“小春日和”
という言葉、わかりますか?
たぶん大体の人がわかると思います
ただし、全員が全員、自分で思い浮かべた意味は違うと思います。
さて、辞書の登場です
「小春の頃の穏やかな気候。日本付近が移動性高気圧におおわれたような気圧配置のときに現れる。小春日。
[季]冬。《玉の如き―を授かりし/松本たかし》」(大辞林 第2版より)
さて、これで、みなさんの思い浮かべた意味がグッと一点に集中してきました。
しかしながら
最初に思い浮かべた意味から
全員が辞書的意味の方向へ引き寄せられてしまったから
それぞれの意味が一点に集中してきたからであって
みなさんが個人で思い浮かべた意味からの変化が起こっています。
さて、最初に“小春日和”という言葉で思い浮かべた意味
つまり、自分言語的意味は
辞書によって、他者言語的意味に置き換えられ、共有可能性が増したことになります。
辞書は便利なのですが、
“小春日和”に込めた個々人にユニークな意味や内容を消してしまいます
辞書は自分言語を他者言語に翻訳する便利なものです
共有可能性が高くない限り、他者との意思疎通がとれないわけで
共有可能性は必要なのですが
これによって、ユニークさが消えていきます
あーーーー、ジレンマ、とか思いませんか?
共有可能性について、もっと考えないとシュタイナー論が進まないのです
がんばれ俺、がんばれ卒論、がんばれシュタイナー研究
という言葉、わかりますか?
たぶん大体の人がわかると思います
ただし、全員が全員、自分で思い浮かべた意味は違うと思います。
さて、辞書の登場です
「小春の頃の穏やかな気候。日本付近が移動性高気圧におおわれたような気圧配置のときに現れる。小春日。
[季]冬。《玉の如き―を授かりし/松本たかし》」(大辞林 第2版より)
さて、これで、みなさんの思い浮かべた意味がグッと一点に集中してきました。
しかしながら
最初に思い浮かべた意味から
全員が辞書的意味の方向へ引き寄せられてしまったから
それぞれの意味が一点に集中してきたからであって
みなさんが個人で思い浮かべた意味からの変化が起こっています。
さて、最初に“小春日和”という言葉で思い浮かべた意味
つまり、自分言語的意味は
辞書によって、他者言語的意味に置き換えられ、共有可能性が増したことになります。
辞書は便利なのですが、
“小春日和”に込めた個々人にユニークな意味や内容を消してしまいます
辞書は自分言語を他者言語に翻訳する便利なものです
共有可能性が高くない限り、他者との意思疎通がとれないわけで
共有可能性は必要なのですが
これによって、ユニークさが消えていきます
あーーーー、ジレンマ、とか思いませんか?
共有可能性について、もっと考えないとシュタイナー論が進まないのです
がんばれ俺、がんばれ卒論、がんばれシュタイナー研究