12年前のあの日、あの時間、どこで何をしていましたか?
ねえねは、まだ、布団の中でした。
しかし、不思議なもんで、あの地震が発生する直前に、目が覚めました。
そして、あの時間。。。
“ゴー”という音の数十秒後に、“ガタガタガタガタガタガタガタガタ・・・”と、どのくらい揺れたのでしょうか?全くわからないくらい、長く、とてつもなく長く、恐ろしい時間でした。
布団の中で、天国のじいじに、
『じいじ、ごめんなさい。。。揺れを止めてください。。。怖いよ。。。南無阿弥陀仏。。。』とお願いしている自分がいました。
震源地は京都だ!と思うくらい、今まで生きてきた中で、感じたことのない揺れでした。
“ハッ”と我に返ってテレビをつけてみると、毎朝見ている番組のアナウンサーが、
『今、かなり大きな揺れを感じました!皆さん!落ち着いてください!火を使っておられる方は、火を消してください!』と、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返しいっていました。
気付けば、テレビは、ライトが壊れたのか?停電の影響か?真っ暗な中で、アナウンサーが必死で、言葉をいい続けていました。
そして、次第に、震源地の情報、窓ガラスが割れた映像などをみて、心臓がドキドキし、怖い。。。と改めて感じてしまいました。
しかし、仕事に行くにも電車やバスはマヒ状態。
ねえねは、原チャリで園に向かいました。
いつもより早く家を出ましたが、どの道も交通マヒの影響や余震の揺れでノロノロ運転状態。
しかも、余震で、ねえねの原チャリもハンドルをとられて、必死でした。
何度も、宇治川の堤防から落ちそうにもなりました。
そのとき、電柱が大揺れし、電線がビュンビュンと揺れていたのを鮮明に覚えています。
園には、なんとか到着したものの、登園してくる園児を受け入れながら、だんだんと被害の大きさがテレビの映像に映し出されている様子を保護者から聞き、特に、神戸の街がすごいことになっている!ことを知りました。
おうちに帰って、テレビを見て愕然としました。
阪神高速を走っていたバスが、宙ぶらりんで止まっている様子。
長田の街が真っ赤な火につつまれている様子。
神戸の知っているビルが、崩れている様子。
線路がグニャグニャに曲がっている様子。などなど。。。
しかし、ねえねは、その日の映像だけではなく、その後、毎日映し出される街の様子に涙してしまいました。
何日も燃え続ける火をどうすることもできず、泣き叫ぶ人。
がれきの中で、必死に何かを探す人々。
避難所で過ごす人々。
グニャグニャの線路を歩いてボランティアに向かう人々。
臨時の公衆電話に並んでいる人々。
ここには、全て書ききれないくらいたくさんの映像を見てきました。
しかし、ねえねは、募金をすることしか、その時はできなかったのです。
人間て情けない。。。いや、ねえね自身が情けない。。。
毎日、毎日、そう思っていました。
何かしなきゃ!何かできないかな?と。。。
3月頃には、施設が壊れてしまったために保育ができないの子どもたちを集めた青空保育の話も聞いていたのですが、自分の園の保育を疎かにもできず、結局、何もできませんでした。
震災から数ヶ月程たったそんなときに、震災を取り上げた番組で、
『避難所にいても、いつ、どこで、何が配られるかわからない!』と訴えている人の特集をしていました。
その方は、聴覚障害の方で、見た目ではわからず、ましてや、もともと、ご近所付き合いも少なく、周りにいる人たちも、気にもとめていなかったようでした。
救援物資が届いた案内は、その都度、放送が主だったようで、その方は、何日もご飯を食べていないこともあったそうです。
『何で!』『ひどい話や!』とねえねは、どうしようもないモヤモヤが爆発してしまいました。
そして、やっと、特別なことをするんじゃなくって、ねえねができることをやったらいいんや!と強く思い、6月に“市民手話教室”に参加しました。
実際に、一人で参加することはとても勇気がいりました。
でも、手話を覚えようとする前に、聴覚障害の方々を知ることが大切なんだということを学びました。
手話は、ろうあの方々の言葉でもありますが、実際、手話がなくても筆談で話そうと思えば話もできるし、ゆっくり、表情をつければ、こちらも相手も会話をすることができる!
よく考えたら、どの人と話する時だってそうなのに、やっぱり、手話がなければ話ができない!と思い込んでいた自分にも気付かされました。
でも、手話教室に参加し、ろうあの方々と知り合いになり、引き続き、サークルに入って、たくさんの仲間のできました。
あの頃は、日常で、ろうあの方が必要とされている時に、手話でお話ができれば・・・と思っていましたが、やっぱり、手話通訳士の普及も必要なんだと感じてもいます。
ねえねは、今、ろうあの方や手話と疎遠になってきています。
時々、ジョンとお散歩をしているときに出会うろうあの友達くらいにしか手話を使いません。
実際は、彼の口話を読み取ったり、彼の発する声を頼りにしていることの方が多く、ねえね自身も手話というより、ゼスチャーになっています。。。(反省)
今日という日は、ねえねにとっても、そういった自分を振り返る日にしていかなければいけないんじゃないのかな?と思います。
今でも、神戸のメリケンパークには、震災の日の、あの頃のままの姿を残した場所があります。
何度いっても、胸が苦しくなり、手を合わせずにはいられません。。。
街は、形を変えて、復興しているように思えますが、本当の復興は、まだまだ先のような気がします。
ねえねは、これからも、ねえねができることをしていくのみです!
今年もはるかのひまわりを咲かせたいなぁ。
最後になりましたが、阪神・淡路大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
ねえねは、まだ、布団の中でした。
しかし、不思議なもんで、あの地震が発生する直前に、目が覚めました。
そして、あの時間。。。
“ゴー”という音の数十秒後に、“ガタガタガタガタガタガタガタガタ・・・”と、どのくらい揺れたのでしょうか?全くわからないくらい、長く、とてつもなく長く、恐ろしい時間でした。
布団の中で、天国のじいじに、
『じいじ、ごめんなさい。。。揺れを止めてください。。。怖いよ。。。南無阿弥陀仏。。。』とお願いしている自分がいました。
震源地は京都だ!と思うくらい、今まで生きてきた中で、感じたことのない揺れでした。
“ハッ”と我に返ってテレビをつけてみると、毎朝見ている番組のアナウンサーが、
『今、かなり大きな揺れを感じました!皆さん!落ち着いてください!火を使っておられる方は、火を消してください!』と、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返しいっていました。
気付けば、テレビは、ライトが壊れたのか?停電の影響か?真っ暗な中で、アナウンサーが必死で、言葉をいい続けていました。
そして、次第に、震源地の情報、窓ガラスが割れた映像などをみて、心臓がドキドキし、怖い。。。と改めて感じてしまいました。
しかし、仕事に行くにも電車やバスはマヒ状態。
ねえねは、原チャリで園に向かいました。
いつもより早く家を出ましたが、どの道も交通マヒの影響や余震の揺れでノロノロ運転状態。
しかも、余震で、ねえねの原チャリもハンドルをとられて、必死でした。
何度も、宇治川の堤防から落ちそうにもなりました。
そのとき、電柱が大揺れし、電線がビュンビュンと揺れていたのを鮮明に覚えています。
園には、なんとか到着したものの、登園してくる園児を受け入れながら、だんだんと被害の大きさがテレビの映像に映し出されている様子を保護者から聞き、特に、神戸の街がすごいことになっている!ことを知りました。
おうちに帰って、テレビを見て愕然としました。
阪神高速を走っていたバスが、宙ぶらりんで止まっている様子。
長田の街が真っ赤な火につつまれている様子。
神戸の知っているビルが、崩れている様子。
線路がグニャグニャに曲がっている様子。などなど。。。
しかし、ねえねは、その日の映像だけではなく、その後、毎日映し出される街の様子に涙してしまいました。
何日も燃え続ける火をどうすることもできず、泣き叫ぶ人。
がれきの中で、必死に何かを探す人々。
避難所で過ごす人々。
グニャグニャの線路を歩いてボランティアに向かう人々。
臨時の公衆電話に並んでいる人々。
ここには、全て書ききれないくらいたくさんの映像を見てきました。
しかし、ねえねは、募金をすることしか、その時はできなかったのです。
人間て情けない。。。いや、ねえね自身が情けない。。。
毎日、毎日、そう思っていました。
何かしなきゃ!何かできないかな?と。。。
3月頃には、施設が壊れてしまったために保育ができないの子どもたちを集めた青空保育の話も聞いていたのですが、自分の園の保育を疎かにもできず、結局、何もできませんでした。
震災から数ヶ月程たったそんなときに、震災を取り上げた番組で、
『避難所にいても、いつ、どこで、何が配られるかわからない!』と訴えている人の特集をしていました。
その方は、聴覚障害の方で、見た目ではわからず、ましてや、もともと、ご近所付き合いも少なく、周りにいる人たちも、気にもとめていなかったようでした。
救援物資が届いた案内は、その都度、放送が主だったようで、その方は、何日もご飯を食べていないこともあったそうです。
『何で!』『ひどい話や!』とねえねは、どうしようもないモヤモヤが爆発してしまいました。
そして、やっと、特別なことをするんじゃなくって、ねえねができることをやったらいいんや!と強く思い、6月に“市民手話教室”に参加しました。
実際に、一人で参加することはとても勇気がいりました。
でも、手話を覚えようとする前に、聴覚障害の方々を知ることが大切なんだということを学びました。
手話は、ろうあの方々の言葉でもありますが、実際、手話がなくても筆談で話そうと思えば話もできるし、ゆっくり、表情をつければ、こちらも相手も会話をすることができる!
よく考えたら、どの人と話する時だってそうなのに、やっぱり、手話がなければ話ができない!と思い込んでいた自分にも気付かされました。
でも、手話教室に参加し、ろうあの方々と知り合いになり、引き続き、サークルに入って、たくさんの仲間のできました。
あの頃は、日常で、ろうあの方が必要とされている時に、手話でお話ができれば・・・と思っていましたが、やっぱり、手話通訳士の普及も必要なんだと感じてもいます。
ねえねは、今、ろうあの方や手話と疎遠になってきています。
時々、ジョンとお散歩をしているときに出会うろうあの友達くらいにしか手話を使いません。
実際は、彼の口話を読み取ったり、彼の発する声を頼りにしていることの方が多く、ねえね自身も手話というより、ゼスチャーになっています。。。(反省)
今日という日は、ねえねにとっても、そういった自分を振り返る日にしていかなければいけないんじゃないのかな?と思います。
今でも、神戸のメリケンパークには、震災の日の、あの頃のままの姿を残した場所があります。
何度いっても、胸が苦しくなり、手を合わせずにはいられません。。。
街は、形を変えて、復興しているように思えますが、本当の復興は、まだまだ先のような気がします。
ねえねは、これからも、ねえねができることをしていくのみです!
今年もはるかのひまわりを咲かせたいなぁ。
最後になりましたが、阪神・淡路大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。