〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

JFK暗殺事件の真相――オズワルド単独犯行説の虚構を暴く 50 コナリー知事夫妻の最重要証言

2018年12月02日 | JFK暗殺事件について
 ○夫人が聞いた最初の「音」は、ライフルの銃声ではなかった。

 他の多くの証人が最初の「音」について「ファイアークラッカーと思った」などとしているのと同じように、知事夫人もまた「ライフルの銃声とは思わなかった。ただとても大きい”noise”だった」と語っている。
 ここの表現だけが「shot」(「銃声」ないし「発砲」)ではないことに注意したい。この点は以降の証言を通じて「first shot」との区別が曖昧になっているが、少なくとも事件発生の瞬間、夫人にとってこの最初の「音」は、銃声以外の何かだと感じられたのは確かである。

 夫人の銃に関する経験がどの程度かがこの証言の価値を左右することとなるが、それは確認が難しい。しかし、そもそも彼女がこの音を「ライフルの銃声ではない」と明言しているからには、その判断のもとになっている相応の経験が存在するはずである。
 日本の私たちと異なり、主要なレジャーのひとつがハンティングであるアメリカの、ことに南部人にとっては、たとえ女性であっても、いまも昔も銃は日常の一部であるだろう。ここで「私はexpert riflemanではないから」と語っていることや、後に出てくる「spent buckshot(射撃後の猟銃の散弾)」云々という用語は、彼女が銃声を聞き分ける程度の射撃経験は備えていたことを示唆している。

 にもかかわらず、スペクターらはその点をスルーし話題を転換している。この重要な点に関する追加質問がないのはどうしたことか? 一体、この「調査委員会」は真相を調査する気があるのか?

 先述のシノンは後年、質問者のスペクターにインタビューしており、一発説の「原点」を次のように聞き取っている。ウォーレン委員会、ことに一発説の主唱者であったスペクターにとって、それと完全に矛盾するコナリー夫人の証言が聞きたくないものであったことは、想像に難くない。

 スペクターはのちにワシントンでのヒュームズの宣誓証言を歴史的なものとふりかえっている。まちがいなく委員会の調査における転換点だと。このときはじめて誰かが「一発の銃弾説」と呼ばれるようになった仮説の輪郭を描いたからである。
 それはヒュームズが宣誓し、ザプルーダー・フィルムの齣の引き延ばされた画像を見せられたあとにやってきた。その画像は、あきらかに一発目の銃弾が命中したあと、ケネディの手が首元に上がる様子をしめしていた。ヒュームズは写真をちょっと見つめ、後部座席の大統領の位置と、コナリーが彼のすぐ前の折り畳み式補助席に座っている様子に注目した。
 「コナリー知事が故大統領の真正面に座っているのがわかります」とヒュームズはいった。「わたしは故大統領の首下部を通り抜けていたこの飛翔体が、じつはコナリー知事の胸を通り抜けた可能性を提唱します」。わかりやすくいえば、このとき病理医は一発目の銃弾がケネディと、それからコナリーに命中したと推測していたのである。
 突然すべてが腑に落ちた、とスペクターはいった。FBIとシークレット・サービスはケネディとコナリーがべつべつの銃弾で撃たれたと結論づけたとき間違っていたのだ。ふたりは同じ銃弾で撃たれた。最初に大統領の首を貫通し、それからコナリーの背中に命中した一弾に。ヒュームズの仮説は、オズワルドに射撃するじゅうぶんな時間があったかをめぐる委員会の混乱を解決するかもしれない。
(『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上』、354~355頁)


 ヒュームズの発言に「天啓」を受けたかのようなスペクターの奇妙な反応は、あたかもこうした発言が出るのを待ち望んでいたかのように感じられるほどである。しかし、ここでスペクターは同時に、ヒュームズ中佐の意見が確たる根拠のない思い付きによるものだったことをも明らかにしている。なぜなら、その根拠は「知事が大統領の真正面に座っていた」という一点にしかないことを語っているからだ。しかもヒュームズはこの聴聞の場で、次のとおり自らの発言した一発説を半ば撤回しているのである。

 ヒュームズは、ダラスから委員会が回収したもっとも重要な物的証拠としてスペクターが記憶することになるもの(委員会証拠物件399、二人を貫通したとされながら原形を保った件の「魔法の銃弾」)を見せられた…
 もしヒュームズの言葉が正しければ、CF#399はケネディとコナリーの両者に命中した銃弾のはずだった。スペクターはヒュームズにチューブの中の銃弾を見てくれといった。それがケネディの首の柔らかい組織だけに命中したと仮定して、その銃弾がコナリーのすべての傷もまた引き起こしたことはありうるだろうか? ヒュームズは最初、懐疑的だった。「それはきわめてありえないと思います」と彼はいった。…
 スペクターは病理医の反応に落胆しなかった――ヒュームズはたったいま委員会に提示したばかりの貴重な仮説からほとんどすぐに距離を置こうとしていた。
(同、355頁)


 確かに、スペクターとしては簡単に落胆するわけにはいかなかっただろう。この病理医の「思い付き」は、三発の銃弾をオズワルドが数秒以内に速射し、しかもその三発とも全て命中したという不可能を解決する、唯一の取っ掛かりだったからである。思いつきどころか、軍の支配下にある一中佐として、そうした発言が指揮命令系統を通じて「期待」されていた可能性すら考えなければならない。

 それにしてもこのヒュームズ中佐とは先のリフトン著でも触れたように、弾道学に特段詳しいわけでもない海軍の一病理医にすぎない。陸軍ならともかく、主として洋上における負傷等を扱う海軍の中央病院(つまり現場ではない)の病理医に、当時すでに骨董品ものだった小火器の弾道特性について、かく断言する資格が果たしてあったのか?
 しかもその彼は一発説の「物的証拠」を否定しているのである。
 常識的にいうなら、この人物のこの発言が暗殺事件の最重要部分を決定付けてしまうとは到底考えがたい。

 そんな「ヒュームズの仮説」でなぜ「突然すべてが腑に落ち」てしまうのか。それがなぜ「歴史的」な「転換点」になるのか。現在の視点からすれば、注目すべきはこのスペクターの不可解な「信じやすさ」のほうである。スペクターの発言自体が、そう信じて飛び付きたくなる状況が存在したということを示したものとなっている。
 ウォーレン報告書の最重要のキーとなっている「一発説」とは、はなからこんなふうに根拠薄弱なものであったのだ。

 ともあれ、スペクターが夫人の証言をスルーしたのは、そう考えればむしろ当然の、意図的なものだったのである。この調査委員会なるものは、早くもこの段階で、真相の調査とは反対の方向を向いていたことが、以上から理解できる。

 聴聞者側はこの最初の音を当然のごとく「第一の銃声」として扱っているが、そもそも証言は「ライフルの銃声とは思われなかった」としている。これは文脈からして「委員会の言っているような銃声には聞こえなかった」ということであり、つまり遠回しの表現で単独犯行説を否定しているのである。

 この点にこだわるのは、この夫人の証言は「《第一の狙撃位置》から消音措置が施された発砲があった」および「他の箇所からの銃声の偽装が存在した」との、本稿の推測を裏付けているからである。

 しかしだとするなら、この最初の音について夫・コナリー知事が即座に明確に「暗殺の企て」だと判断したのはなぜか、という疑問が生じる。
 そのことは知事の証言だけでなく、この夫人の証言における、最初の音のあとすぐに知事が発した「オー、ノーノーノー!」という声からも裏付けられる。なお、彼がこの時この叫び声を発したのは、あとで取り上げるジャクリーン夫人の証言でも確認できる。

 彼は他の人物と異なり、最初の音だけでただちに暗殺を察知している。これは一体なぜか。コナリーには戦時中に実戦経験があるが、あくまで海軍将校としてであって、”expert rifleman”としてでなかったのは明らかである。この判断には経験以外の何かが介在していると考えるのが適当であろう。

 このように、主要な事実に関してすら、夫人と知事の意見は一致しているわけではない。シノンがさも意味ありげに「知事は夫人の尻に敷かれて唯々諾々とその意見に従った」ということを書いているが、両者の証言を見ればそれが事実に反することはすぐわかる。
 あくまで推測だが、この瞬時の判断には、知事が現場に差し掛かる時点ですでに危険を予測していたことがあったのだと考えられる。

 これまで筆者にとって疑問だったのが、エルム通りに至るまでのパレードの車中で、シークレットサービスを除くリムジン上の四人のうち、ただ一人コナリー知事のみが、ひどく緊張感のある表情をしていることであった。とくに現場近くなるほどその表情は険しい。大統領含めた他の3人の屈託のなさに比べて、彼は険悪とも言える表情をしている。これはなぜなのか?
 夫人の証言から、その意味するところを読み取ることができる。


 *シノン著の表紙を飾った写真の再掲。ほかの人物と異なり、コナリー知事の表情は暗く緊張したものとなっている。

 知事がもともと危険情報に接して警戒していたとすれば、最初の「音」で彼がただちに襲撃の危険を察知したとする夫人の証言ともつじつまが合う。彼は州知事としてそうした情報を知り得る立場にあった。そしてパレード当日のダラスは、実際そうした警告ないし挑発に満ちていた。


 *パレード前にダラスで流布されたビラ。「反逆罪(treason)」とある。

 そもそも市警を配下に置いた現地責任者たる知事の職責として、軍やシークレットサービスなどの連邦の警備部門とは別に、当然パレードルートは事前に頭に入れておき、危険予測も行っていたことだろう。
 その中で、ルートの終端に当たるエルム通りの現場が狙撃にきわめて好適な、すなわち最も危険な場所であることは、地元の人間ならば一目瞭然である。

 当日の車列および沿道の警備が危険なほど手薄だということは、映画「JFK」でのX大佐の言葉を借りるまでもなく、パレードの写真・映像なとから素人目にも明らかである。
 大統領の命の危険は、とりもなおさず同乗する知事夫妻にとっての身の危険でもある。これで警戒しない州知事がいたとしたら、よほどの呑気者か無能ということになる。もちろん、コナリー知事の経歴からすれば無能どころではない。

 以上はあくまで推測であって、知事の証言は考慮する必要があることに変わりはない。しかしこう考えてみれば、「銃声には聞こえなかった」と語った夫人との証言の食い違いは、単に準備条件の違いだったとして理解が可能になる。

 ウォーレン委員会側は、聴聞の段階ですでに「知事は思慮の浅い夫人の意見に引っ張られて事実と異なる(=誤った)証言をした」と予断をしていたことが、シノンの著作から判明している。
 面倒なのであえて引用しないが、コミカルなようで、しかし根本的には女性の証言を軽く見ている書き方(要するに「オバチャンの証言など取るに足りない」ということである)を無視してみると、このことは、むしろ逆に知事と夫人が事前に話し合い、双方の証言を十分に調整していたことをうかがわせる。

 将来有望な野心的な政治家として、コナリー知事にそれ以上語ることのできない一線があったのは、立場や状況を考え会わせれば当然である。すでに大勢が決していた政府の公式見解を全否定するような発言は、政治家としてできない。
 実際、彼の証言はその点を巧みに回避しているように見えてならないものであった。そう考えると、奥歯にものが挟まったように歯切れの悪い知事の証言の真意が理解可能になる(そのことは後述したい)。

 彼は妻がこのように証言することを、当然承知していたはずである。知っていて、それを容認した。もし彼が真相を語り得なかったのなら、代わって夫人がそう証言することを望んだということになる。
 このように、シノンによる知事夫妻の信用失墜を目論んだ安っぽい解釈とは逆の意味で、二人の認識は一致していたと見るべきである。


 それにしても、再びシノン著について言っておきたい。繰り返しのようだが、なんと冗漫で批判精神の欠けた書きっぷりだろう。この本を読んでいて、事件の真相以前にうんざりしてくるのは、まずこうした焦点の定まらない記述である。

 そしてそれ以上に、ジャーナリストとして、委員会が「一発説」という予断をもって調査に当たっていたことへの追及はどうしたのか?
 証言について、それぞれが自身の経験を認識のままに語っているとしてまず尊重するのが、調査委員会の本来のあり方なのは言うまでもない。事件の最重要証言ならなおさらである。
 にもかかわらず、前述のとおりウォーレン委員長自身が、なんと委員の体験談をもとに、最重要のはずの知事の証言の信用性をはじめから疑ってかかっているという状態なのであった。

 シノン自身、知事夫妻の証言について「最重要証言」と書いている。
 だとすれば、知事夫人をまるで判断能力の薄い半人前として扱った女性軽視の60年代前半の常識への批判は、一体どこにあるのか?
 そして何より、その証言自体のあるべき再検討はどこへいったのか?

 ウォーレン報告の擁護を図ったこのシノンの「労作」は、委員会がまず結論ありきで予断と偏見をもって当初から調査に当たっていたこと、それを墨守している公式説がメディアを通していまだに当然のように流布していることを、図らずも立証しているのである。

 それこそ、まさにこの本の真の「50年目の証言」ということになるであろう。
コメント

書評 『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上・下』(P・シノン)

2018年11月29日 | JFK暗殺事件について
 P・シノン『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上・下』("A Cruel and Shocking Act: The Secret History of the Kennedy Assassination" ,Philip Shenon, 2013、邦訳2013年、文芸春秋)は、ケネディ暗殺50年を機に刊行された、渦中のウォーレン委員会関係者のインタビューを中心に構成されたノンフィクションである。



 邦題では「50年目の証言」と銘打たれているので、「すわ事件の真相公開か」と期待すると完全に肩透かしを食らう、公式説ベッタリそのまま、というかそれ以上の残念な本である。筆者も上巻を購入し、一読して直ちに後悔した記憶がある。(本書はなぜか図書館の「アメリカ政治史」などの棚にはたいてい置いてあるので、ぜひそちらを当たっていただきたい)

 オズワルドとキューバやソ連政府とのコネクション、それをCIAなどが監視下に置いていたことなどをもっともらしく取り上げることで、公式説=オズワルド単独犯行説を120パーセントまで補強することを企図したとしか見えない、まさに「五十年一日」の内容だと言って過言ではない。

 全体を論っていると果てしがなくなるので、本連載では関連する部分毎に、これがいかにオズワルト単独犯行説をあくまで維持せんとする、ある種のヒステリックな「護教論」であるかを見て行きたいが、とりあえずここでは概括的に一言しておきたい。

 しかし、それもまた結局徒労なのかもしれない。随所に見られる明らかな記述の綻びからすれば、そのことは著書・シノン自身が先刻承知のことだろうからだ。この一種の護教論は、おそらく間違いなく、「正統教義」が現実から遊離したドグマであることを熟知している人物が書いている。

 何より、これまで見てきたように例えばザプルーダー・フィルムの僅か一コマが、オズワルドの単独犯行を完全に否定しているのである。
 そうである以上、この上下二巻本の主張が真実に反するとの結論はもとより明らかである。膨大な根拠を持ち出して武装した本書の言葉は、それが執筆されたその瞬間に、すでに完全に無意味かつ無価値であったわけだ。

 奥付によれば、著者はこの本の取材・執筆に五年をかけて取り組んだのだという。明らかな虚偽を維持せんがために、いかに多くの労力と言葉が費やされていることだろう。
 それにしても、一体このシノンなる人物は五年もの年月をかけて何をしていたのか? まあ、人はそれが商売ならどんな汚れ仕事でもたいていは行うことはできる。それが「真実の隠蔽」という仕事であっても。

 さて、しかし膨大な資料の裏付けを持つという、その点ではしっかりできたその文献的な体裁から、予備知識がない読者には一定の説得力を持つことだろう。ただし、そのほとんどが報告書とその付属資料ならびに委員会関係者のインタビューで占められていることに、読者はまず注意を要するが。
 現に日本語版ウィキペディア「ウォーレン委員会」の出典は、大部分がこの本によって占められているほどだ。
 一方、英語版の「warren commission」の記事は、さすが本家と言うべきか、このシノン著は出典としてひとつも挙げられていない(いずれも、2018年11月時点)。まともに取り合うほどのものではないということだろう。
 この事件に興味のある方は、ぜひ念入りに眉に唾した上で、お読みいただきたい。

 それはさておき、真相追及の観点からはどれほど消極的で空疎な内容であっても、実務者レベルにおいて(意思決定レベルではない)「かくも問題あるウォーレン報告書がいかなる過程で生み出されたのか」を追及するという観点からは、これを読むことにもなにがしかの意味はあるだろう。

 要するに、この本の存在自体が、JFK暗殺事件を巡る言説において、現在も情報操作が公然となされていることを如実に示すものとなっている。巧妙化した現代版の世論操作に関する貴重な実例と言ってよい。
 本文からも嗅ぎ取れるように、著書・シノンの「大手新聞社の司法省、国防総省、国務省付きの記者」という来歴からは、彼が政府寄りの言論人であることが見て取れる。

 何より、本書の執筆の契機が、彼の9.11事件調査委員会に関する前著を見たウォーレン委員会実務者(ただし匿名)からの接触によるものだったことまで、ご丁寧に記されているのだ。
 スタートがそうだということ(それすら疑おうと思えば疑えるが)は、この本がもとから公式説を広報すべく構成されるのは当然だったことを示している。
 ここに「各種メディアを通じた官製プロパガンダ」という、この事件を巡る言説のお決まりの構図が露わになっている。

 この本では、報告の成立過程で悪戦苦闘する委員会関係者の、人間臭いユーモアを交えた、焦点の定まらない平坦な叙述が続く。この読みにくさは訳の問題ではあるまい。
 そして当時の委員会が迫り得なかった、オズワルドに関する上述の「限定暴露」が本書の最大の売りと言える。

 しかし読み終わってみると「ネズミ一匹」的な印象のそれらを除けば、実は多くのページが、シノンがいう「陰謀説」「陰謀論者」の否定のために割かれている。むしろ実質的な焦点はそちらにあると言ってもよかろう。
 しかしそこにはウォーレン報告以上の論拠はなく、あるのは印象操作による「陰謀論」の熱心なレッテル貼りだけである。
 例えば先述の名誉棄損裁判を戦い抜いたマーク・レーン(本書では「レイン」)については次のような調子である。
 
 蛙を口からはく男(見出し)
 …レインの非公式なケネディ暗殺の調査は、彼の本業となった。彼はケネディの暗殺犯としてオズワルド以外の方向を指し示す証人や証拠をそこらじゅうで探した。
 …(以下、証人の証言をレインが捻じ曲げたという事例が挙げられている)
 委員会の法律家たちも、ウォーレンと同じようにレインを軽蔑していた。デイヴィッド・べリン(委員会スタッフ)はレインが、「入念に養われた誠意の仮面」を利用して、ケネディ暗殺を「生涯の飯のたね」にしようとしていると考えた。ジム・リーベラー(同。彼については先述)はレインの戦術を、「しゃべるたびに不実な男の口から跳びだしてくる蛙の古い伝説」にたとえた。蛙は男の嘘を表わし、「人はそれをつかむためにあらゆる方向に走らねばならない」のである。
(同264~266頁)


 そして件のジム・ギャリソンとその裁判については、邦訳では「イカれた検事ジム・ギャリソン」という短いチャプターで取り上げているが、その見出しのとおりの内容(信用失墜を目的とした一方的な決めつけ)に終始しており、ここであえて引用する気も起きないほどだ。興味のある人は本書を当たっていただきたい。

 …いろいろ書いてきたが、要するに「これはひどい」という一言に尽きる。

 このように読後に空虚な印象しか残らない本であるが、しかし、公式説側からのいわゆる「陰謀論」への攻撃の論点のすべてが散りばめられており、事件後50年を経て、この事件の真の焦点がどこにあるのかを、皮肉な形で明らかにしているとも見ることもできる。


 以下、特に知事及び夫人の証言を委員会がどのように扱ったかを具体的に明らかにした本書のくだりは、ウォーレン委員会そのものの事件に対する姿勢を考える上で重要なので、適宜引用していきたい。

コメント

右も左も違うのではないか、『十七条憲法』理解

2018年11月28日 | サングラハ教育・心理研究所関係
 いつものように、岡野守也先生のブログから転載する。

 国の屋台骨が現実に大きく揺らいでいる今、何が「屋台骨」だったのかの再発見がこれまでになく求められているのは、多くの方が実感されていることと思う。
 ぜひ、下記の『十七条憲法』の現代的な意味に関する本文中の再掲記事をご一読いただきたい。

 なお、毎日新聞記事の是非についてはここで述べることではなく、ぜひ読者には両者を見比べてそれぞれにご判断いただきたいと思う。

 それにしても、私も学生時代に歴史学を学んだことがあるが、この毎日新聞記事はある意味で極めて典型的なので一言しておきたい。
 それは現代の常識に関し少しも疑いを持つことなく、その視点から過去をいわば上から目線で見下す、という自己相対化の視点の欠如である。

 「過去に民主主義は存在するわけがない(=だから無意味である)」
 「すべての個人的権利は近代以前には存在するわけではない(=だから無意味である)」

 対象を没価値的・客観視するのが科学的手法だというのだろうが、歴史とは実のところ史料から私たちが読み取るものでしかない。自己の内なるコンテキスト(個人主義的・近代主義的ヒューマニズム及び科学主義)に無自覚・無反省なまま、それが見出だしたものを「客観的」だとするこの欺瞞。

 それが端的に表れるのが歴史学だと、学生時代に歴史学科に在籍しながら思ったものだ。一体、そうした歴史学に何の意味があるのだろう。現実の世の中に何の意味も持たないという意味で、事実まったく無意味ではないか。
 実際、それが世の中から消え去っても、歴史学業界関係者以外は誰も困らないのだから、どれほどもっともらしいことを言ったところで、まったく偽善的な無用の長物でしかない。

 そういうアカデミックな偽善はこの危機状況下ですでに寝言でしかない。

 自己のコンテキストに自覚的に、歴史とは自己のアイデンティティそのものであるという本質をもとに、過去の高い理想をその核心として見出す試み――判断は各自がすべきことだが、この方法自体がきわめて正当であることは、心ある人はだれでも同意していただけることと信じる。

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 聖徳太子『十七条憲法』について、10月29日の衆議院本会議で自民党の稲田朋美氏が発言し、11月4日の毎日新聞に批判的な記事が掲載されていました(稲田氏の発言の動画はhttps://www.youtube.com/watch?v=k0UDVczATxo)。

 日本人の安定したアイデンティティを再確立するうえで『十七条憲法』は決定的に重要だ、と筆者は考えていますので、一言コメントをしておくといいと思いながら、研究所の会報誌『サングラハ』の原稿と講座の準備に追われて遅くなりました。

 結論を先に言えば、きわめて残念ながら保守派もリベラルも日本の精神的伝統(遺すべき・遺るべき側面)について、私とは見方が違うということです。

 私の学びえた範囲では、『十七条憲法』を含め日本の精神的伝統には遺して活かすべき部分と、歴史的記念物としてのみ遺すべき部分と、きっぱり捨て去るべき部分が混在していると思われます。

 それについては「赤ん坊と汚れたタライの水の譬え」がわかりやすいかもしれません。

 つまり、保守派は汚れた水と赤ん坊を一緒にタライに残しておこうとしており、リベラルは汚れた水と一緒に赤ん坊を流してしまおうとしている、ように私には見えます。

 そして、どちらも適切ではないと思います。

 赤ちゃんがどんなに大切でも、垢やウンチで汚れた水は捨てる必要があります。
 しかし、汚れた水と一緒に肝心の赤ん坊を流してしまったのでは、すべては意味がなくなります。

 では、何が赤ちゃんで何が汚れた水かが問題ですが、話が長くなりそうなので、先に以下毎日新聞の記事を転載・文字起こししておきます。

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  和を以て貴し……/天皇の命令は必ず
  1400年前 民主主義?

 稲田朋美.自民党筆頭副幹事長が10月29日の衆院本会議で、聖徳太子=写真=の十七条憲法から「和をもって貴しとなす」を引用して「民主主義の基本は日本古来の伝統」などと主張した。しかし、1400年前の日本に民主主義という考え方はあったのか。歴史をひもとくと、矛盾が浮かび上がる。【大村健一、佐藤丈一、小国綾子】

 稲田氏は安倍晋三首相の所信表明に対する各党代表質問の冒頭で次のように訴えた。「『和をもって貴しとなす』という、多様な意見の尊重と、徹底した議論による決定という民主主義の基本は、我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません」
 しかし、保立道久・元東京大史料編纂所所長(名誉教授)によれば、民主主義が世界で曲がりなりにも現実化したのは「20世紀の普通選挙の実施以降」という。「民主主義とは、平等で自由な個人が出自や職業などの相違を超えて宗教・思想などを含むすべての尊厳と自由を行使すること。前近代の世界に存在しなかったことは言うまでもありません」
 十七条憲法に国民主権や基本的人権の保障の規定はない。1条の「和をもって……」の後3条には「詔を承りては必ず謹め」(天皇の命令は必ず謹んで従うこと)と、民主主義とは椙いれない表現がある。
 8条には「役人は朝早く役所に出勤し、夕方は遅く退出せよ」、16条には「人民を使役するには時期を選ぶように」との趣旨の規定もある。
 東野治之・奈良大、大阪大名誉教授(日本古代史)によると、十七条憲法は「冠位十二階」と密接に関連しているという。同憲法ができる前年の603(推古11)年に創設された冠位十二階は、朝廷の役人たちを働きぶりで評価し、冠の色で識別する制度。憲法は役人の心構えを示し、勤務を励ます意味があつたと解釈できるという。
東野氏は「1条は朝廷で『和を尊ぶ』と理解できる。全体を見れば分かるが、庶民に向けた内容ではなく、現在の民主主義と結びつけるのは妥当ではない」と話す。
 江戸の商人や町人の美徳として語られる「江戸しぐさ」が、実は1980年代の創作だったことを明らかにした在野の歴史研究家、原田実さんは「稲田議員の主張は、今の保守層が『江戸しぐさ』を例にして、現代的なマナーや思いやりが『実は日本に昔から…あった』と主張したがるのとそっくり」と指摘する。「聖徳太子に民主主義の基本を求めるのは、これまでにないほどずさんな意見だと思う。『昔からあった』と主張するよりも、むしろ今の民主主義を誇れるものにすればいいでしょうに」


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 さて、どうコメントしようかと考えているうちに、2013年『ファム・ポリティク』という雑誌に掲載していただいた原稿に言いたいことをほぼすべて書いてあることを思い出したので、以下、現時点でのわずかな修正・追補を加えて、再掲することにしました。


   「日本という国について」

 混迷する日本

 今、日本には、経済、財政、福祉、環境などの各分野で問題が山積しており、そのどれを取っても対症治療的に対処して短期間で解決のめどがつくとは思えない。

 では、中長期にわたって、どう対応すれば真に解決の方向に向かえるのか、何を目指せばいいのか、与党にも野党にも方向指示のできる理念とビジョンはないように思える。
 そういう意味で日本のリーダーたちは方向性を見失っている、と私には見える(もちろん、ご当人たちは見失っているとは思っていないのだろうが)。
 そういう意味で日本という国は、混迷のただなかにあるのではないだろうか。

 そうしたなかで、そもそも日本という「国」は何を目指してきたのか、原点あるいは出発点と到達目標、そういう意味での「国家理想」はどこにあったのかを見なおしてみたい。

 未来のために過去を振り返る

 その場合、筆者は、予め伝統というだけで価値があると信じがちな保守派・右の姿勢も、逆に伝統であればすべて否定しがちな進歩派・左の姿勢も採らない。

 そうではなく、伝統のなかにほんとうに未来に向かって引き継ぐべき普遍的に価値あるものがあるのかないのかを確かめ、あるのならば意識的に引き継ぐという姿勢を採っている。
 モットー風に表現すれば、「未来に向かうために過去を振り返る」という姿勢である。

 与えられた頁数が少ないので、本稿では確かめてきた作業について述べることは省略し、確かめた結果について、以下できるだけ簡潔に述べたいと思う。

 日本初の憲法

 「日本」という国名が決まり、日本という「国」が確立したのは、ほぼ天武天皇の時代だと考えてまちがいないだろう。

 そして注目しておくべきなのは、まさにこの時代に、中国にならって正式の国史である『古事記』と『日本書紀』が撰述されていることである。

 好むと好まざるとにかかわらず、つまり自分の立場が右であろうと左であろうと、この二つの文献はまちがいなく日本の初と二番目の「国史」である(*より厳密に言えば、『日本書紀』が『六国史』という官製・正式の国史の一番目である)。

 さらに注目しておくべきことは、この二書はどちらも天武天皇の意思によって編纂されたことである。
 天武は、すでに『古事記』が出来ていたにもかかわらず『日本書紀』を編纂させたのである。
 それは、天武が国史として『古事記』だけでは不十分だと考えたことの状況証拠だと見てまちがいないだろう。

 では、天武以下、持統、文武、元正、元明――および特にいわば最終的な編集長としての藤原不比等――が、『古事記』に不足していると思い『日本書紀』で補足したものは、いったい何だったのか。

 論証の細部をすべて省いて私見を述べれば、もっとも重要な補足は、日本という国の理想のリーダー像としての「聖徳太子」(これはいうまでもなく後の時代に贈られた尊称で在世当時は厩戸皇子と呼ばれている)と、日本の国家理想としての『十七条憲法』だったのではないだろうか。

 『古事記』では、厩戸皇子は名前が記されているだけで、その伝記的物語や『十七条憲法』は採録されていない。
 それに対し『日本書紀』では、全体の叙述とのバランスからいえば異例といっていいくらい詳しく聖徳太子の事績が語られ、『十七条憲法』は全文採録されている。
 それは偶然ではなく、編纂を命じた天武と編集責任者の不比等の合意に基づく意図的なものであった、と考えるのが自然だろう。

 ここで一言コメントをしておくと、筆者は今日本史の学界では聖徳太子不在説が盛んであり、さらに『日本書紀』全体が天武というより不比等の意図によるほとんど全面的な創作であるという説があることも承知している。

 しかしそうした説の当否にかかわらず、筆者にとって――おそらく日本人全体にとっても――重要なことは『日本書紀』は日本の最初の正式な国史であり、しかも『古事記』にない事績が採録されており、その中に『十七条憲法』全文が含まれているということである。

 『憲法』とは、司馬遼太郎風に言えば「国のかたち」である。「この国はこうであるべきだ」「この国をこうしたい」という「国家理想」が明快に言語化されているものである。

 筆者を含め戦後教育を受けた世代は、「憲法」と聞くと現行の『日本国憲法』を思い浮かべ、あるいはそれに加えて否定・批判の対象として明治憲法・『大日本帝国憲法』を思い出すだろう。

 しかし、日本の最初の「憲法」はそのどちらでもなく『十七条憲法』なのである。
 もう一度言うが、好むと好まざるとにかかわらず、である。

 明治憲法は、欧米先進諸国がすべて自らの国のかたちを明らかにした Constitution をもっているのに対し、日本にはそれがないことは恥だと考え、主に伊藤博文が苦心を重ねてようやく編んだものであることはいうまでもない。
 その時、Constitution をどう日本語に訳すか、伊藤が考え抜いて選んだ言葉が『十七条憲法』に由来する「憲法」だったという。

 そういう意味でも、初めて「国」のかたちを明文化したという意味でも、『十七条憲法』はまぎれもなく日本初の「憲法」つまり国家理想なのである。

 だとして、こういうことにはならないだろうか。

 初めての憲法が優れているかいないかは、その国が少なくともスタートにおいて優れていたかどうかの決定的な基準になる。
 初の憲法がくだらない国は初めからくだらない国であり、初の憲法が優れていた国は少なくともスタート時点においては優れていた国であると言える、と。

 そしてとても幸いなことに、『十七条憲法』にはきわめて優れた国家理想が述べられている、と私は理解している……というか、ある時期から理解するようになった。

 和という国家理想

 それは、あまりにもそこだけが有名な冒頭の「和を以って貴しとなせ」(「なす」ではなく「なせ」と命令形に読み下すほうがいい)という句の「和」の意味するものが、人間と人間との平和はもちろん、実はさらに人間と自然との調和をも目指す、きわめて普遍的で、そのまま現代にも通用する、現代にこそ必要な、すばらしい国家理想の宣言であることに気づいたからである。

 右と左の偏見を排して、十七条全体を流れに沿って素直によく読むと、そう読める。(詳細は拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』大法輪閣、参照)

 まず、気づけば、「平和を希求」してきたのは『日本国憲法』だけでなく『十七条憲法』が先だった。
 しかも千四百年あまりも前に、『十七条憲法』は冒頭・第一条で「日本という国が最優先的に目指すのは平和である」と高々と宣言していたのである。
 そして、その平和は、国内はもちろん国際的視野における平和をも意味していた。

 加えて、現代的に表現するならば人間と自然が調和した「エコロジカルに持続可能な国家」をこそ、日本は目指さなければならないと、時代を超えて普遍的な到達目標の実現を呼び掛けていたのである。

 「和」という理想を現代的に言いかえれば、「協力・協調原理」である。
「協力・協調原理によって、国内外において平和で、エコロジカルに持続可能な国家を!」という理念・理想は、今、世界のすべての国が追求すべき国際社会の最優先課題を示している。
 そういう意味で、まったく古びていない、どころか、今こそ再確認して私たちが全力を挙げて実現すべき到達目標なのではないだろうか。

 私たちの日本という「国」は、そういう非常に高い国家理想を掲げて出発した国なのだ。
 そして、そういう高い理想をもったトップリーダーがいた国なのである(一歩譲って「という物語のある国なのだ」と言ってもいい)。
 そのことに関しては、歴史的なアイデンティティとして、私たちは権利を持って誇っていいのではないだろうか。

 もちろん、聖徳太子以後千四百年あまり、日本人がその国家理想を実現できたかどうかについては、ある程度実現できた時代もあれば失敗した時代もあり、特に残念ながら近代については大きな失敗をした時代だと評価せざるをえない。

 しかし、それは国家理想の実現を誤ったということであって、国家理想そのものが誤っていたということではない。

 戦後アメリカの日本人の精神性を根本から変えようという政策のせいもあって、私たちはその二つの違いを混同させられて・してしまったのではないだろうか(拙著『コスモロジーの創造』法蔵館、参照)。

 「和」という国家理想は、今こそ再発見し、再度目指すべき価値のある日本という「国」の原点でもあり到達目標ではないか、と筆者は考えている。

 だが、左寄りの『十七条憲法』=天皇絶対主義のバイブルという先入見からすれば、「そんなものは支配者と人民の本質的対立関係をごまかすための虚偽意識(イデオロギー)・綺麗事にすぎない」と思えるかもしれない。

 『十七条憲法』の民主性

 しかし、多くの誤解とは異なり、『十七条憲法』には、古代にあっては限りなく「民主主義」に近い発想がある。

 第一条では「上も下も和らいで睦まじく、問題を話し合えるなら」と、結論に当たる第十七条では、「そもそも事は独断で決めるべきではない。かならず、皆と一緒に議論すべきである」と述べられている(現代語訳はすべて筆者)。
 一貫して合議制が主張され、トップの独断・独裁は念入りに最初と最後で否定されているのである。

 さらに、例えば典型的には第三条、特に冒頭の「詔を受けては必ず謹め」という言葉は、従来左右どちらの陣営からも天皇の命令への絶対服従を要求するものと理解されてきたが、よく読んでみると、どうも違うのである。

 そうではなく、ここで語られているのは聖徳太子の世界観(コスモロジー)とそれに基づく統治論である。
 「君は天のようであり、臣民は地のようである。天は覆い、地は載せるものである」と、天地を比喩として天皇と豪族・官僚の役割が語られている。

 そこで問題は、天は何を覆い、地は何を載せるのか、ということだが、それに続く「四季が順調に移り行くことによって、万物の生気が通じることができる」という句を素直に読むと、天が蓋い、地が載せるのは、「民」さらには「万物の生気」である。
 つまり、君主の役割は天のように人民さらにはすべての生き物がよく生きられるよう覆うこと=庇護することにあり、官僚・豪族の役割は地のように人民やすべての生き物を載せること=背負いサポートすることにあるという。
 真のエリートの存在理由は、人々と全生命とがいつも・いつまでも生き生きと幸せに暮らせる持続可能な国を創ることにある。

 そうしたそれぞれの役割を知らず、君主の座を権力・利権の座と誤解してそれを狙い、「地が天を覆うようなことをする時は」、国中が「破壊に到るのである」と。

 こう読むと、以下の「こういうわけで、君が命じたなら臣民は承る。上が行なう時には下はそれに従うのである。それゆえ、詔を受けたならばかならず謹んで受けよ。謹んで受けなければ、おのずから事は失敗するだろう」という言葉も、人民を庇護するために下した詔つまり第一条の「和の国日本の建設という重大事項」に忠実に従うことを求めているのであって、無条件な独裁者への絶対服従・盲従を求めているのではないことがわかる。

 詳述できないのは残念だが、その他、憲法のいたるところに「百姓」や「民」への思いが語られていて、第十四条の終わりには「それ賢聖を得ずば、何を以ってか国を治めん」とある。
 「仁愛・愛民」を志とした「賢者(仏教的には菩薩)」による「民のための政治」が、聖徳太子の理想だったのだと思われる。

 もちろん、民主主義的代議制政治という制度も思想もない時代だから、リーダーは民によって選ばれるものではなかった。
 「人民の、人民による、人民のための政治」は、古代日本にあっては想像することさえ不可能だったろう。
 そうしたなかで、血、伝統、武力で決まった身分はやむをえない前提としたうえで、しかしそうした豪族たちが民のための賢者・菩薩的なリーダーになることを太子は望んだのである。

 聖徳太子とその憲法に、時代的な制約や限界があることは言うまでもない。
 しかし、それは「和」や生きとし生けるものすべてのために働くことを自らの志とする菩薩的リーダーという理想の価値を少しも減ずるものではない。

 それは民主主義をどう考えるかということにもなるが、筆者は、まず何よりも「民のための」が優先事項だと考える。
 「民の」「民による」ものであることが望ましいのは言うまでもないが、愚かな民が支持した愚かな民出身の愚かな支配者による民のためにならない政治(例えばヒトラー、例えばスターリン)よりも、賢者・エリートによる民のための政治(例えば上杉鷹山)のほうが、はるかに民主性があると言えるのではないだろうか。

 古代日本と異なり日本にはすでに形式としては「民の、民による」という制度はある。
 今日本に決定的に不足しているのは、中長期本当に「民のため」になる方向に向いた理念・志・展望をもった真のエリート・リーダーではないのだろうか。

 競争原理から協力原理へ

 すでに読者には気づいている方も多いかもしれないが、改めて注意を喚起しておく価値があるのは、冒頭にあげたような現代日本が抱えているいろいろな問題は、個々別々に発生しているのではなく、社会システムの欠陥が生み出している一連のシステマティックにつながりあった問題群だということである。

 戦後日本が採用してきた資本主義とりわけ近年の新自由主義的な資本主義は、競争を原理とする社会システムである。
 「競争原理」といえばいくらかスマートに聞こえるし、「努力した人が報われるのは当然だ」という言い方をすれば、一見当然に思えるが、実はそれは煎じつめれば「勝った者が生き残り、負けた者は死に絶える。それは当然のことだ」というきわめて野蛮な原理だったのである。

 それでも、一九七〇年代以降、高度経済成長―好景気を続けることのできた九〇年代までは、「パイが大きければ、取り分に差はあっても、全員満腹にはなる」という原理で、「一億総中流」という気分を生み出すことができた。そして、一億総中流という気分のなかで、日本はすでに十分福祉国家であるかのように見え、競争と不公平はかえって社会を活性化するものであるかのように見えた。

 しかしバブルの崩壊と失われた十年という長い不況の後、規制緩和、「官から民へ」(実は「公から私へ」のすり替えにすぎない)、雇用の流動化などなどの新自由主義的政策の推進によって、ようやく大企業と富裕層のみには景気回復が訪れはじめたかに見えたが、恩恵は国民全体に届かないまま、リーマン・ショック、ドバイ・ショックと続いた金融恐慌によって、日本はふたたび先の見えない長い長い不況時代に突入した。

 その後、ようやく大企業のみの当面の景気回復はしてきたが、国民全体の生活の質・幸福度が回復してきたようには思えない。

 競争原理の社会は、それでも好況の間は「余りを恵む」といった発想の福祉を行なわないこともなかったが、いったん不況になると財政がひっ迫し、理の当然ながら弱者・敗者を切り捨てる「格差社会」=非福祉社会になった。
 景気回復後も格差は縮まらずさらに広がるばかりなのではないだろうか。

 非福祉社会は、これまた理の当然ながら、少子高齢化、育児、教育、非行、引きこもりなどの心の病、自殺、介護、年金、医療、地域の疲弊、限界集落……に十分な対応はしない・できない。
 さらに財政がひっ迫すれば、「人間(経済と最低限の福祉)のことだけで手一杯で環境どころではない」と考えはじめるだろう。

 しかし中長期で考えれば明らかなように、エコロジカルに持続可能でない社会はまさに持続可能ではなく必ず崩壊するのである。
 「どころではない」といって済ませるような問題ではないのだ。
 かといって、環境のために当面の福祉を大幅削減することは困難である。環境のためにも福祉のためにも、豊かな財政が必要である。豊かな財政のためには豊かな税収が必要であり、豊かな税収のためには豊かな経済が必要である。

 だとすれば、今、日本という国に必要なのは、協力原理に基づいて経済と財政と福祉と環境が好循環‐相互促進するような社会システムを構想することなのではないだろうか。
 そしてそれは可能である、と私たち(「持続可能な国づくりを考える会」)は考えている(ブックレット『持続可能な国づくりの会――理念とビジョン――』参照)。

 そのためになによりもまず必要なことは、社会の原理を競争原理から協力原理へと根本的に変革することである(ただしその場合、経済分野のみ活性化に役立つ範囲で競争原理を許容し、社会総体は協力原理で行なう)。

 そして繰り返せば、幸いかつ不思議なことに、私たちの国日本は、飛鳥から奈良にかけて国のかたちが明らかになる段階で「和」という国家理想を掲げた国なのである。
 つまり協力原理、協力してすべての人・すべての生き物が生き生きと生きられる国を創り上げることこそ、日本という「国」の出発点でもあり到達目標でもあったのである。

 『十七条憲法』にもある言葉だが、日本ではもともと「国・国家」は同時に「公(おおやけ)・大きな家」であった。国家とは民たちが協力しあって共に生きる大きな家・国民の家であるべきだったのである。

 以上述べたような意味で、だから、今私たちは、自分たちの原点を再発見してそこに帰ることができるし、帰らなければならないのだ、と筆者は考えている(拙著『日本再生の指針――聖徳太子『十七条憲法』と緑の福祉国家』太陽出版、参照)。


(もっと掘り下げたもっと長い話に関心を持っていただける方は、ぜひ来年2月からの東京日曜講座にお出かけください。)

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JFK暗殺事件の真相――オズワルド単独犯行説の虚構を暴く 49 コナリー知事夫妻の最重要証言

2018年11月24日 | JFK暗殺事件について
○「音」や銃声は、すべてリムジンの「右」方向で起こった。

 陳述のなかで、夫人は銃撃について「右側から」と述べているが、これは三つの銃声(ないし「音」)の全てについて証言である。この「発砲音は右側から」という証言は、先に見た夫・コナリー知事の証言と一致しており、さらに先のザプルーダー映像からも裏付けられる。
 しかし、公式説によるなら、三発はすべてオズワルトのいた「真後ろから」でなければならない。証言はまずこの基本的な点でウォーレン報告書と矛盾している。


*この図は公式説に沿った3発の銃声の位置を十字で示している。しかしこれまで述べてきたとおり、ザプルーダー映像からはそれより前、おそらく矢印の先頭あたりからすでに銃撃は始まっていたと思われる。それらの位置から、いずれもオズワルドのいた「Sniper's Perch(狙撃手の巣)」は真後ろの方向に位置する。一方、そこから反対側の窓および「グラッシーノール」は、証言のとおりいずれも「右側」となる。


*アルトジェンズ写真を現代の光景に当てはめた画像。上記の車両と音源に関する「真後ろ」及び「右側」の位置関係が見て取れる。実際の射撃開始はこの時点でのリムジンよりかなり後方だったことに注意されたい。

 ウォーレン報告書提出に先立つこの聴聞会時点での動きが、すでに「オズワルトによる後方発射説」に収斂されていたことは、公式説ベッタリのかたちで委員会の「内情」を明らかにした、P・シノンによる『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上・下』(邦訳2013年、文芸春秋)から、次のとおり端的に理解できる。

 アイゼンバーグ(ウォーレン委員会の有力スタッフ)は化学を理解するのが難しいとは感じていなかった。…結局は、いくつかのごく基本的な物理学と化学と生物学の問題だった。「簡単な話だった」と彼はいっている。…彼は弾道学的な証拠がとりわけ簡単だと思った。ケネディとコナリーの体を貫通した銃弾がオズワルドの通信販売のライフルから発射されたことはほぼ一〇〇パーセントの確度で証明することができた。(同書364頁)

 スペクターはテキサス出張で医学的証拠についていくつかの謎が片付くことを願っていた。たとえば、パークランドの医師たちは最初なぜ記者たちに大統領の喉の傷が銃弾の入った傷で、出た傷ではないと示唆して、教科書倉庫からの銃撃の可能性を除外したのか? そして、病院の一階の廊下で発見されたほとんど無傷の銃弾の証拠の継続性はどうなのか?――ケネディとコナリーの両方の体を貫通したとスペクターがいまや信じている銃弾の。(360頁)

 コナリーの思い違い?(小見出し)
 …ウォーレンは自分の頭の中で一発の銃弾説を考えぬこうとした。彼は一九二〇年代と一九三〇年代にオークランドの地区検事局で、銃弾があちこちに飛んで体に入る――そしてひとりの体を貫通してもうひとりの体に入る――殺人事件にたくさんかかわってきたので、ケネディの喉から飛び出した銃弾がそれからコナリーに命中するかもしれないというのは、なるほどと思えた。彼はケネディに命中した銃弾が「肉をそのまま貫通し」、リムジンで彼の真ん前に座っていた男にじかに命中するのにじゅうぶん以上の速度を持っていたという主張に納得した。
 コナリーがべつの銃弾に撃たれたと信じているのは彼の思いちがいだとウォーレンは判断した――負傷によるショックを考えれば理解できる。「コナリーの宣誓証言にはとくにあまり信頼を置いていなかった」と主席判事はのちにいっている。彼はもうひとりの委員、ジョン・マクロイの言葉で自分の見解に自信を深めた。
(同371頁。以下、マクロイの第一次大戦の従軍経験での「兵が銃弾で重傷を受けても混乱で気づかない事例」に関するウォーレンの回想が続く)。


 いずれの人物も、彼ら自身が聴聞に当たった最重要証人の証言を信じることなく(上掲の通り、委員長ウォーレンはそのように明言している)、自分の読書経験(アイゼンバーグ)や後述の一海軍中佐の証言(スペクター)、そして同僚の思い出話(ウォーレン)によって、それぞれ「一発説」と予断していたのである。そのことを、後年のシノンは図らずも暴露しているのだ。
 それにしても、何と信じやすい人々だろう。このような薄弱な基礎の上に、オズワルド単独犯行説は構築されているのである。

 それはさておき、聴聞ではそもそも質問が単独犯行説を自明の前提としていて、複数あった内のどの銃弾かを特定していないのだから、「右」「後ろ」「やはり右」と、夫人の音源の方向に関する証言がブレているのも当然である。
 おそらく三発のうち、証言で焦点となっている一回目及び二回目の銃声(ないし”noise”)は、コナリー夫人にとって、証言の通り「右側―やや後方」からの音として感知されたのだろう。
 このことは、最初の「音」の発生源が教科書倉庫ビルの南西側角(オズワルトがいたとされる、ビルの南東側角とは反対側)であったとする、ザプルーダー映像等に基づく本稿での推測に一致する。
 たしかにその時点では、リムジンから見て「音」の発生源は右側やや後方となる。そこのことは先述の映像中の人物たちの反応が示している通りである。
 さらに三発目、大統領の頭部被弾が、彼から見て右前方に位置する、いわゆる「グラッシーノール」(草の斜面)からであったのなら、この証言はその状況をも正確に裏付けていることになる。
 ネリー・コナリー知事夫人が、暗殺現場での状況を正確に証言している蓋然性はこのようにきわめて高い。

 この「音は右側から来た」という夫人の証言は委員会にとってよほど都合が悪かったらしい。そのことは、質問のニュアンスからも容易に推察される。
 スペクターは途中で「後ろから」との言葉を引き出すべく明らかな誘導尋問を行っており、聴聞側として出席していた委員アレン・ダレスもまた、焦点をはぐらかす時間稼ぎの質問をしている。
 それでもネリー夫人が「右側から」との証言を堅持していることに注目したい。

 件のシノン著では、コナリー知事の証言について若干触れているが、知事夫人のこの最重要証言に触れたのはわずか8行。しかもこの「銃声の方向」という基本的な点について、一発説のストーリーそのままに、わざわざ次のように書き換えている。

 コナリーはさらに銃撃がすべて後方からきたと確信していた――テキサス教科書倉庫の方向から。(同370頁)

 彼女は銃弾が後方から――教科書倉庫の方向から――きたということで夫と同意見だった。「私たちのうしろから……右側の」(同370~371頁) 


 知事も、もちろん夫人も、そしてそのような証言はしていない。知事も夫人も、あくまで「音は右側から」としているのは、見てきたとおりである。
 当の委員会報告書本編ですら、後述のとおり「Mrs. Connally, too, heard a frightening noise from her right. Looking over her right shoulder, …」と認定しているのだ。
 同書は少し注意して読むと、一事が万事この調子で、ツッコミどころ満載であり、何だか楽しい気分にさえなってくる。その指摘だけで一冊の本が成立するに違いない。

 この本は「あくまで単独犯行説を維持しなければならない」と考えた、真の「ウォーレン委員会50年目の証言」を物語っているように見えてならない。


*シノン著の邦訳『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上・下』。それにしてもこの本の内容は極めて残念、というかはっきり言ってひどい。時間の無駄のような気もするが、一応購入してしまった者として、次回、その点について触れておきたいと思う。
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1〜3月の講座予定のお知らせ(サングラハ教育・心理研究所)

2018年11月22日 | サングラハ教育・心理研究所関係
 サングラハ教育・心理研究所の来年の講座について、岡野守也先生のブログから転載する。
 東京・香川方面の方はぜひご参加いただければと思う。

 東京の土曜講座は「日本人のアイデンティティはどこにあるのか」とある。
 特に、外国「人材」(この用語自体が議論の問題を端的に表現している)受入れの政策にかかわって切実に感じられるのが、私たちの内なるアイデンティティ溶解状態である。
 ひたすら目先の経済的指標最優先のために、「民族的アイデンティティとは何か」というもっとも本質的な問題を置き去りにして、ことが進められようとしている。

 講座案内のとおり確かに内向・右傾化は問題だが、この国にとって問題なのはむしろアイデンティティの拡散・溶融・崩壊のほうにあると筆者には見える。
 安倍・自民党政権はいわゆる「保守」とされるが、しかし彼らは一体何を保守しようというのか。あらゆることをかなぐり捨てて、目先の利益を「保守」する――要するにそれが安倍氏ら為政者のアタマの中にある本音であろう。

 この問題にかかわって、私たちが今一度、というか新たに、ここで認識することが強く望ましいのが「一体日本人のアイデンティティとはどこにあるか」という本質論である。
 それがいわゆる「明治維新」後に建設され、1945年に敗滅した大日本帝国にないことは言うまでもない。そこに帰ることを望む人は、よほどの変人でない限りいないであろう。では、それはどこになるのか。
 それが見えなくなっていることで、私たち日本人は、集団としての「日本人」として、ひいては個人として、明らかに自信を喪失している。

 「和の国」という国家理想、これは果たしてどういうものなのか。それは力ある代案たりうるのか。
 東京方面にいる筆者も受講しようと考えている。ぜひご参加いただき、ご一緒に考えていきたいと思う。

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 来年1〜3月の講座予定が決まりましたのでお知らせします。



 【東京】土曜講座 「日本人のアイデンティティはどこにあるのか――自信とやすらぎの基礎を築く」

 このストレスや不安の多い時代にあって、心に深い自信と安定感・やすらぎをもって生きるには、「私とは何ものか」への答え・個人的アイデンティティだけでなく「私たちとは何ものか」への答え・「国民的アイデンティティ」の確立も不可欠だと思われますが、下手をすると、それは危険なナショナリズム・自国中心主義に陥ります。

 世界的な自国中心主義の高まり・右傾化が危惧される中、右にも左にもある危険を超え、開放的・自他肯定的・融和的でありながらゆるがない「国民的アイデンティティ」をどう確立できるかは、私たち日本人にとって緊急の課題ではないでしょうか。

 そして、幸いにして私たちには健全な国民的アイデンティティ確立のための原点として、聖徳太子—聖武天皇・行基—空海・淳和天皇という流れで確立された「神仏儒習合」の思想とそこから描き出された「和の国」という国家理想があるのではないか、という研究所主幹の推論を改めて総まとめ的に述べ、皆さんとご一緒に話し合い、考え合っていきたいと思います。

 なお、講義の前に、短い時間ですが、やさしいやすらぎ瞑想の時間をもちます。

 2月2日 3月9日 4月6日 3回

▼講師:研究所主幹・岡野守也▼テキスト:随時配布。▼時間:13時―17時▼会場:フォーラムミカサ・エコ(JR神田駅西口4分、内神田1―18―12 内神田東誠ビル8F)▼参加費:一般=2万1千円、会員=1万8千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=1万2千円、学生=6千円(原則振込)▼最少催行人数:10名



 【東京】日曜講座「『摂大乗論』全講義」シリーズ6

 大乗仏教の深層心理学・唯識の代表的古典『摂大乗論』を現代的に―唯識心理学・コスモロジー心理学の源泉として―読み解くと、うつ、不安、怒り、憎しみ、争いといったネガティブな心がなぜ生まれるのか、どうしたらなくすことができるのか、はっきりとした方向性がわかります。
 (中途受講可。これまでの入門講義とシリーズ1〜5はDVDで学習できます)。

 2月3日 3月10日 4月7日 3回

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼時間:13時―17時▼会場:東京マインドルフルネスセンター(赤坂3―9―18 BIC赤坂ビル8F)▼参加費:一般=2万1千円、会員=1万8千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=1万2千円、学生=6千円(原則振込)▼最少催行人数:10名



 【高松】日曜講座「不安がやわらぐ心理学―― コスモロジーセラピーとは?」

 不安やストレスの多い時代にあっても、心のあり方しだいでやすらかに生きることができます。では、どうすればそうした強くしなやかな心を育むことができるのか、コスモロジー心理学・コスモロジーセラピーのアプローチを実践的に学びます。

 第一回目には、やさしいやすらぎ瞑想とやや進んだ坐禅の入門指導もあります。

 1月20日 2月24日 3月24日  3回

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼時間:13時半―16時半▼参加費:一般1万5百円、年金・非正規・専業主婦7千5百円、学生3千円(原則振込)
▼会場:1月20日 サンポートホール7F和室 2月24日 同53会議室 3月24日 同64会議室



 【高松】水曜講座「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間 ①」

 前期の入門編に続き、道元禅師『正法眼蔵』の言葉を学び味わい、イスでもできるやさしい瞑想をすることで、あわただしく悩みの多い日常をいったん離れ、深いやすらぎを感じる時間を持ちたいと思います。
 
 ▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼時間:19時半―21時▼参加費:一般7千5百円、年金・非正規・専業主婦6千円、学生3千円(原則振込)
▼会場:サンポートホール53会議室

 1月26日 2月13日 3月20日 3回



○受講申込方法(各講座共通)
 氏名、住所、性別、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記して、研究所あて
FAX:087‐899‐8178、またはメール okano*smgrh.gr.jp(*を@に換えてください)へ
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