生活としての徳川文明
江戸時代中期以降に一般化した小家族による農業経営は、農民自らの責任のもと、狭小な耕地で不断の労働と改良により生産性向上を実現する「勤勉革命」をもたらし、このことはプロト工業化による非農業的生産の進展と結びつき、農民が富を獲得するチャンスを広げた。こうした状況のもと、庶民の生活の質が着実に改善されたことは、平均寿命の延伸や幼児死亡率の顕著な低下等のデータに示されている。本書はかくして実現した江戸システムが達成した生活水準を様々な面から取り上げているが、とりわけ注目すべきは食生活であろう。かつての「科学的」史観では「百姓は収奪され窮乏し、米を口にすることはできなかった」とされてきた。しかし米生産者が米を口にできないという、思えば不思議な事態が一体どのようにして起こったのか。本書は、現在の研究によって江戸時代中期までに米の主食化が成立していたことを明らかにし、こうした主張を過去の俗説に過ぎない否定している。
明治七年『府県物産表』によって検証してみよう。…主食生産量は、…飯用分を計算すると、一人一日当たり四百三十一グラムとなる。そのうち米の占める割合は六一パーセントであった。…幕末の長州も明治初期の山口もともに六〇パーセントを超える。山国で米の自給ができない飛騨では…飯用の米食率は五二パーセントと推計される。
明治初期に見られた米食率の水準はいつ頃達成されたのだろうか。一般に寛文・延宝期(一六六一~八一)以後、農民の米食と年貢余剰米が成立したとする見解がある。…享保・元文期に調査がおこなわれた諸国の産物帳によると、各種主食物の品種の組み合わせから、この時期の主食物の構成が明治初期の生産物の構成と近似していたことがわかる。…十八世紀初頭までには、米を軸とする主食構成が形作られつつあったとみてよいのではなかろうか。(二九四~二九五頁)
明治初期に見られた米食率の水準はいつ頃達成されたのだろうか。一般に寛文・延宝期(一六六一~八一)以後、農民の米食と年貢余剰米が成立したとする見解がある。…享保・元文期に調査がおこなわれた諸国の産物帳によると、各種主食物の品種の組み合わせから、この時期の主食物の構成が明治初期の生産物の構成と近似していたことがわかる。…十八世紀初頭までには、米を軸とする主食構成が形作られつつあったとみてよいのではなかろうか。(二九四~二九五頁)
さらに米価の長期的推移からも「(享保年間までには)米は供給過剰の状態にあったのである。…江戸時代後半に農民層へも広まっていた米食慣行は、この時期に定着したのではないか」と推測している。
こうして主食物生産量の六割を米が占めていた一方で、同時期の職業別有業人口の八割が「農」であり、武士階級の人口は七%、都市人口率は約一三%であったことが別に示されている。人間一人の食物摂食量の上限は階級とは関係ない。仮に総人口の二割弱が米を独占したとしても、「百姓が米を食べられない」ためには、米を大量輸出したか海洋投棄したとでもしなければ辻褄が合わないのである。
一体、民衆は飢えていたのか。この基本的に重要な点について、「一八七四~七七年の一人一日当り摂取熱量は、全食品で千七百五十八キロカロリー」であったと栄養学的な推計が挙げ、これを換算すれば当時の国民的な栄養の水準は概ね充足していたであろうと次のように結論している。このことは江戸時代の庶民の生活の質に関する最重要の基本的指標となるはずである。
幕末・明治初期の成人男子…が栄養不足から免れるには、一日二千四百キロカロリーを必要とすることになる。
一八七四~七七年の一人一日当たり千七百五十八キロカロリーは生まれたばかりの赤ん坊から高齢者までを含む前人口の平均値である。そこで人口の年齢構成を考慮して二十~二十九歳の成人男子を基準とする消費単位当たりの摂取量に換算してみると、約二千三百キロカロリーとなる。これでもまだ栄養不足になってしまうが、速水・山田推計は生産統計に基づくものであって野生動植物を含んでいない。焼畑生産物はかなり過小評価されているともいわれる。したがって、日本人の栄養摂取量は、千八百五十~千八百六十キロカロリーはあった可能性が高い。そうすれば幕末・明治初期には、国民的レベルでは栄養はほぼ充足されていたとみてよいだろう。(二九九―三〇一頁)
一八七四~七七年の一人一日当たり千七百五十八キロカロリーは生まれたばかりの赤ん坊から高齢者までを含む前人口の平均値である。そこで人口の年齢構成を考慮して二十~二十九歳の成人男子を基準とする消費単位当たりの摂取量に換算してみると、約二千三百キロカロリーとなる。これでもまだ栄養不足になってしまうが、速水・山田推計は生産統計に基づくものであって野生動植物を含んでいない。焼畑生産物はかなり過小評価されているともいわれる。したがって、日本人の栄養摂取量は、千八百五十~千八百六十キロカロリーはあった可能性が高い。そうすれば幕末・明治初期には、国民的レベルでは栄養はほぼ充足されていたとみてよいだろう。(二九九―三〇一頁)
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