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|妖術師の館|
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…本日は沐浴日であります。
昼間に沐浴するのでありますが、
この妖術師の館で
今日は 魔女の祝福を受ける儀式を行いましょう。」
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…魔女の聖水の作り方は 以前掲載させて頂きました。
そして祝福を受ける儀式とは つまり加持を受ける儀式でありますので、
魔女として成長するために 欠かせないものであります。」
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…この儀式は グループで行うものを 個人で行えるようにアレンジしたもので
自分に聖水を塗って祈る事になります。」
(大 物 主)
( `m´)つ(抗日水)
|・) どうして 目線を感じるんだろう。
(大 物 主)
( `m´)つ(抗日水) |・)!
|・)=3 抗日加持を授けようとするない!
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…祭壇などの準備を終えます。
また太母に捧げる 飲食も用意します。」
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…聖水を指にとって 両足に塗って誦します。」
「これらの道に汝を運ぶため 両足に祝福あれ。」
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…聖水を指にとって 両膝に塗って誦します。」
「聖なる祭壇にひざまずくため 両膝に祝福あれ。」
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…もし女性の場合
聖水を子宮の部分に塗って誦します。」
「我ら ここにかつてあらざる者なければ 胎に祝福あれ。」
ζ~( `m´)~ζ「…聖水を胸にとって 両胸に塗って誦します。」
「美を形作る 両胸に祝福あれ。」
ζ~( `m´)~ζ「…聖水を指にとって 唇に塗って誦します。」
「聖名のもとにあるため 唇に祝福あれ。」
「我に秘なる道を開きたまえ
智の通り道
昼と夜の門を越え
時と感覚の諸縛を越え
見よ 神秘の厳然たるをして
五真のそれぞれを分かち合わん。」
「我 呼び求めん
おお 空の妃
おお 永久に在します天空における絶え間なき光の宝石よ
もろびと 汝を無とすれど
汝を一として語る者なし
汝の 途切るる事なくまします爾来
汝の一切を語らせたまわざりき
汝 我があがむ この魔法円の内側の一所にてまします
この生命の一所 我 ある事あたわざらん
この様式は真にして 聖なる二柱 屹立せん
神秘と人類の栄光のため
美と強のうちに屹立せん。」
「おお 最奥の秘の妃よ、
これらの飲食(おんじき)と 我らの肉体を祝福したまえ
そして○○(自分が欲するもの 喜び・和平・福徳・敬愛・寿徳・健康など 複数可)を
授けたまえ。」
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…杯に入った飲み物の中に 短剣を差し込んで誦します。」
「この短剣は男にして 杯は女、
結合し 真理のうちに一となれり。」
(ネオ・バベッタ)
ζ~( `m´)~ζ「…女神に捧げた 飲食を頂いて 女神の加持力を受けます。
そして 最初の聖水を塗る祝福を繰り返して 儀式を終えます。」
(大 物 主)
( `m´) 「…祭壇と 魔法円を準備した。
それでは 太母を召喚するのである。」
(伊邪那美命)
ζ~( `m´)~ζつ|ガラッ
(伊邪那美命)
ζ~( `m´)~ζ 「…召喚の祈りに答えて やって来ました。
それでは 月の祝福を受けなさい…」
|・) 抗日夫人である事 バレてるもん。
(伊邪那美命)
ζ~( `m´)~ζ 「…何を言いますか
それでは 魔女のワインとパンを食し、
魔女として成長できるように願いなさい…」
|ミ サッ
(大 物 主)
| (`m´ ) 「娘! カミさんが持ってきた抗日ワインと 抗日パンを食さないか!!!!!」
その瞬時瞬間・・・・・と哲学者の故・池田女史は
生前おっしゃられておられたようだ。
今今今 その一瞬の瞬き・・・この瞬間を掴めるんだ
ろうか?
以下こぴぺ 感謝
2011年3月28日月曜日
池田晶子さんの遺した言葉
哲学者の池田晶子さん(2007年没)が13年前に新聞で述べたことが、驚くほどいまのわれわれに当てはまり、考えさせられる。少し長くなるが、引いてみよう。
〈現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。
現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。
地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。
ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。
政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。
国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。
世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。
税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。
むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。
だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。
問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。
(中略)
半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。
制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。〉(読売新聞、1998年4月1日より)
投稿者 浮田泰幸 時刻: 23:28
|・)…
カトリック教の教義では
司祭がミサの中で
信仰心を込めて パンとワインに祝福を与える事で
それらが 真のキリストの肉と血に変化する、
しかし もし司祭が信仰心を持たず
形式として祝福を与えるだけならば
それらは 血と肉に変化せず ただのパンとワインのままであるとされていて、
魔女のパンとワインも同じく
祈りや信仰心もなく 形式としてただ儀礼を行うならば
それは魔女の聖餐にはならないと思われるばい。