まとめ
このように四象限の枠組みから、人間集団の内面が歴史にとって不可欠の半面であったことが見えてくる。単純に「心を抜きに歴史が存在しうるか」と思考実験してみれば、それは事実だとしか言いようがない。歴史的事象は内面と外面で一体であるというこの原点に立ち返るならば、見失われた左下象限・集団的内面の領域を補完する歴史観が、意味も展望もある真にリアルなものとして今後正統性を持つであろうと当然に予見される。
その先駆的試みである岡野研究所主幹の仕事が、現代の歴史観の最有力の代案となりうること改めて見ておきたい(「日本精神史・四つの高峰」等の本誌連載を参照)。それは、文明の内面的基底に言語による世界形成=コスモロジーが存在すること、日本の伝統においてはそれが神仏儒習合のコスモロジーであったことを見出し、これを基軸として、古代の原点から現代に至る「精神史としての日本通史」を描き出す歴史観である。そこでは江戸文明が、聖徳太子の「和の理想」を核心とする日本的コスモロジーが時代的限界の中である程度まで現実化した、一つの到達点と位置付けられているが、そう結論するに足る根拠が、渡辺氏や鬼頭氏の著作には込められている。言い換えれば、両者の個別の洞察は、コスモロジーを基軸としたより包括的な歴史観の元に統合しうるのである。
近代化前夜の日本がどの地点にまで到達していたかを、私たち日本人はこれまでほぼ完全に見誤ってきた。江戸文明の到達点を正しく把握することで、日本の伝統的コスモロジーが三段階を経て崩壊したこと(岡野守也『コスモロジーの心理学』等参照)の真の意味、私たちが喪ったもののかけがえのなさが痛感されるとともに、貴重な先祖の遺産を蕩尽した果てに現代日本の「深層崩壊」ともいうべき惨状があることが、はじめて明確に認識できるのである。
(『文明としての江戸システム』鬼頭宏著、講談社学術文庫、二〇一〇年〔原本は二〇〇二年〕)
*機関誌『サングラハ』(サングラハ教育・心理研究所)148~150号より転載。
*同誌は下記サイトで購入可能。
https://www.dlmarket.jp/manufacture/index.php?consignors_id=9174
*講読は同研究所HP参照のこと
http://www.smgrh.gr.jp/?page_id=204
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