国分寺駅を降りると徒歩2分で殿ヶ谷戸庭園に到着。
もともとは大正2年(1913年)に作られた満鉄副総裁な人の造った別荘。
昭和4年に三菱財閥の岩崎家が買収した。和洋折衷の回廊式庭園。
現在、七夕まつり中。入り口には、保育園児たちが飾り付けた七夕飾り
が。
同意見でございます。
駅から歩いて2、3分とは思えない、静かさです。
紅葉があり、紅葉の頃にはキレイそう。近間で紅葉の見れるとこを探しているので、ここも候補ですね。
庭園を後にして、国分寺へ向う。
不動明王、庚申塔のある不動橋を渡り右へ折れてゆく。このあたりは住宅地。奇妙な蝶につられつつ歩いてゆく。
20分ほどでお鷹の道に到着。
江戸時代寛延元年(1748)より国分寺市内の村々は、尾張徳川家(おわりとくがわけ)の御鷹場に指定され、慶応3年(1867)に廃止されるまで、村人の生活に多くの影響を与えていました。
崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小径を地元ではいつの頃からか「お鷹(たか)の道」と呼ぶようになり、現在は遊歩道として整備され、真姿の池などとともに市民に親しまれています。(説明板より)
というものの、観光客のマナーが悪いらしくあちこちに張り紙が・・・。
真姿の池とその湧水地域から流れ出す清水の用水路です。ここの湧水は名水百選にも選ばれています。おじさんがペットボトル何本も汲みまくっていました。
嘉祥元年(848)、不治の病に苦しんだ玉造小町が病気平癒の祈願のために国分寺を参詣しました。すると一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池で身を清めるようにと言って姿を消しました。小町はその通りに池の水で身を清めると病は消え、元の美しい姿に戻りました。めでたし、めでたし。真姿の池の名の由来になっています。弁天様が祀られています。
お鷹の道を抜けると、すぐ右手に国分寺があります。国分寺は1333年に戦火で焼失してしまった為、江戸時代になって再興されたものです。
楼門も東久留米からえっさほいさと運んできたものです。
また、境内には万葉植物園があります。
植物園というものの、境内に沢山の種類の植物が植えられているだけです。説明板はありますが・・・。この時期はもともと草ぼうぼうで、花も咲いてなく、なんだかよくわかりません。奥に進むと・・・。
蚊注意!!。怖いです。ものすごくでかいのでしょうか。いや、ものすごい大群!!。ということで引き返しました。
ということで、裏にある薬師堂へ。
仁王門でございます。市の文化財でございます。
仁王様です。あ。
仁王様です。うん。
今度は蜂ですか!!。
薬師堂です。
1333(元弘3)年、新田義貞が鎌倉に攻め入る時、分倍河原において、北条軍と合戦しました。この時の戦火で国分寺の伽藍はすべてが焼き尽くされました。
エラーい新田義貞は翌年、戦勝を感謝し薬師堂を寄進したという。全焼しておいて薬師堂だけとはなんと偉い人なのでしょうか。
さて、新田義貞が燃やした昔の国分寺のあったところへ向います。
金堂の跡です。東西幅は36.1メートル。でかいです。現存するものとして比較的大きい唐招提寺の金堂でも約28メートル。比叡山延暦寺根本中堂が37.6メートルということです(どこかのホームページより)。
寺はどの位の広さであったか結論は出ていないようですが、発掘調査などより、創建時は、東西900メートル、南北550メートルと推定されている(僧尼寺を含む)。
現在も発掘は続いております。
昔、ここには七重の塔もありました。礎石が残っています。
国分尼寺跡付近も保存整備事業が進められています。
尼寺は国分寺寺より小規模で、約160m四方と推定されている。
なんだか、平城京跡っぽい(意味不明)。
いざ、鎌倉へ。もとい、いざ西国分寺駅へ。
切り通し風の鎌倉街道を抜け、史跡通りを行くと西国分寺駅に到着。
まだ、早い時間でしたが、暑くなってきたのと、靴擦れも痛いので今日の散歩はこれにて終了です。
もともとは大正2年(1913年)に作られた満鉄副総裁な人の造った別荘。
昭和4年に三菱財閥の岩崎家が買収した。和洋折衷の回廊式庭園。
現在、七夕まつり中。入り口には、保育園児たちが飾り付けた七夕飾り
が。
同意見でございます。
駅から歩いて2、3分とは思えない、静かさです。
紅葉があり、紅葉の頃にはキレイそう。近間で紅葉の見れるとこを探しているので、ここも候補ですね。
庭園を後にして、国分寺へ向う。
不動明王、庚申塔のある不動橋を渡り右へ折れてゆく。このあたりは住宅地。奇妙な蝶につられつつ歩いてゆく。
20分ほどでお鷹の道に到着。
江戸時代寛延元年(1748)より国分寺市内の村々は、尾張徳川家(おわりとくがわけ)の御鷹場に指定され、慶応3年(1867)に廃止されるまで、村人の生活に多くの影響を与えていました。
崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小径を地元ではいつの頃からか「お鷹(たか)の道」と呼ぶようになり、現在は遊歩道として整備され、真姿の池などとともに市民に親しまれています。(説明板より)
というものの、観光客のマナーが悪いらしくあちこちに張り紙が・・・。
真姿の池とその湧水地域から流れ出す清水の用水路です。ここの湧水は名水百選にも選ばれています。おじさんがペットボトル何本も汲みまくっていました。
嘉祥元年(848)、不治の病に苦しんだ玉造小町が病気平癒の祈願のために国分寺を参詣しました。すると一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池で身を清めるようにと言って姿を消しました。小町はその通りに池の水で身を清めると病は消え、元の美しい姿に戻りました。めでたし、めでたし。真姿の池の名の由来になっています。弁天様が祀られています。
お鷹の道を抜けると、すぐ右手に国分寺があります。国分寺は1333年に戦火で焼失してしまった為、江戸時代になって再興されたものです。
楼門も東久留米からえっさほいさと運んできたものです。
また、境内には万葉植物園があります。
植物園というものの、境内に沢山の種類の植物が植えられているだけです。説明板はありますが・・・。この時期はもともと草ぼうぼうで、花も咲いてなく、なんだかよくわかりません。奥に進むと・・・。
蚊注意!!。怖いです。ものすごくでかいのでしょうか。いや、ものすごい大群!!。ということで引き返しました。
ということで、裏にある薬師堂へ。
仁王門でございます。市の文化財でございます。
仁王様です。あ。
仁王様です。うん。
今度は蜂ですか!!。
薬師堂です。
1333(元弘3)年、新田義貞が鎌倉に攻め入る時、分倍河原において、北条軍と合戦しました。この時の戦火で国分寺の伽藍はすべてが焼き尽くされました。
エラーい新田義貞は翌年、戦勝を感謝し薬師堂を寄進したという。全焼しておいて薬師堂だけとはなんと偉い人なのでしょうか。
さて、新田義貞が燃やした昔の国分寺のあったところへ向います。
金堂の跡です。東西幅は36.1メートル。でかいです。現存するものとして比較的大きい唐招提寺の金堂でも約28メートル。比叡山延暦寺根本中堂が37.6メートルということです(どこかのホームページより)。
寺はどの位の広さであったか結論は出ていないようですが、発掘調査などより、創建時は、東西900メートル、南北550メートルと推定されている(僧尼寺を含む)。
現在も発掘は続いております。
昔、ここには七重の塔もありました。礎石が残っています。
国分尼寺跡付近も保存整備事業が進められています。
尼寺は国分寺寺より小規模で、約160m四方と推定されている。
なんだか、平城京跡っぽい(意味不明)。
いざ、鎌倉へ。もとい、いざ西国分寺駅へ。
切り通し風の鎌倉街道を抜け、史跡通りを行くと西国分寺駅に到着。
まだ、早い時間でしたが、暑くなってきたのと、靴擦れも痛いので今日の散歩はこれにて終了です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます