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私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著) 14

2017-09-09 | 書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著)
 著者はその執筆意図を「歴史を学ぶのは、現代をよりよく知るため」であると述べ、また現代の生態学的な危機を超えるため、現代日本が江戸時代の持続可能な社会に学ぶことを期待していると言う。実際、閉鎖環境下の狭隘な国土で、農業をベースに三千万を超える人口が長期にわたり生活水準を維持・増進しつつ、生態学的な均衡をも実現していたという驚異的な事実は、真に文明の名にふさわしく、私たち日本人はかかる先祖たちの達成をぜひ深く認識したいものである。しかし残念ながら、現代社会が「江戸時代に学ぶ」という事態は想定できない。そもそも人類が現在を反省し過去に学んだという実例、さらに今後学ぶという可能性がどれほどあるのか自体が疑わしいし、何より著者自身が述べているとおり、現代の文明システムは江戸のそれとは完全に異なる次元に達しているからである。つまり「歴史に学ぶ」ことに歴史を学ぶ意味はない。そのことに意味があるとすれば、ありがちな誤解を恐れずに言うなら、本質においてそれは社会集団の「物語としての歴史」を構築すること以外には考えられない。私たち日本人の長い物語において、果たして江戸時代とは意味あるものとして位置づけうるのか――本書は、それが一つの「文明」と称するに足るものであったと説得力をもって主張している。本書の真の意義はそこにこそあるだろう。
 渡辺氏の歴史叙述との関連を四象限モデルに位置づけるならば、心性の領域である集団的内面・左下象限から描き出したその「文明イメージ」に対し、鬼頭氏による本書はそれと縦軸を挟んで照応する「文明システム」を、集団的外面・右下象限から精緻に解析した試みである。逆に言えば、右下の外面的システムに完全に特化した本書の一面的な歴史叙述を真に「文明」の名に相応しいものとするには、左下の内面的コスモロジーの次元、すなわち喪われていた歴史の不可欠な半分を、新たに統合する必要があるだろう。いずれにせよ、両氏ともに人類史に位置づけられた日本歴史の一つの到達点として江戸文明を捉え、左右のそれぞれの象限から、極めて貴重な洞察を語っているのである。

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