
宮あおいと向井理による「ムコ」と「ツマ」の夫婦の映画、観てきたぜぇ。
ネットのレビューを観ると、原作を知らないとちょっと理解しにくい映画だということだったのでしっかり読破してから鑑賞に臨んだのですが、この原作小説がめちゃくちゃ素敵だった!
その良さを認めているためか映画は原作にかなり忠実だったと思います。
中でも良かったのは、冒頭と最後の夫婦の穏やかな日常を描いたところ。
貧しいながらも田舎の広い家に住み、家庭菜園を楽しみ、つつましいながらもおいしそうなごはんを食べる冒頭と、ラスト縁側でふたり並んでゆっくりお茶を飲むシーンは当たり前のようで貴い幸せな夫婦の姿で、「きいろいゾウ」の映画としてまさに観たかったものでした。
「奇跡とは、日常である。」
庭の木の「ソテツ」によるこのセリフはこの映画のキーになるセリフだと思う。
大切な人と一緒に過ごせる日常こそがある種奇跡のようなものであり、原作に出てくる絵本の言葉を借りていうのなら「こんなにきれいなものが、このよにはあるんだね」ということであり「水道水のようにありふれていて、途方もなく貴い。」ことなのです。
とっても幸せで当たり前のような暖かい日常を映した冒頭は特に原作に忠実で、ここだけでもう映画化の価値はあったと思うぜ。
ただ、もし映画単体で観ていたら正直言って「?????????!!」って感じだったと思うのも正直なところ。
「ツマ」がどうしてあんな風に壊れてしまうのか、「ムコ」は東京に行って何がしたかったのか、どうして大地君はまた学校に行くようになったのか、はたまたこの夫婦の関係はどうして奇跡のように貴いものなのか。
映画の中の情報だけでは、なかなか理解するのは難しいと思うなー。
「私の人生はあの日、全部収まってしまった。」
これは原作で最も強く共感して、深く深く感動したところ。
いろんな苦労があったり、孤独だったそれまでの人生が、大好きな人に認めてもらえることで全部チャラになってしまうようなスッキリする気持ちをムコさんに「全部収まってしまった」と表現するのが真新しいのにすごくしっくりきて、ゾクゾクするほど感動する!
それに対して映画では、このくだりがないせいでツマとムコがいかに互いにとって必要な存在なのかが著しく見えにくくなっててるんだよなー。
それに伴って大地君のエピソードも大きくカットされていて、ざっくり言うと原作の大地君は「妙に大人びてるくせに大人になることを極端に恐れていたけど、ツマ&ムコとの交流により大人になるのもいいもんだなと思うようになる」小学三年生男子で、ツマとムコの生活が奇跡的なほど幸せであることを客観的に感じる役であり、夫婦というものの貴さを読者に伝える重要な人物だったわけです。
代表的な場面としては、大人になることを受け入れて学校に行くようになってからツマに宛てた手紙の中の一節から。
「ムコさんや、アレチさんみたいに、だれか好きな女の人と住むことが、僕は大人のダイゴミだと思います。
わかる?なにをいいたいかよくわからないかもしれないけど。これはラブレターです。
やぶってすててください。でも、とっておいてくれるなら、とっておいてください。」
大人びているくせに大人になることを極端に怖がっていた大地君が、ツマとムコの日常を見て初めて「大人になりたい」と感じるようになったこと、そして子供のくせしてクールぶった大地くんのはっきりしない気持ちがそのまま文章になったこの言い回しにグッとくる!!!
これに対して映画版では、もともと大地君がそれほど大人性と子供性が複雑に入り混じっていることを描いていないためか「でもとっておいてくれるならとっておいてください。」をカットしていたのは仕方ないとしても、学校に行くようになった成長の意味についてサラッと済ませてしまっていたのが残念だった。
とはいえ、そもそも原作小説は文庫版478ページという尺の前半約半分を贅沢に使ってほのぼのとした幸せな田舎暮らしをたっぷり描いてからそれが壊れそうになるところを描き、そしてまた元に戻ることでよりいっそう日常の幸せを感じるという作りになってる。
つまり、ツマとムコの夫婦生活がいかに幸せなものであるか、お互いの存在によっていかに「収まっている」のかを序盤でとくと見せつけ、その貴さをしっかり理解させた上で一旦壊し、最後にはやっぱり「収まっている」状態に戻るということに感動できるのである。
一方映画版の尺ではそれは無理だからなのか、「収まる」タイミングを全く別のところに置いている。
映画版で「収まる」のはラストシーンで、晴れた日に縁側で一緒とお茶を飲み、ムコが過去に囚われて日記を書くのをやめて、自分に最も必要なツマはいつもすぐそばにいるとほのぼの感じるシーン。
何が言いたいかというと、起承転結のケツとしておいしいところを持ってきた形だったと思うんです。
映画と小説で違うということについて象徴的なのが、映画でいうと上映30分くらいの海に行くシーン。
ムコが毎晩書いている日記について聞きたいのにちゃんと教えてくれなくてツマは怒ってしまうけど、海についたらすっかり忘れて楽しくなってしまうという場面。
小説ではほのぼの生活のほんの一節で、後半に聞いてくるジャブではあってもその時点では重いシーンではなかったのだけど、映画版では車中のケンカの気まずい雰囲気を長回しにすることより2人が一緒にいる居心地の悪さを際立たせて、実は危うい関係であることを匂わせているわけで、穏やかで幸せな田舎暮らしを紹介した“起”に対して“承”の部の始まりとしているわけです。(小説版では長い長い“起”の一場面かね。)
もう一つ、小説と映画で見せ方がまるで違うなーというところとしては、
「ムコさんに忘れられない恋人がいるのは知ってた。」
というところなんだが、原作小説ではこれが出てくるあたりから「収まっていた」はずのネガティブな想いが溢れてくるわけで、ちょうど半分くらいで出てくるということもあり前篇・後編を分けるサインのような役割ですらあるように思えるけど、映画版ではこれ以前からツマはとっくに情緒不安定だったりして意味合いが違う。
何が言いたいかのかと言うと、実際にはそう簡単なつくりではないのかもしれないけど、映画化に際してストーリーを起承転結に区切って整理したのかなという印象を受けるわけです。
“起”幸せな夫婦生活、“承”だけど歪みもあります、“転”ムコ「東京行くから!!」、“結”ムコ「必要なもの、ツマ!」てな感じに。
大きく捉えれば小説版も話としての起承転結は同じなんだけど、“起”はだいぶ大盛りで、“承”もそこそこに“転”に移りハラハラさせて“結”ぶという少々いびつな骨組みの小説版に対して、映画版ではそのバランスを補正して、わかりやすい話にする努力をしたんだろうなという印象です。
その甲斐あって、「きいろいゾウ」の世界を映画仕様にコンパクトに描いている点についてはきちんと評価されるべきだと思う。
ただ、原作の素晴らしさと比べると少し物足りなさを感じるのも正直なところ。。。
ネックになったのは尺と、絵本のところだよね。
ツマが子供の頃に読んでいた「きいろいゾウ」が出てくる絵本。
空を飛べる孤独な黄色いゾウが、地上で仲間と群れて生きる普通の暮らしをする象も悪くないよねと気付くお話なんだけど、これだけでめちゃくちゃ感動的なんですわ。
絵本の体をなしてるせいもあって文章がいちいち印象的なのだが、いつも1人のきいろいゾウが、群れで生きてる普通の象を目の当たりにしたときの、
「ちっともさみしくなんてないけどさ、すこうしだけ、さみしいね」
て、これがめちゃくちゃ突き刺さるんだよ!!
映画版でも能天気な音楽を流してみたり、絵の感じはピッタリだったりと良かったんだけど、“絵本の世界”をイメージさせる媒体として分が悪かったのは仕方ないですな。
ということでかなり原作の肩ばかり持ってしまうのですが、映画も良かったと思います!
小説の文字だけの世界観を映像化するということ自体の素晴らしさを特に感じたのは、既に書いたように夫婦並んだ心地いい映像だったり、近所ののどかな風景、そして何より食べ物ですわな。
原作から「モッツァレラばか」のくだりは気になっていたのだけど、映画を観てからやはり衝動を抑えきれず、とはいえそういいものは買えないということで「ボーノ」のモッツァレラチーズとミニトマトで代用するという痛い形でまんまと影響されているわけですよ。

ウマー!
こんなんじゃなくて、普通に夕食を食べるシーンも良かったなー。
お肉少なめのメニューで、プリプリしながらセロリの漬物かなんかでごはんを食べる宮崎あおいはくそうざいのになんか素敵っていう役柄にうってつけだったと思います。
そんなこんなで長々と書いてしまったけど、自分にとってはかなり思い入れの深い作品となりました。
“日常の貴さ”を描いた、とっても大切な映画です。
もう上映が終わりかけているタイミングだけど、なるべく多くの人に勧めたい作品ですな。