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書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著) 6

2017-08-23 | 書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著)

 本書のキー・コンセプトは、こうして特に農村において成立した「プロト工業化」にある。市場経済の全国的浸透に伴うプロト工業による生産は、江戸時代後期までに各地で額面上で農業生産に比肩し、さらに凌駕するまでになっていただろうと本書は推測している。例えば、藩の調査に基づく研究で産業各分野の生産価額が確認できる、天保期(十九世紀中頃)の長州藩の状況は次のようであった。

 これらのデータからは「藩民総生産」を求めることさえできる。この資料を基に西川俊作氏がまとめた「長州経済表」によれば、長州藩の当時の農業生産高は、銀六万四千貫で総生産高の五二パーセント。一方、非農業生産(サービスを含む)は五万八千貫で四八パーセント。…〔明治初期の〕『府県物産表』をみると、山口県が特に工業生産を発展させていたというわけではない。そこからみて、長州藩程度の非農業生産は全国的におこなわれていたものと考えられる。(一八九―一九〇頁)
 〔長州藩の非農業生産について〕これを石高に換算すると七十二万五千石になり、領地高(内高九十八万八千石)の七三パーセントに匹敵する。文政期(一八一八~三〇)の広島藩については、非農産物(酒・鉄・塩・木綿・紙・扱苧・畳表)の生産高は三万二千九百貫、石高換算した五十四万七千九百石は、領地高(内高四十八万七千六百石)を凌駕していた。山間の諏訪藩は…文政期の生糸生産(一万一千八百石相当)は藩の領地高(内高四万五千九百石)のおよそ四分の一を占めていた。(二四一頁)

 この長州藩の事例で示されている表から、藩の総生産高の四八%に達する非農業生産物(林業・水産業を含む)のうち、製造業が総生産高の二三%を、運輸・商業・サービス業が一八%を、それぞれ占めていることがわかる。
 こうした状況が全国的に見られただろうことは、明治初期の全国物産統計『府県物産表』(明治六・七年、内務省)に関して本書の別の個所で示された数字からも大まかに推測できる。『府県物産表』で計上されていない運輸・商業・サービスの価額を、長州藩の事例での物的生産価額に対する割合(約二二%)と同程度として仮置きすれば、明治初期の全国総生産高に対する非農業生産は五一%、加工品製造は二五%となり、天保期の長州藩の事例と一致する傾向を取り出せるからである。
 江戸時代とは静的で進歩のない農業社会として漠然とイメージされているが、実態は農業を基盤として非農業的・軽工業的生産が進行していたプロト工業化社会であったことが、これらの事例から具体的に理解できる。重要なのは、プロト工業に従事することが、農民の富の蓄積を可能にしたとされている点であろう。

 「長州経済表」からわかるのは、年貢徴収制度の硬直性から、農民が非農業生産に従事することが有利に働いたことである。…単純に生産額に対する年貢率で計算すれば、農業には四七パーセントで、いわゆる五公五民に近い。しかし非農業については、二パーセントに満たないのである。両者を合わせて平均すれば、年貢率は二五パーセントでしかない。兼業や副業によって農民が非農業活動に従事することが多ければ多いほど、藩によって収奪される部分は小さくなる。(一九〇―一九一頁)
 藩による課税はもっぱら農業生産に対してであって、非農業生産に対する年貢率は極めて低かった。土地に対する年貢徴収の制度は緻密に作られていたが、工業・商業・運輸・サービスに対しては、合理的な制度が十分に成立していなかったのである。このことは非農業生産に従事する農民にとって、所得を増大させる機会を与えることになった。(二四一―二四二頁)

 著者はこうした江戸時代の経済発展について「非農業活動の規模と重要性が増し、ダイナミックな社会変動がもたらされ…農業社会の枠内ではあれ、市場経済が社会の隅々まで浸透し、その刺激により生産活動も人口も成長を遂げた」と、本書を総括する評価を述べている。
 一方、このように「生活革命」「消費革命」というべき事態が時代とともに広がり深化していったにもかかわらず、土地と農業生産を存立基盤とする幕藩体制は、政治思想の上でも実際の政策においても、ダイナミックに展開する経済的現実への対応に揺れ続けたことを本書は示す。「幕藩領主財政は…本来の市場の牽引力で発展していく民間経済の変容に適合的な体制ではなくなっていったのである」。

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