通り記憶として直接脳内に記憶として蓄えられ、脳が認識をした段階で、既に記憶として存在するという事実を再認識することによりおこる現象ではないか[要出典]」とする説がある[誰?]。

既視感を題材とした作品[編集]
ポストの中の明日 - 藤子・F・不二雄のSF短編で、主人公が明日の新聞を見る。
マトリックス - 作品中、バグ(黒猫の登場する場面)として登場する。
デジャヴ(2006年のアメリカ映画)
時をかける少女
涼宮ハルヒの憂鬱
STEINS;GATE 線形拘束のフェノグラム および 負荷領域のデジャヴ(劇場版)
パノラマ島奇談 - 江戸川乱歩の中編小説。
返信する
黄昏時のビジョン (もみ@漢陽)
2015-04-21 09:00:16

|・)…

何か奇しきビジョンを与えられたのばい|・)?

古神道でも 大陸でも
桃の木の皮を 穢れや陰気の祓いに使用するのが共通で

天人が地上に降りて
地上の穢れを受けた際、
桃の木の皮を入れた湯で体を流して清めるとされ、

人間であっても
桃の木の皮を入れた湯で体を流せば
簡単な清め・祓いになりそうばい。
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