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〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

見ざる聞かざるなのに言う

2008-06-14 | Weblog
それにしても例のバラバラ事件とアキハバラでの通り魔殺人、気になります。
孤立し鬱屈した「目立たぬ」男たちの、あまりにも軽いノリのあまりな凶悪犯罪。
一部ひじょうにわかるなと思わせるところがあるだけに、じつに嫌な気分です。

ところで、さいきんではほとんどいつものことですが、「すごい事件」が起こってもすぐに次の「すごい事件」の報道があって、すぐに記憶から風化していってしまうような感じになっています。

が、10年前はどうだったでしょうか?
例の神戸の少年の殺人のように、こんな凶悪犯罪が起こった場合には、ずいぶんながながと報道されていたように記憶しています。
では30年前は? もっと前はこの社会はどうだったのでしょう?

あきらかに日本人の心はひじょうに荒廃しており、さらなる荒廃の一途をたどっているように見えます。
これは報道だけでなく、ありふれた日常の風景や体験からもそう感じられてなりません。

が、それにたいしてよく聞くのが
「統計上犯罪数は目立って増えてはいない」
「いつの時代もそんなに変わらない・人間はいつの時代も同じ」
「報道がさかんになされるようになったにすぎない」
というような論評です。

しかしはたしてどうなのでしょうか?
これはどうにも私たちの実感にそぐわない。
まあ実感が正しいということは必ずしもないのですが、これに関しては明らかに違うような気がします。
なにかがおかしい。

で、それと同じ構造になっているように見えるのが、わりと最近まであったとされる(いまだにある?)「地球温暖化は人為的原因によるものとは証明されていない」「かつての時代にもあったこと」というような環境問題に関する否定論。

さすがにこれだけあからさまに悪化しているデータが示され、異変が日々実感され目に見えるようになると、こんどは「温暖化にはメリットがある」「適応できる」「ビジネスチャンスである」というふうに変わっているようですが…

これはようするに目前の危機を見たくない、怖い話は聞きたくないという心のメカニズムなのではないでしょうか。
そして「理性は感情の奴隷」といわれるとおり、その不安ははっきりと意識されないままで、そこにもっともらしい科学的な理屈が乗っかっていると。

見ざる聞かざるの集団的防衛反応。しかし抑圧された不安がベースにあるだけに、言葉はますます饒舌に声高になる。

内心不安でいっぱいな私たちはできたらそういう言説に飛びつきたいものです。
「いつの時代にもあったことだ」
…そうだったらいいなあ。
「いつの時代にもあったことだ」
…それじゃどうしようもないか。

こういうスケールが大きく深刻な事態に関しては、人間の実感を、科学が後から証明するというのが実際なのだと思います。
限られた認識しか持てない私たちは、その実感をベースに、何がより正しいのかを見定める必要があります。

…というふうなことをブログでいっていること自体が「見てるふり」になっているんじゃないのか? 
そういうわけで防衛機制は人ごとじゃないということですね。


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