〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

30代半ばに突入しての雑感など

2007-10-23 | Weblog
いま職場から帰ったのですが、(ブログ主はバス営業所に勤めているため朝~朝までの勤務)職場で33歳を迎えてしまった。きょうは朝焼けがきれいでした。

先に書きましたように33年ということは戦後の日本の歴史の半分以上はすでにしっかり生きてきたことになります。
が、それにしてはその実感があまりない…恥ずかしい話、実感としてはまだ23歳でバイトをやってたころみたいです。

これぐらいの年になると、今の価値観ですとなんだか「老けていくだけ」「責任でてきてつまんなくなる」みたいな感じがして喜べないものがあるのですが、考えてみればおかしな話です。
なぜなら、この考え方でいくと人生先に行くほど絶望的になっていくということですから。いやな話ですが、実際のところ私たちをとりまく状況というのはそういうことになっているのではないでしょうか。これは年をとるほど自殺が増えるわけだ。

封建的といわれる反面、年をとるほど心理的な安定度が保障されていた超成熟社会だった江戸期日本とは、まさに隔世の観があります。
これほど物質的に満たされながら、今の私たちは心理的に年齢相応に成熟することが難しいという奇妙な時代に生きているように思われます。
前の「ロスト・ジェネレーション」の記事でも書きましたが、やはり現代日本の私たちは、心を健全なかたちで形成し成熟するための精神的・内面的な糧を、おあずけをくらってずっと与えられてこなかった、ということではないかと思われますが、どうでしょうか。

これはあながち主観的印象ではないと思っているのですが、最近テレビとかでも現実生活でも、とくに65歳前後を境に、それ以下の年配の方のお顔が一様になんだか子供っぽくなっているように見えます。たとえば政治家の方々にそれは顕著に見えます。ちょっと昔の角栄さんとか福田さん(父)のいかにも「ガンコなオヤジ」そのものの面魂が、逆に懐かしいくらいで。
いうまでもなく、それは下って私たち同世代においてとりわけ、ということです。

さて、前の記事を読み返しまして、文字通り殺伐とした内容を書いたなと反省されました。ただ、このことはどうしても書いておきたかったものですから、自己満足ででもよかったと思います。が、やはりあまり読んではもらえない内容のようで、当たり前といえば当たり前なのですが残念です。

一昨日のNHKスペシャル「学徒兵の悲劇」をご覧になった方は多かったと思いますが、私が書いたこととはほとんど相反する内容だったと思います。あそこで語られていたこと、生き残りの方が語っておられたことはたしかに事実だったのだと思います。それはきわめて重いものです。
ああした痛切な問題意識抜きには、戦争の歴史を語ることはできないと感じました。

しかしそれがすべてではなくて、「歴史的事実」とはいま私たちが生きている現実と同じくきわめて多面的であり、そうした戦後の一面的な「語り」からほぼ完全に抜け落ち、今の私たちに見えなくなっている別のたいせつな側面があるのではないか、そしてそれらを包括し総合したものこそがあの歴史の凝縮された焦点をとらえる上での、総体としてのより妥当な事実認識となるのではないか、そしてそうすることが私たちの歴史的な自己認識にかかわるわだかまり・トラウマ・コンプレックスの核心部分を突破し超える一つの道となるのではないか、そういうことが言いたかったわけです。

さて、ともかく33歳というのはまちがいなく「いい大人」であり、彼ら自己犠牲をいとわなかった学徒兵からすれば10歳以上のはるか年長で、亡き私の父が結婚した年齢であり、職場で係長試験が受けなければならない年齢、…ということで、ちょっと時間の重みというのを感じる次第です。クリアしたい課題は実に多い。
肉体的以上に心理的なアンチエイジングがすでに常識・主流の昨今ですが、そんなガキみたいなことをいわず年齢相応の成熟を求めたいものです。そうすることで生きることもより楽しく充実したものになるのでしょう。

そういうわけで、これを機会に当ブログも変えていきたいなと思っています。
今後ともどうぞよろしく。

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