やっとで『サングラハ』誌の版下をアップしました!
疲れたー…とかいうところなのでしょうが、あまり疲れていません。
今回も大井玄先生、岡野守也主幹の記事ともすごい内容です。
体裁はともかく、内容はそんじょそこらの雑誌には楽勝です。
こういうことを、もちっと若い頃に学びたかったですね。
ご紹介したいが時間なし。とにかく人間ってのはすごい存在なのだなと思いました。つまり私・あなたが、ですね。臨床的・科学的根拠をもって。
めくるめくごとき、多重人格の症例と、それから宇宙の歴史のつみかさね。
あとこの作業をやっている内に好きになった歌が「露営の歌」…自分は右翼じゃ、ないと思うんだ多分。
感傷的なメロディーがいいですね。でも歌詞はやばいです。
「夢にでてきた 父上に 死んで帰れと 励まされ
醒めて睨むは 敵の空」
「はげまされ」 …「死んで帰れ」と?
そりゃないぜ父上。
60年前の常識は、今のわれわれの常識とは、ずいぶん違っているようです。
しかしこの歌、歌詞は新聞社が一般公募して、大ヒットしてオールスターが歌ったんだとか。
よくこういうのはタテマエにすぎなかった、民衆は軍部にそそのかされ強制され出征した、とか聞きますが、うーむ、どうもそうは思えなくなってきました。
イスラームの人がいま自爆テロで本気で命を捨てているように、われわれのご先祖もそうとう本気だったのでは。
それはともかくもう寝なければなりません。
お読みいただきありがとうございました
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疲れたー…とかいうところなのでしょうが、あまり疲れていません。
今回も大井玄先生、岡野守也主幹の記事ともすごい内容です。
体裁はともかく、内容はそんじょそこらの雑誌には楽勝です。
こういうことを、もちっと若い頃に学びたかったですね。
ご紹介したいが時間なし。とにかく人間ってのはすごい存在なのだなと思いました。つまり私・あなたが、ですね。臨床的・科学的根拠をもって。
めくるめくごとき、多重人格の症例と、それから宇宙の歴史のつみかさね。
あとこの作業をやっている内に好きになった歌が「露営の歌」…自分は右翼じゃ、ないと思うんだ多分。
感傷的なメロディーがいいですね。でも歌詞はやばいです。
「夢にでてきた 父上に 死んで帰れと 励まされ
醒めて睨むは 敵の空」
「はげまされ」 …「死んで帰れ」と?
そりゃないぜ父上。
60年前の常識は、今のわれわれの常識とは、ずいぶん違っているようです。
しかしこの歌、歌詞は新聞社が一般公募して、大ヒットしてオールスターが歌ったんだとか。
よくこういうのはタテマエにすぎなかった、民衆は軍部にそそのかされ強制され出征した、とか聞きますが、うーむ、どうもそうは思えなくなってきました。
イスラームの人がいま自爆テロで本気で命を捨てているように、われわれのご先祖もそうとう本気だったのでは。
それはともかくもう寝なければなりません。
お読みいただきありがとうございました
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私たちも含む人間はいろいろな意味ですごい存在ですね。
プラスのほうに向かってすごくなりましょう。
軍歌の魅力は、大きなものに向かっての献身の勇壮な美しさにあると思います。
問題は、その大きなものがどのくらい大きいかということでしょう。
私たちは、もっとも大きなもの・コスモスの進化の流れに参加しましょう。
日常気づきにくくなっていますが、人間というのは人間であるというだけの基本のところも、そして成長に限界がないという可能性のところも、学んだとおりすごい存在なのだと思います。
で、学んだからにはそれはやはり自他においてそれを実現させていきたいものです。そういう視点からすると、日常いかに流されて生きているかがわかりますね。
軍歌についてはちょっとお恥ずかしいところです。流されると、ついそういう安易なほうに行ってしまいます。
これらには、たしかに感情を揺さぶるというか、ある種の魅力があるように思います。
そういう勇壮な大きなものへの献身というのは、いろんな意味でそういうものを見いだせず大人になりきれない部分をかかえた自分(そして多分自分たちの世代)には、なんだか高貴なものに思えるものです。
しかしあの戦争のあまりにも無惨な結果を考えると、もちろん手放しで賛美することなどできません。
そういう聴き方で聴けば、むしろ忌まわしい歴史の産物ともいえると思います。ふつうにはそう聴かれていると思います。
志と罪悪のあまりの落差、そここそが、私たち日本人にとっての積年の難問なのだと思われます。
で、軍歌ですが、やはり美しさがあるにしても、あまりにも“死”が横溢していて息苦しく、もはやぼくらがそこに還ることはできないと思いました。
あの厳しい時代のこれらの歌のテーマは、ひたすら「何のために、どう死ぬか」ということだったようです。
たしかに命をかけた献身というのは美しいけれども、それが目指した帝国日本の拡張=東洋平和は、今の眼から見ればひじょうに独善的で視野の狭いものであったといわざるを得ないのでしょう。
それはかなりの程度、不正義の戦争だったと思います。
現代に生きるぼくらは、たぶん今後そんなことのために死へと追いやられることもないし、科学にもとづいた大きな流れ=コスモロジーをベースにした文化への進化への献身という道筋が与えられて、とても幸福な世代だと思います。
もちろんコスモスの全体性への献身がそういった独善・排他・敵意につながらないよう気をつける必要があると思います。それに乗れない人を裁いたりすることのないように。
あの戦争がぼくらに教えてくれるものがあったとすれば、まさにそれだったのではないかと思います。
編集作業、大変お疲れ様でした。
それはそうと、軍曹さんの記事を読んで、なんだか私まで軍歌を聴きたくなってしまいましたよ・・・(笑)
エゴを超えた、大いなるものへの献身。時に戦争ドラマが美しく感じられるのはそういうことだったんですね・・・
上記のコメントといい、見事な批評に舌を巻きました。
あの時代の戦争を、安易なヒューマニズムや人権思想の視点で否定し去るのはたやすいこと。
ですが、なんと言っても、私たちは多くのご先祖方の犠牲の上に生かされていることを忘れてはいけませんよね・・・。
散っていった方々に感謝こそすれ、侮蔑することなどもってのほか。
そうした多くの犠牲の上であぐらをかく現代人の体たらく・・・
「憂国の士」と呼ばれる人たちが、当時は今よりはるかに多かったのだと思います。今はそんな言葉自体死語ですが・・・
それは偏狭な国粋主義に立ったものかもしれませんが、少なくとも個人のエゴを超えたものであったはず。
これからはコスモロジーという装いを新たに、国を憂い、世界を憂い、人類を憂い、可能なかぎりのベターな実行をしていく。憂いは菩薩の慈悲につながる。コスモロジーは智慧。智慧と慈悲、全てが円環。こうありたいものです。現状、かなりかけ離れた生活をしとりますが・・・。
戦争をしなくてもいい時代。
本当にわれわれは幸せだと思います。
あ、ハンドルネーム、今回変えてみましたが、前回は単車男です。
取り留めのない文章にて失礼をしました。
○車男系はちょっと古かったかもしれませんが、しかしただの無機質な箱みたいな電車などではなく、男ならやっぱり重さ60トン・1500馬力の戦車とか、転んだら命懸けのブコツな単車とかで行きたいですよね。え、違う?…
まあそれはそれ、軍歌、熱くていいですよ~。『同期の桜』、カラオケで歌いたくなりました。でもぜったいに歌ってはなりませんね。確実にあぶない人だと思われますから…
思うにこういうのに惹かれてしまう心性というのは、発達の過程の何か足りなかったものをいまになって埋め合わせようとしているもののような気が、わがことながらします。たんなる趣味に過ぎないのかもしれませんが…
ちょっと照れくさいので自分たちの世代に一般化して言うと、ぼくらは理性的で民主主義的で世界市民的な個人であるべく育てられて育ってきたわけで、それはその限りではもちろん正しい教育目標だと思うのですが、しか
しそれはよつて立つ基盤がかなり軟弱なものだったように思います。
その基盤というのは、まず仲間に互してやっていける「力のある自分」という感覚です。昔の子は子ども社会の中で揉まれるなかでそういうたくましさを培ったものだと聞きますが、テレビにどっぷり浸かって育ち、ゲーム
世代の走りでもあるぼくらには、どうもそういう力強さが相当程度、不足しているように思うのです。
そしてぼくらは“自由な個人”である前に集団に生かされている一員です。それは家族・学校・地域そして国家といったいろんなレベルの集団に、いったんある程度健全に同一化して、はじめて相対的に独立した個人でありうるということだと思います。そのどのレベルにおいてもですが、とりわけ「国民としての自分」というレベルで、ぼくらはそういう同一化にかなり失敗しているように思います。それは三八式殿が書いておられる、安易でかなり行き過ぎた個人主義的な価値観の教え込みということが大きいのと、やはりさきの戦争にまつわるイラショナルな心理的ブロックがあると思うのです。
だから軍歌…というのはむろん安直に過ぎるような気がします。しかし何らかのかたちで、やはりいまからでもそういう「発達の不足した栄養」を取り戻したいものです。いまからでも。
個人として、集団の一員として、そして“宇宙の子”として、弱腰なままじゃいやですからね。
しかし足りないものばかりブーブー言っているのはもっといやです。そういう目で見れば、ほんとうにぼくらは幸せな世代ですよね。