【SSG】Pochi's EFC 【テレビ製作部】

Education For Children・Social studies groupの佐藤ツヨシの部屋☆

ぐったりフラッパー

2006年11月30日 23時40分03秒 | 日記
なんだか昨日から疲労困憊

さらに、うまくコミュニケーションに乗れず…

小さいことでイライラする

もっと甘えたいんだよー…ということに

近いのか遠いのか

とりあえず長い時間ダラダラとしていられる時間が必要

甘えなくてもいいか

長い時間ダラダラしたい

明日も学校

疲労困憊が風邪に繋がらないことを祈るのみ

言葉の感覚

2006年11月29日 17時52分33秒 | 雑記帳
このアンパン半分こね(・ω・)

と言われて

『じゃぁ私はアン食べるから』

と言われパンだけを渡されることはない(はず)

だし

俺もそんなこと想定しない


言葉の感覚だ


この話はバカらしいが深い

はず

『メディアリテラシー→ユートピア』考

2006年11月29日 00時26分13秒 | サブゼミ
Social Studies Group 2006・11・28

『メディアリテラシー→ユートピア』考~佐藤ツヨシが死にました。たぶん~
3年 佐藤ツヨシ

はじめに

 はい、こんばんは。大げさなタイトルにして今さら困っている佐藤剛です。今回のレジュメは佐藤ツヨシではなく佐藤剛が作りました。今までの考え方とは一旦、バイバイなわけで、じゃぁツヨシ君が書いたら面白くないね、と、マサル会議できまったもので。笑。ではスタート。

1 なぜ、メディアリテラシーか

 世の中には、ウソ<世間を誤らせるウソ>が蔓延している。少年の凶悪犯罪報道が増えれば、少年による凶悪犯罪が増えていると錯覚し、自殺報道、いじめ報道が増えれば、その数が増えているように感じる。少年は凶悪化しているか、自殺は増えているか、いじめは増えているか…。不安を煽る報道に限らず、ダイエット番組だって、本当かどうか疑わしいと思う場合もあれば、ウソとまでいかなくても、ある種の偏りを通して情報は流れていく。
 こんな世の中に騙されない、踊らされない、脅されない、そんな必要があるだろう。メディアに騙されない、情報を判別する能力、または、メディアを楽しみつくす能力をメディアリテラシーと呼び、その能力の必要性が現代を生きる人間の必須の能力であると考えられる。

2 情報の見え方~ある事実が、客観的に存在する?~
 
例えば…車爆弾が人混みに突っこんでいって爆発した、死傷者が多数でた…という話。これを、犯人をメッタメタに批判して終わる報道、事件事態は痛ましいものであるものの犯人をある程度擁護する報道。同じ事実でも報道の仕方によって見え方は違う。まぁ最初から<多数>ってのも主観なわけだし。客観報道は難しい、というかできないんじゃないか?最近は「~はすごい」「~はあぶない」等々、形容詞が報道の随所にある。「~は…である。」と情報の受け取り手が自分で考える機会が奪われている。ニーズなのか?


3 「メディアリテラシー→ユートピア」考

 さて、メディアリテラシーの必要性が次第に認識され始めている。しかし、みんながみんな、メディアリテラシーの能力を完璧に有している社会とはどんなだろうか。今の世の中から、ガーガー言っていれば意見を通らせることのできる、怪しげな団体の方々の声は一蹴される。ニュース報道だって、ウソばればれ…。
 あれ…なんか素敵?そうか?本当にそうか?「なにがしかの情報がウソかもしれない、ウソとは言わずとも情報の見え方の一つだ」という認識を持ったまま、コミュニケーションが取れるのか…「お前、その発言は~の部分、ちょっと本当と違うだろー!」「そう言ってるお前こそ、その発言の意図は~ということだろ!」「はたから聞いてたら、お前ら両方とも…」…という事にならないだろうか。ニュースにも新聞にも、ネットで飛び交う情報にも、友達同士の会話にも…懐疑的になりゃしないか…。
メディアリテラシーを完璧に身につけた人間が溢れかえる社会、そんな「ユートピア」…結構崩壊してます。やはりユートピアはユートピア、理想郷は実現しない方が良さそう。

4 メディアリテラシーで愉しむ

 なんだか、話がいろいろと飛んでしまって(それは今、俺の意識が飛んでしまいそうだ、という事実と密接な結びつきがある。)わかりにくくなってしまったので、メディアの特徴を整理していく。
① 人間が一人で生きていては得られないであろう情報をもたらしてくれる
② 難解な情報も、わかりやすい形で提供してくれる。
他方、困ったことに
③ 情報の伝え方に偏りがあり、特徴がある。
④ ③によって、情報の見え方が変わる。
情報は多面性であり、客観報道の実現は難しそうだ。世に出る、真実っぽい数字(数字データの方が客観ぽい)でさえ、客観的とは言いがたい。
 そんな多面情報をどう自分が処理するか。そこが重要なのであるが、メディアリテラシーは、情報を最後まで愉しむ基礎能力として考える。
 ニュース・新聞報道は、難しい情報をカンタン化して僕らに提供してくる。それをガーガーと批判するだけでは、僕が嫌いな人たちとなんら変わらないので、ニュース・新聞報道を必要悪と考えてみたい。すると、複雑な情報を我々にわかりやすく伝えてくれているということは結構評価できる。ただし「~と考えることもできる」ということであって「~である」という風に我々が情報を受け取るのは危険だ。主観的な形容詞も、その評価を下したからには説明責任が必要となるのでコレも情報の受け取り方を注意しなくてはならない。

ちょっと長い、おわりに

 情報が飛び交う現代にメディアリテラシーが必要とされている、ということは多くの人が合意していると思う。しかし「メディアリテラシーが必要」ということをメディアリテラシーしてみる機会は少ない。ということを考えると、これって正論だな、とかなんとか。代替案というか対案が思いつかない、やはり正論か?とか考えてみるが…思考停止の正論とは違うような違わないような。さて、じゃぁコレは、しつけのようなもので、「なんで靴を玄関で揃えて脱がなきゃいけないのか。」という誰も疑問を呈さず、納得するようなことなんじゃないか、と。メディアリテラシー=しつけ、わぉ…突拍子もないようななくないような。とすると正論ではない…のか。
 「メディアリテラシー→ユートピア」考は考え考え書いてみたが、結局のところ、関君、ちぃちゃんと話しているときからの進展はなかった、哀しいが。ただ、極端を考えてみることで、メディアリテラシーをどういう能力として捉えるか、ということに行き着いたような気がする。こういう風に言って、なんか成果が上がったような素振りを見せないと哀しい、ぶっちゃけ。
 人生を愉しむ基礎能力としてのメディアリテラシー、という結論に至った気がする。すると、「メディアリテラシー教育について」ということよりも、コミュニケーション論、若者論、といった方に流れてみたほうが良いのやもしれん…メディアリテラシー恋愛論、恋愛はメディアリテラシーなのね、きっと。メディアリテラシーを啓蒙するよりも、重要性をダダダっと伝えて、そういう方向に流れてみたら…メディアリテラシー普及を目的にするよりも考えてて楽しい。はず。恋愛で、大切に想う人を想うのも、気遣うのも、喜ばせるのも、メディアリテラシーだよね…とか考えると、オイラにはメディアリテラシーが足りないのやもしれん。
 こんな感じのレジュメでよかったのだろうか、結局、佐藤ツヨシは死ねませんでした。一度自分の考えを「カッコ」に入れて、今までの考えを少し突き放すか、否定するとかしてみたかったんですが…それはできませんでした。「メディアリテラシー→ユートピア」考…タイトルの時までは確実に佐藤ツヨシは死んでいたんですが…あぁ…一つ問題がありまして…英語科教育の関係で先生に大ダメだしをくらったそうです、明日模擬授業なのに。しかも、班員から詳しいことを書いた(らしい)メールが届いてません(送ってくれたらしいのだが)…あぁあ…もー知―らなーい。本当に死ぬやもしれん。
 
参考文献
内田樹『子どもは判ってくれない』文藝春秋 2006年
日垣隆「情報の『目利き』になる!」筑摩書房 2002年
仲正昌樹「『分かりやすさ』の罠」筑摩書房 2006年