大乗経典の いずれの経文でも
誦したり 書写したり
聴いたり 他者に教えたりする事で
十種の功徳が得られるとされます。
以下 「聖法印経」です。
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「聞如是(もんにょぜ)
一時仏在(いちじぶつざい)
舎衛国(しゃえいこく)
祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)
是時仏告諸比丘(ぜじぶっごしょびく)
聴(ちょう)
諸比丘(しょびく)
唯諾受教(ゆいだくじゅきょう)
仏言(ぶつごん)
当為汝説聖法印(とういにょせつしょうほういん)
所応威儀(しょのういぎ)
現清浄行(げんしょうじょうぎょう)
諦聴(たいちょう)
善思念之(ぜんしねんし)
仏言(ぶつごん)
比丘(びく)
假使有人(かしうにん)
説不求空(せつふぐくう)
不用無想(ふようむそう)
欲使興発至不自大禅定之業(よくしきょうほつしふじだいぜんじょうしごう)
未之有也(みしうや)
設使有人(せつしうにん)
慕楽空法(ぼらくくうほう)
志在無想(しざいむそう)
興発至要(きょうほつしよう)
消除自大驕慢之心(しょうじょじだいきょうまんししん)
禅定之業此可致矣(ぜんじょうしごうしかちい)
輒如道願(ちょうにょどうがん)
普有所見(ふうしょけん)
所以者何(しょにしゃか)
慕楽於空(ぼらくのくう)
欲得無想(よくとくむそう)
無慢自大見(むまんじだいけん)
於慧業皆可致矣(のえごうかいかちい)
何謂比丘聖法印者(かいびくしょうほういんしゃ)
其聖法印(ごしょうほういん)
所可更習(しょかこうしゅう)
至清浄見(ししょうじょうけん)
假使比丘(かしびく)
処於閑居(しょのかんきょ)
若坐樹下空閑之処(にゃくざじゅかくうかんししょ)
解色無常(げしきむじょう)
見色本無(けんしきほんむ)
已解無常(ちげむじょう)
解至空無(げしくうむ)
皆為きょう惚(かいいきょうこつ)
無我(むが)
無欲心則休息(むよくしんそくきゅうそく)
自然清浄而得解脱(じねんしょうじょうにとくげだつ)
是名曰空(ぜみょうわつくう)
尚未得捨驕慢自大(しょうみとくしゃきょうまんじだい)
禅定清浄所見業也(ぜんじょうしょうじょうしょけんごうや)
雖爾得致柔順之定(すいにとくちじゅうじゅんしじょう)
即時輒見除諸色想(そくじちょうけんじょしょしきそう)
声想(しょうそう)
香想(こうそう)
以故謂言至於無想(にこいごんしのむそう)
故曰無欲(こわつむよく)
尚未得消自大驕慢(しょうみとくしょうじだいきょうまん)
至於禅定清浄見也(しのぜんじょうしょうじょうけんや)
其心続存柔順之定(ごしんぞくぞんじゅうじゅんしじょう)
彼則見除所有貪婬瞋恚愚癡(ひそくけんじょしょうとんいんじんいぐち)
是故名曰無欲之定(ぜこみょうわつむよくしじょう)
尚未得除自大驕慢(しょうみとくじょじだいきょうまん)
至於禅定清浄見也(しのぜんじょうしょうじょうけんや)
心自念言(しんじねんご)
吾我起滅(ごかきめつ)
従何所興(じゅうかしょきょう)
思惟解知(しゆいげち)
其吾我者(ごごがしゃ)
所因習味分別諸識(しょいんしゅうみふんべつしょしき)
皆従因縁而致此業(かいじゅういんねんにちしごう)
従是因縁致有神識(じゅうぜいんねんちうじんしき)
復自念言(ぶじねんご)
此諸因縁(ししょいんねん)
為有常乎為無常耶(いうじょうこいむじょうや)
復自念言(ぶじねんご)
因縁所合致神識者(いんねんしょごうちじんしきしゃ)
此皆無常(しかいむじょう)
無有根本(むうこんぽん)
此神識者(しじんしきしゃ)
依猗無常而有妄想(えいむじょうにうもうそう)
故有縁起十二因也(こうえんきじゅうにいんや)
皆帰於尽(かいきのじん)
無常(むじょう)
苦(く)
空(くう)
毀壊(きかい)
別離(べつり)
離欲(りよく)
滅尽(めつじん)
暁了是者(ぎょうりょうぜしゃ)
乃知無本(ないちむほん)
得至降伏(とくしごうぶく)
消一切起(しょういっさいき)
得入道行(とくにゅうどうぎょう)
是乃逮致除於自大無慢放逸(ぜないたいちじょのじだいむまんほういつ)
禅定之業(ぜんじょうしごう)
現清浄行(げんしょうじょうぎょう)
是則名曰由聖法印(ぜそくみょうわつゆしょうほういん)
清浄之業(しょうじょうしごう)
従始至終(じゅうししじゅう)
究竟本末(くきょうほんまつ)
仏説如是(ぶっせつにょぜ)
諸比丘聞莫不歓喜(しょびくもんまくふかんき)
作礼而去(さらいにきょ)。」