なんとなく、フラクタル
~逆説的にキャッチー~
3年 佐藤ツヨシ
はじめに
ただいま、AM3:41、ブログにレジュメ情報を更新していたのに書き始めはたった今から…はたしてコレでよいんでしょうか?
さて、今回はメディアリテラシーを考えるという今期のテーマに合っているような、合っていないような…そんな気がするのですがこのテーマをやらせていただきます。
1 フラクタル
『どんなに微小な部分をとっても全体に近似している(自己相似)ような図形』(広辞苑)というものが一応のフラクタルの定義なんですが…図を用意してみました。その図の他に、リアス式海岸もフラクタル図形の1つとされたり、株価などの折れ線グラフもフラクタル図形を含むと考えられているそうです。これをもっと身近な部分に適応できないか…。
→ここらへん、フラクタルの図形の受けが良く、嬉しかったです。
2 なんとなく、フラクタル
自分について考えて下さい。あなたは何人いますか?大学にいるとき、地元の友達といるとき、バイト先にいる時、等々、あなたは何人いますか?
『何人いますか?』という問いは、『自分は決して1人じゃない』という答えがあるのではないか、と。つまり、自分の姿というのは、多くの面からなる多面体ではないか。しかも絶えず、更新して、自分は増えていくのではないか…更新…is not 更進。
さらに、これは、他の大きな(小さな)ものにも当てはめられないか?世界はみんな多面体で出来ている…はずだ!!
→ここも、図のウケがよく、嬉しかったです。
(図に関してはブログに載せたものをダウンロードしてから大きさ調整をしてみていただくのが良いかなと思います。)
3 情報の多面性
さて、多面性のもつ自分、人間の集まり、は、また、多面性をもっているということをなんとなく確認したように思います。
そして、多面性をもつ人間が作る情報にも、多面性があるのではないか、と思うわけです。それが、ウソかどうか、というわけでなく、多面性から多面性が生まれる、というのはある種必然ではないかなとか、勝手に思っています。
しかし、問題なのは情報が白黒はっきりした二元論のように思われている…とか、二元論でなきゃいけないってなんか思われてないかな…と。
『子どもの犯罪は親の責任か?』…というのはナンセンスだと思うんですよ。罪を犯した子どもはもちろん責任を問われるべきだけど、犯罪の兆候に気づかなかった親にも責任がある。でも、なぜか、そういう論調にはなかなか出会いません。
さらに言うと、『自分探し』というのは、自分のあるべき姿が1つある、という壮大な思い違いが、なんとなくその虚しさの原因ではないだろうか。
→ここは賛否両論欲しいところです。特に『自分探し』のくだりに。
自分探しは固定された1つの自分を探していくイメージが僕にはありました。
だけど、そうなると、正しい自分の姿を見つけるのは大変だなぁと、かなりしんどいなと
さらに、自分の可能性を限定してはいないか?と考えたわけです。
4 多面性の確認とメディアリテラシーのつながりを考える
さて、人間に多面性があるなら、そこから生まれた情報にも多面性があるのではないか、というのは上で述べましたが、それなら、その意識を持って情報に接するなら、それがメディアリテラシーではないかなと考えてみました。
多面性の理解と認識を進めていくと、日の丸・君が代なんかよりも『右に倣えの報道』なんかが、日本の末期症状なんではないか。昨年来、僕が声を大にして(そして涙を流した)訴えていた『共育』なんてゆーのも、それは結局『教育』の一面しか見ていなかったんじゃないか…と。
ある種のフレームワークに押し込められて、しかもそれが無意識なので、多面性になかなか気づけない、のではないか。自由に考えているつもりが不自由に考えたり、考えさせられたりしているのではないか。新聞しかりニュースしかり…。ただ、ネットの出現はその壁を少しずつ壊しているような気がしますが。
人間の、情報の、世界の、多面性に気づいて、認知していく、そして自ら情報を発信していくというのがメディアリテラシーではないか。ということを今回の結論にさせてください。
→ここは賛否両論いただきました
NHK対民法の図であったり、NHK的しがらみの話であったり
その他の意見も多々頂きました。
ネットの出現~のくだりも『確実性』や『特殊性』といった意見や
情報格差など、壁は厚くなっていないか?という意見もでました。
おわりに
今回は、こんな感じです。メディアリテラシーと多面性。つながったのか?つながってないか?そこらへんは疑問ですが、無理矢理考えると、正解か不正解かの2択しか用意しないのは、多面性の無視かなとか、言い訳を。
次回以降がどのテーマになるかはわかりません。それは佐藤ツヨシは節操がなく、意味なく意味無いウソをつくんですが…『こんな世の中、なんかおかしい』ということを軸にして、自分の意見を変化させていき、考えていきたいかなと思います。
節操はないが、軸はある。軸を基点に節操なく
『朝日新聞的節操のなさ』を掲げ、がんばります
参考文献
内田樹『寝ながら学べる構造主義』文藝春秋 2002年
仲正昌樹『ネット時代の反論術』文藝春秋 2006年
山田ズーニー『考えるシート』講談社 2005年
日垣隆『刺さる言葉』角川書店 2006年
村上龍『愛と幻想のファシズム』講談社 1990年
内田樹『子どもは判ってくれない』文藝春秋 2006年
おわりに
フラクタルとメディアリテラシーがつながるなら
メディアリテラシーと自分探しもつながるのではないか
次回の予定は未定ですが
フラクタル×メディアリテラシーでがんばります
いやね、自分探しはメディアリテラシーだと思うんですよ。
ご意見・ご感想・ご批判・ご指摘…バシバシいただきたく存じます。ではまた。
~逆説的にキャッチー~
3年 佐藤ツヨシ
はじめに
ただいま、AM3:41、ブログにレジュメ情報を更新していたのに書き始めはたった今から…はたしてコレでよいんでしょうか?
さて、今回はメディアリテラシーを考えるという今期のテーマに合っているような、合っていないような…そんな気がするのですがこのテーマをやらせていただきます。
1 フラクタル
『どんなに微小な部分をとっても全体に近似している(自己相似)ような図形』(広辞苑)というものが一応のフラクタルの定義なんですが…図を用意してみました。その図の他に、リアス式海岸もフラクタル図形の1つとされたり、株価などの折れ線グラフもフラクタル図形を含むと考えられているそうです。これをもっと身近な部分に適応できないか…。
→ここらへん、フラクタルの図形の受けが良く、嬉しかったです。
2 なんとなく、フラクタル
自分について考えて下さい。あなたは何人いますか?大学にいるとき、地元の友達といるとき、バイト先にいる時、等々、あなたは何人いますか?
『何人いますか?』という問いは、『自分は決して1人じゃない』という答えがあるのではないか、と。つまり、自分の姿というのは、多くの面からなる多面体ではないか。しかも絶えず、更新して、自分は増えていくのではないか…更新…is not 更進。
さらに、これは、他の大きな(小さな)ものにも当てはめられないか?世界はみんな多面体で出来ている…はずだ!!
→ここも、図のウケがよく、嬉しかったです。
(図に関してはブログに載せたものをダウンロードしてから大きさ調整をしてみていただくのが良いかなと思います。)
3 情報の多面性
さて、多面性のもつ自分、人間の集まり、は、また、多面性をもっているということをなんとなく確認したように思います。
そして、多面性をもつ人間が作る情報にも、多面性があるのではないか、と思うわけです。それが、ウソかどうか、というわけでなく、多面性から多面性が生まれる、というのはある種必然ではないかなとか、勝手に思っています。
しかし、問題なのは情報が白黒はっきりした二元論のように思われている…とか、二元論でなきゃいけないってなんか思われてないかな…と。
『子どもの犯罪は親の責任か?』…というのはナンセンスだと思うんですよ。罪を犯した子どもはもちろん責任を問われるべきだけど、犯罪の兆候に気づかなかった親にも責任がある。でも、なぜか、そういう論調にはなかなか出会いません。
さらに言うと、『自分探し』というのは、自分のあるべき姿が1つある、という壮大な思い違いが、なんとなくその虚しさの原因ではないだろうか。
→ここは賛否両論欲しいところです。特に『自分探し』のくだりに。
自分探しは固定された1つの自分を探していくイメージが僕にはありました。
だけど、そうなると、正しい自分の姿を見つけるのは大変だなぁと、かなりしんどいなと
さらに、自分の可能性を限定してはいないか?と考えたわけです。
4 多面性の確認とメディアリテラシーのつながりを考える
さて、人間に多面性があるなら、そこから生まれた情報にも多面性があるのではないか、というのは上で述べましたが、それなら、その意識を持って情報に接するなら、それがメディアリテラシーではないかなと考えてみました。
多面性の理解と認識を進めていくと、日の丸・君が代なんかよりも『右に倣えの報道』なんかが、日本の末期症状なんではないか。昨年来、僕が声を大にして(そして涙を流した)訴えていた『共育』なんてゆーのも、それは結局『教育』の一面しか見ていなかったんじゃないか…と。
ある種のフレームワークに押し込められて、しかもそれが無意識なので、多面性になかなか気づけない、のではないか。自由に考えているつもりが不自由に考えたり、考えさせられたりしているのではないか。新聞しかりニュースしかり…。ただ、ネットの出現はその壁を少しずつ壊しているような気がしますが。
人間の、情報の、世界の、多面性に気づいて、認知していく、そして自ら情報を発信していくというのがメディアリテラシーではないか。ということを今回の結論にさせてください。
→ここは賛否両論いただきました
NHK対民法の図であったり、NHK的しがらみの話であったり
その他の意見も多々頂きました。
ネットの出現~のくだりも『確実性』や『特殊性』といった意見や
情報格差など、壁は厚くなっていないか?という意見もでました。
おわりに
今回は、こんな感じです。メディアリテラシーと多面性。つながったのか?つながってないか?そこらへんは疑問ですが、無理矢理考えると、正解か不正解かの2択しか用意しないのは、多面性の無視かなとか、言い訳を。
次回以降がどのテーマになるかはわかりません。それは佐藤ツヨシは節操がなく、意味なく意味無いウソをつくんですが…『こんな世の中、なんかおかしい』ということを軸にして、自分の意見を変化させていき、考えていきたいかなと思います。
節操はないが、軸はある。軸を基点に節操なく
『朝日新聞的節操のなさ』を掲げ、がんばります
参考文献
内田樹『寝ながら学べる構造主義』文藝春秋 2002年
仲正昌樹『ネット時代の反論術』文藝春秋 2006年
山田ズーニー『考えるシート』講談社 2005年
日垣隆『刺さる言葉』角川書店 2006年
村上龍『愛と幻想のファシズム』講談社 1990年
内田樹『子どもは判ってくれない』文藝春秋 2006年
おわりに
フラクタルとメディアリテラシーがつながるなら
メディアリテラシーと自分探しもつながるのではないか
次回の予定は未定ですが
フラクタル×メディアリテラシーでがんばります
いやね、自分探しはメディアリテラシーだと思うんですよ。
ご意見・ご感想・ご批判・ご指摘…バシバシいただきたく存じます。ではまた。